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ばいめた!~楽師トールの物語(サガ)~  作者: 冴吹稔
AD9世紀のマイスタージンガー
25/102

ムスタファの楽器店

今回やや短めですが、一日2回目の更新ですのでそこはまあ、お手柔らかに。

「あまり気負うなよトール。あんたは村の男連中の中じゃ一番貧乏なんだ。自覚しろ」


 ガハッ。


 宿へいったん戻るその道すがら、ヨルグが無慈悲に言い放った一言は、俺に多大なダメージを与えた。確かに冷静に考えればその通りだ。ノミスマ金貨2枚を貰ったとはいえ、せいぜい30万円相当程度の流通価値。何年もヴァイキング活動に出て財をなした男たちとは資産の規模でまるで異なる。


 結局俺がシグリの杯の買い戻しに手を出すのは、勇み足と自己満足でしかない、ということだ。だがそうせずにはいられなかったのだ。


「工芸品の目利きって難しいのね。あれがガラスだなんて分からなかった。でもあのお姉さんの言うことが本当なら、宝石よりもすごいガラスってことなのかな」

シグリの何気ない言葉がひどく優しく聞こえる。平静を装って俺は答えた。

「ああ、多分な。せっかくあの親方がシグリの耳に入らないように教えてくれたのに、俺が台無しにしてしまったようだ。杯の正体についても、値切りについても」


「みんなの気持ちだけで私は嬉しい。ありがとう、でもお金のことはロルフ父さんに頼んでみるから、心配しないで」

「――ヨルグはいいのか?」

「俺はとりあえず立替払いをしただけだ。それにロルフは俺の叔父貴だ、理由はある」


 ここも血縁か。まったく村落社会の狭さといったら。

「じゃあ杯のことは親戚のお兄さんに任せるか。だが買い取り金には俺も一口入れさせてくれ。俺の今持ってる金は結局みんなの助力で得たものだからな」


「まあそれは構わんぜ。もっともあの戦いは、みんなにもいい気晴らしになったみたいだがな」

「そうか」


 ふと胸に落ちる。


 結局のところ、一行の誰もが多かれ少なかれ、ここしばらくの成り行きに苛立ちと無力感をかこっていたのだろう。


 だから、フリーダが駆け込んで知らせた明快でわかりやすい「敵」の存在に対して、あんな風に狂騒的に団結して迎え撃つことができたのだ。戦いの熱が治まって程よく冷えた頭で、俺はそんな考えを頭の中で漂わせていた。

 まあ今となってはどうでもいい事かもしれなかった。バルディネスとダーマッドは手勢をまとめて洋上へ去ったし、フォカスは無事にイレーネと合流できた。懐はノミスマ金貨とディルハム銀貨でずっしりと膨らんで、左腰には切れ味鋭いハザールの刀がある。こんな時代で生活する身としては、満足すべき状態に違いないのだ。





 帰り道はやや散漫に、市場を大回りしてあたりのテントを冷やかしながら歩いていたのだったが、立ち並ぶテントのなかに、ひどく俺の目を引く奇妙なものがあった。


(えっ。これは……)


 動悸が激しくなる。ちょうど人間の腰の辺りほどの幅で、梨を半分に断ち割ったようなボリュームのある曲線で構成された、木工製品。腰が抜けかけた。


(ギターがこんなところに!?)

魅入られたようにふらふらと陳列台に近づく。店主はどういうつもりなのか、他にもインド辺りにありそうな紐で皮の張力を変えるタイプの太鼓や、管の数の少ないバグパイプに似た楽器など、雑多な種類の楽器が他のガラクタに混ざって陳列されていた。


 穴が開くほど見つめているうちに、やはりギターとは微妙に違うおかしなところが目に付き始めた。これは一体なんだろう。

 リュートのようにも見えるが、この時代にまだリュートはなかったはずだ。それに大きな特徴であるヘッドの取り付け角度が、リュートのそれとは違って直角よりも浅い。


 疑問は陳列台の影に座っていた男が、俺に気がついて立ち上がったことで半ば解けた。

彫りの深い、浅黒い顔にくっきりとした黒い眉の秀麗な顔立ち。頭を覆う色鮮やかなぐるぐる巻きのターバン。アラビア人かトルコ人か、いずれにしてもイスラム教を奉じるサラセンの商人に違いない。


(アラビアの辺りでこういう楽器といえば……ウードか?)

