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ばいめた!~楽師トールの物語(サガ)~  作者: 冴吹稔
AD9世紀のマイスタージンガー
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デンマーク沿岸、竜船との死闘 (後編)

「アルノル、なぜ笑ってる? 座礁させたにも関わらず、奴らはたいしたダメージを受けちゃいない……何かまだ、打つ手があるのか?」


 なおもしつこく追いすがってくるロングシップと、アンスヘイム一の知恵者と讃えられる黄色い髪の男を見比べながら、俺は恐る恐る口を開いた。まだまだひ弱な現代人の範疇にとどまっている俺は別としても、ここまでの長丁場オールを漕いできた男たちも皆、それぞれ濃い疲労の色を浮かべている。

 だが、アルノルはそれでも自信に満ちた表情で俺たちを見回し、問いに答えた。

「ああ、マストは折れなかった。もちろん最初から期待はしていなかったさ。だが奴らは見ての通りまんまと罠にはまった。奴らの心には、『あの船にはうかつに近寄れない、何かまだ仕掛けを残しているかもしれない』という疑いと恐怖が刻まれたはずだ」


 言われてみて、俺も納得がいった。疑心暗鬼、遅疑逡巡。心中に迷いがあれば手が鈍る。折れたのは敵船のマストではない。


「皆良く頑張ってくれた。見ていろ、これから俺たちがどんな手を打つにしろ、奴らは面白いように迷い、判断を誤り、引っかかってくれるぞ」


 そして、とアルノルは芝居がかって天を指差した。


「俺は知ってる。この辺りの海域、この季節には必ず一日のうちで風向きが大きく変わる時間帯が来るんだ。ユトランドの陸地へ吹く風が島と岸壁に捻じ曲げられてな」

 ごくり、と誰かがつばを飲む音が聞こえた。俺だったかもしれないが緊張でもう判然としない。




「良いか皆。真後ろからの風に備えて、帆桁ヤードをまわせ。そう――」

アルノルが斜め上に空を見上げて、腕を大きく振った。


「まさに今だ!」 


 そのとき、船尾方向からどぅ、と空気が鳴り、これまでとうってかわった強い風が頬を打った。爪繰るようにじりじりと逆風の中を進んできた船を、今や順風が飛ぶように推し進め始めていた。

 一瞬の静寂の後、男たちが弾かれたように動き始めた。ばたばたと転桁索につき、風を最大に受けるように帆を調節する。帆を畳んだままの海賊船との距離が、瞬く間に開いていった。

 

「見たかトール! これがケントマント(海を知る者)だ!」

 

 自分の目の前で起きたことが信じられず、俺は呆然とアルノルを見つめた。

 突堤の戦いのときと同じ高笑いを響かせ、村一番の知恵者は魔王のようにマントを翻す。横静索の一本を掴み船縁に足をかけて、ようやく帆を揚げなおし始めた海賊のロングシップを一瞥した。突然の風向きの変化に、あちらの船ではさぞや驚愕していることだろう。


 三十路に差し掛かって妙に緩んできた涙腺が感動で決壊し、全身に戦慄が走る。なんという男だろうか。

 知恵者としての英雄像をヴァイキングの中に求めるとしたら、それは紛れもなく彼のような男に違いない。



「さて、ここで皆に訊きたい。俺の計略と風読みはこの通り図にあたった。だがこのままではいずれ風はまた逆転するし、奴らの船はなおも俺たちを追うだろう。接舷されれば終わり、となればもう一手が必要だ。どうすればいい?」


 アルノルの目にわずかに疲れが見えた。必死で気を張っているのだが、実のところ彼の思考力、精神力そして胆力はどうやら限界まで酷使されていたらしい。


「船を近づけずに戦うなら、弓しかないな」

「ああ、だがこの風向きでは奴らに届かん。それに軍船相手だ、大方は盾に弾かれる」

「矢もそんなに沢山は用意してないしな」

男たちが顔をつき合わせて次の一手を検討し始めた。だがどうにも決め手に欠ける。


 俺は空を見た。この数日、雲は少なくほとんど晴天で、船の上は乾ききっている。おそらく向こうも同じだ。そして、ここからでは良くわからないがあの黒い帆にも羊の脂肪が塗られ、防水加工されているのだろう。ならば結論は簡単。


 火矢だ。火矢を射掛けて燃やし尽くす。


 俺は周りの皆に問いかけた。

「奴ら、人数は多いしこちらの船と財宝を狙うのなら、とっくに矢を射掛けてきていいはずだ。だが連中が弓を用意する様子はない。何故かな?」

「ああ、ヘーゼビューは北欧で随一の奴隷市場でもある。奴ら、できれば俺たちを殺さずに生け捕りにして売りたいのさ」

ハーコンがむっつりとした表情で答えた。


「なるほど。じゃあよほどのことがない限り向こうから撃って来ることはないな? 