 リュートの原型になったとされる楽器である。俺が写真で見たことのあるものにはフレットがなかったが、もしかするとフレットを有する亜種が存在したのか、あるいはこの時代にはまだフレットがあったのかも知れない。


 彼が座っていたところの床には、小さいが豪奢なつくりの絨毯が敷かれている。おそらくこれからメッカの方角を向いて礼拝を行うところだったのだろう。俺は少しあわてて、手振りで礼拝が終わるまで待つ旨を伝えようと試みる。


 少々いぶかしげにこちらを見たあと、彼は絨毯の上に深々と額づき、よく通る美しい声でコーランの朗誦を始めた。


「ヨルグ、アラビア語は分かるか」

「いや、さっぱりだ。アルノルなら分かるんじゃないかな?」

またアルノルか。どれだけ超人なんだ、あいつは。

「すまん、呼んできてくれ……このテントの売り物を買いたいが、言葉が通じない」

俺は相当に思いつめた顔色をしていたらしい。ヨルグの眼から面白がるような色は即座に消えうせ、シグリの手をとって急ぎ足に歩き出した。

「アルノルは多分今日もうちの売り場にいるはずだ。待ってろ、すぐ呼んでくる」


「恩に着る!」

 上ずった声であとを見送る。ちらちらと楽器のほうを見た。ニスがかかったあめ色の木材に午後の光が反射して美しい。ナットとブリッジはおそらく象牙、指板には堅牢そうな暗い色の木材が使われ、これも象牙らしいフレットが白く輝いていた。欲しい。今すぐにでも腕にかき抱いて優しく荒々しく弾き鳴らしたい。その渇望はすでに、欲情に近かった。




 もどかしい待機のあと、ようやくアルノルが姿を見せた。

「ここだったか。いやあ、少し探したよ。この辺りは似たようなテントが多くてなあ」

「忙しいところすまない、あの楽器を買いたいんだ。店主との通訳を頼みたい」

なまめかしい曲線を見せる楽器を指差すと、アルノルはなるほど、とうなずいた。


 アルノルを間に立ててのややこしい会話は少し省略しよう。店主の名前はムスタファといった。


 ムスタファ・イブン・アリー・アッ=グレキ。


 バグダッドから長旅をしてきた雑貨屋だが、音楽が好きで、中古の楽器を仕入れては修理、手入れして売っているらしい。目の前にあるギター様の楽器は、やはりウードだという。

 

 俺は感動していた。こんな北欧のど真ん中まで、アラビアの商人がやってきて、ヴァイキングは彼らを相手に苦もなく商談を行えるのだ。そして、目の前にある楽器の完成度の高さ。大切に使われたものと見えて目立った傷もなく、作られてからの年月を物語るようにニスや木部がこなれた感じの柔らかな表情を見せる。

 前触れもなく吹き付けた微風に、ガット弦が震えて胴に共鳴し、なんともいえない異国風の音を響かせた。もう我慢できない。


「ちょっと試し弾きさせてくれ」

俺は手を合わせ頭を縦にガクガクと振って、ムスタファに頼み込んだ。彼も好きだけに分かると見えて、快くウードを手渡してくれる。

 開放弦でまず1ストローク。

 

 低音側からDGADGC、といったところだろうか。ギターに比べるとかなり癖のあるチューニングに感じる。最低音部の6弦以外は1コースに2本の弦が張られた複弦式で、ちょうどマンドリンのような響きになる。ガット弦なのでその分は差し引き、金属弦のきらびやかさはないのだが、それでもギターとは異なった趣だった。アンプが使えるわけではないし、このくらいのほうが音量が大きくなるのは間違いない。


 涙が出てきた。不慣れなチューニングの施された弦を手探りし、昔バンドでの練習の合間に手遊びで弾いた、お気に入りのフレーズの断片を再現してみる。指が滑ってイレギュラーな音を出したりもしたが、慣れてくるにつれてウードは俺の情念に追従するように甘やかに歌い始めた。

 ムスタファははじめ可笑しそうにしていたが、俺が楽器になれてまとまったフレーズを再現できるようになるにしたがって、その表情が次第に真剣なものになった。

「ほお、初めて触るとは思えん腕だな。いささか落ち着きに欠ける感じもあるが」


「ムスタファさん。こいつを売ってくれ。あんたはすばらしい商人だ、これはきっと神のお引き合わせに違いない」

自然にそんなせりふが口をついて出た。


「アッラーは偉大なり。アッラーの御心のままに」

アルノルがうまく訳して伝えたらしく、ムスタファは敬虔な表情で俺に頷いて見せた。


(しかし、このチューニングのままではなんとも弾き難い)