それと、船に詳しい者がいたら教えてくれ。ああいう長い船、それも大きな奴は、もしかしたらすばやい針路変更は苦手だったりしないか?」


「ああ……小型の船や丸っこいクナルに比べれば、向きを変えるのに手間取るはずだ」

ロルフが手を挙げて答えてくれた。



「ならば手はある。反転して大きく奴らの船の後ろへ回りこみ、火矢を射掛けよう。この天気だ、良く燃えるだろう」

「火矢!? 莫迦な、そんなことをしたらこっちの船まで燃えかねん! それに火をおこすには時間がかかるし――」


 なるほど、それで誰も言い出さなかったのか。


「それなら心配は要らない。俺にはこの――魔法の火口箱がある」

俺はポケットからガスライターを取り出し、彼らの前で火を点しまた消して見せた。まだこのライターを見たことのなかった大多数の男たちが、おお、とどよめいた。

「すぐに火が点くしすぐに消せる。もう油が残り少ないが、この戦いを乗り切るには十分だろう」

照井のライター、こんなに役に立つことになるとは。


 アルノルがいつの間にか俺のそばに来て、俺の肩を指が食い込むほど強く掴んだ。

「お前は何かやると思ったよ、トール。最後の一手、これで揃った」


 感謝するぜ、そう言いながらアルノルは、再び雄々しく身を起こした乗組員たちに指示を出した。

「スノッリとオーラブはトールと一緒に火矢の準備をしてくれ。残りの皆は帆を回せ。行き足を落とさないように、うまくやれよ! 進路、南南東へ!」


 順風をたっぷりとはらんだ帆が、大山羊号を軽やかに進めた。ゴルム翁は手練の技で小さく舵を切って、速度を落とさずに進路を敵船の側面へと斜めにとった。

 幸い、周囲の水面は広い。最初に航路を設定した時点で、ある意味この結果は決まっていたのだ。


 そう、北方人たちがしばしば口にする「逃れ得ない宿命の導き」だ。


「フリーダとシグリは、船倉の隅に隠れろ。万が一、矢を射掛けてきても大丈夫だ」

「分かった!」

ロルフが父親の慈愛を満身に湛えて、少女たち二人を安全な場所へ移動させた。


 魚油を染ませた亜麻布の切れ端を、鏃の後ろに巻きつけた火矢が数本、スノッリとオーラブの手で用意された。強風でも余り逸れないように、長く太いものだ。


「スノッリには悪いが、この矢は俺の弓でないと駄目だな」

オーラブがにやにやと笑って自分の弓を取り出した。小柄なスノッリの弓の、優に二倍はありそうな巨大なものだ。

「はん、まあ仕方ないか。俺はせいぜい奴らの舵手や指揮官を狙うとしよう」

「今回は戦利品が取れそうにない、残念だな」


 火の粉が船体に飛ぶとまずいので、着火は射撃の寸前に。そう打ち合わせて、俺たちは待機に入る。


「よし、奴らは間抜けだ。こっちが逃げにかかったと思って舵を切った。しばらくは減速するぞ」

 敵船はオールが折れた所為で、左右の本数が合わなくなっているらしい。衝撃で手首を傷めたものもいたことだろう。揚げたばかりの帆がようやく風をはらみ速度が上がりかけたところでの焦った転舵で、敵のロングシップは惨めなまでに精彩を欠いた動きになっていた。


(哀れだな。立派な軍船を持っていても、人数を恃んで頭を使うことを忘れればこんなものか)

 よたよたと旋回する敵船の鼻先を横切って、大山羊号は更に斜めに進路を切り返し、南西へ船首を向けた。ロングシップのおおよそ風上にもぐりこむ。位置関係はほぼ平行に船体が並び、進行方向だけが逆になる形。その距離、およそ60m。直射でどうとでも狙える距離だが、敵にまだ弓を用意する動きはない。



「よし、着火!」

ヨルグとシグルズがとりわけ丈夫な盾を選んでオーラブを両側から守り、俺が魚油の染みた亜麻布に火をつけた。

 矢の先からあがる油脂分の多い黒い煙を見て、敵船の甲板から息を呑む音と小さな悲鳴が上がる。


「帆の上辺を狙え――放て!」

弓弦がぶん、と短い音を立てて、火矢は一直線に敵船へ向かった。狙い過たず、帆の上のほうを突きぬけ黒い帆に火が燃え移る。手桶で水をかけようにもまず届かない高さだ。


「槍だけじゃないんだな、流石だ」

オーラブを賞賛すると、彼は得意そうにもう一本をつがえた。着火する間にスノッリが舵手ののど笛を射抜くのが見えた。こちらの帆にさえぎられて風が一瞬途切れたところを狙ったのだと、後に知った。


「よし、その火矢を射たら後は一目散に離れるべきだな……アルノル!」

「心得た!進路北西、行き足其のまま!面舵少々、ゴルム爺様頼んだぜ!」


 再び斜め後ろから順風を受け、大山羊号は軽やかに走り出す。二の矢は惜しくも外れたようだが、すでに帆はぼうぼうと燃え上がり、半分ほどが燃え落ちていた。あっという間だ。火の点いた索具が切れて甲板にも落ちかかり、炎上した船から何人かの人影が飛び降りるのも見える。


 日の傾き始めた海面に、海賊たちの怒号と悲鳴が長く尾を引いてこだました。




 しゅ、という小さな風きり音と共にオーラブがぐらりとよろめく。

「痛ウッ」肩を抑えてうずくまる巨漢の手には、突き立ったままの矢の軸があった。


「伏せろ!」スノッリが叫ぶ。

同時に、やや遅れて飛来した二本ほどの矢が、大山羊号の船尾に刺さって不吉な音を立てる。最後の報復にと射たものらしい。弓を持ったまま火に包まれ、恐ろしい形相でこちらをにらんだまま倒れる男の顔が最後に見えた。




 オーラブの腕から矢を取り除き、傷の具合を見て包帯を巻き終えると、ゴルム翁はやや安堵した顔で船首にいる俺たちのほうへやってきた。彼は数多くの戦で友の戦傷を見てきたのだ。


「毒矢の類ではないようだ。熱を持ったり膿んだりしなければ、大丈夫だな」


 どうやら、オーラブを射た矢はぎりぎり有効射程外から放たれたものだったようだ。命に届くほどの傷ではない、という。

「だがもしかすると、最悪、これまでのように左右両腕で同じように槍を投げることはできなくなるかもしれない」

「なんてこった」オーラブと仲のよいスノッリが俯いて肩を震わせた。堂々と立って射撃していたため、長腕のオーラブは最優先目標として狙われてしまったのだ。


 村の誇る戦士の運命にわずかな影を落としつつも、海賊との死闘を俺たちはどうにか切り抜けた。交易に携わればこんなことは日常茶飯事だと、ゴルム翁が憂鬱に笑う。


(オウッタル、貴方が言っていたのはこういうことなのか?)

自由よりも平和と安定が必要なこともある――彼はスネーフェルヴィクでそう言った。俺にはまだ答えが出せない。そもそも、それは天秤にかけていいものなのか。



 再び逆転した風の中、大山羊号はゆっくりと、だがすべるような足取りでカテガット海峡を北上し、ノルウェーの南岸、ヴェストフォルの地へと向かっていった。



 ゴウランガ!


 アルノルage回でした。ケレン味がいやみにならない程度におさまってるかどうかはちょっと不安。でもまあ、いろいろ読んでると18世紀ころの熟練の航海長って、これに遜色ない天候予測の精度や細かな水路への知悉を誇ってたようなので、作者的にはそこそこリアルな内容でもあるのですw


 だいぶ前に某所で「海戦をちゃんと書けるのかどうか」と案じておられた方がいらっしゃったのですが、この前後編はその懸念への一応の解答でした。お気に召しましたら幸いこの上もありません。


 割と典型的なプロットを使ってしまったので、今後別の海戦を書くときに違いが出せるよう、またネタを仕入れておかねばと思っております。


追記・

8月8日:説明不足な感じのある部分など、若干加筆修正しました。

8月25日:スノッリの矢が命中した理由を書いていなかったことに気がつき、補足しました

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