 6弦ギターの開放弦は、一般的なものではEADGEB。他は弦のテンションを度外視するとしても、4弦のAとDの差はいかにも大きすぎる。

「ガット弦を自作して自分で張りたい。製法を教えてもらえないだろうか」

そう尋ねると、ムスタファは流石に複雑な顔をした。

「済まないが弦の製法はたやすく明かせない……教えたところで貴方がそう簡単に上質のものを作れるとも思えない。必要ならここに買いに来ればいい」

秘伝なのだろう、まあ仕方ないが、ガット弦が切れやすいことは俺も知っている。その度にヘーゼビューへ足を伸ばすのも不便極まりない。


 はっと気がついてコートのポケットを探る。どこかに突っ込んだまま忘れてるはずだ。果たして右の低い位置にある内ポケットの中に、防水ケースに入ったままのそれがあった。


 ギターの開放弦に合わせたレギュラーチューニング用の調子笛だ。幸い金属製のリードはこの数ヶ月の過酷な環境下でもどうにか錆びずにいてくれた。


「次に来るまでに、この音程の弦を用意して欲しい」

調子笛を吹いてみせると、ムスタファは注意深く耳を傾け、口で小さく歌って音程を確かめた。相当に音感がいいと見える。ちょっと羨ましい。


「大体分かった。一月もあれば注文のものを十分に用意できるだろう。少なくともそのくらいの間は私はここにいる」

「ありがたい、ではとりあえずこのウードと、代えの弦を二揃い売ってくれ」


 商談がまとまった。ディルハム銀貨で14枚だ。金を渡そうとすると、ムスタファはちょっと狡そうな光を眼にたたえて言った。

「もし持っていたらだが、ノミスマ金貨かディナリ金貨をお持ちならそれで払ってくれると嬉しい。ああ、いやもちろん釣りは出す。金銀の換算比率の違いで、こちらで金貨を得て持ち帰ると、バグダッドでは少し多目の銀貨に両替できるのでね」


「それはいい事を聞いた」とアルノルも悪い顔になる。「ベザント――ノミスマで払ってやれよ、トール」

「まあ、俺は異存もないが」

羊の皮でできた、ソフトケースとでも呼ぶべき袋に楽器を収めてもらいながら、俺は快くノミスマ金貨をムスタファに手渡した。

「これはいい金貨だ。磨り減ってないし色もいい。ありがとう」

「どういたしまして。おれは楽師のトール、トール・クマクラだ。またこの町に来たらよろしく頼む」


「こちらこそ」ムスタファはそういいながら、ふと何か気がかりを見つけたように考え込んだ。

「ふーむ……貴方たちはあちこちへ交易に行くのか?」

「ああ、風が吹く限りどこまでもな」アルノルが気取って答えた。


「ならば……次に来るときに、良かったら琥珀を少し手に入れてきてくれないか」

「琥珀を?」

「ああ、楽器本体や弦の表面に塗って保護する、ニスに添加して使うのだ。もし持ってきてくれたら、弦作りの秘伝を教えてもいい。この町ではほとんどを宝石細工師が買い占めてしまう」

「分かった、何とか探してみよう」

「頼むよ、油に溶かして使うから、あまり質のいいものでなくても大丈夫だ」


 何度も握手と抱擁を繰り返したあと、俺たちはムスタファの店をあとに宿へ向かった。

背中の袋には思い返すも美しい、梨の果実のような、涙のしずくのようなウード。ふと古典的なSF小説に登場する、涙滴型の宇宙船を思い出す。


 コメット――


 そうだ、このウードの名前はコメット(彗星)と名づけよう。


 この後長く俺の手にあって音楽を奏で続けた楽器、忘れえぬ相棒あるいは伴侶との、これが最初の出会いだった。

27話目にしてやっとギター(?)の登場。セイウチ牙のナットは夢に終わりましたが、これはこれでいい楽器です。ウードに興味をもたれた方はネット上の動画サイトでウード演奏の動画を探してみてください。

 ルネサンスリュートよりもう少し現代のフラメンコギターなどに近しい、ダイナミックでスピード感のある演奏をお楽しみいただけるかと思います。

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