デーネヴィーケの彼方へ
「オノォレ、ヴァリャーグ供!」
ハザール騎兵のリーダー――あのダーマッドと呼ばれていた隊長格の男が、憤然と吼えた。
その全身から黒い炎が立ち上った。そんな錯覚を呼び起こすほどの凶猛な殺気をまとい、馬上にあるかのようなスピードで、盾の壁までの距離を一気に駆け、詰め寄る。
すでにヴァイキングたちの前に立っている騎兵の姿はなく、突堤の幅に交戦人数を制限された彼らはただ機械的に屠られ、倒されていた。盾の途切れる壁の両端には特別に手練の戦士二人――ハーコンとグンナルが陣取り、今しも壁の前の死体を次々と槍にかけて海へ処分し続けている。信じられないほど一方的な戦いだった。
ダーマッドはその死体が取り除けられ開いた足場へと、血糊を一顧だにせず踏み込み、特別あつらえの物らしい片刃の長剣で、大きく体を開いて閃電の一撃を見舞う。
しかしその斬撃は意外なほどあっけなく、重なり合った盾に阻まれ弾かれて――その反動を利用した勢いで体を翻し、左手に帯びたもう一刀が振りぬかれる。
「危ない!」
思わず俺は叫んでいた。
何人もの騎兵の顔面に食い込んで断ち割り、敵に強い印象を与えたシグルズの巨大な片手斧。その斧頭がいやな音を立て、半分に割れて破片が壁の前へ落ちる。
だが次の瞬間ハーコンの槍が横から伸び、ダーマッドの革鎧を掠めて左腕の肉を大きくえぐった。
「駄目だ駄目だ」
剣を落とし片膝をつくダーマッドに、アルノルが高笑いを浴びせた。
「あんたの剣技と、相手を威圧する気迫はたいしたもんだ。軍勢同士の戦いなら相手は手もなく肝をつぶし壊走するだろうよ」
誰から合図するともなく、壁がじりっ、とわずかに前へ出る。
「だが、少人数の戦いでは無意味だ。殺気の乗ったあんたの剣筋は、露骨過ぎるんだよ。簡単に予測できる」
威嚇するように突き出される槍と斧が落とした得物を拾おうとするダーマッドを阻み、彼はそれと知らず、一歩退いていた。
「まるでヘカトンケイル(ギリシャ神話の多頭巨人)だな」
フォカスが俺の後ろで唸る。
「退け、ダーマッド。ここまでだ」
バルディネスが悲痛な面持ちで叫んだ。
「蛮族どもめ!この恨みは忘れん。いずれ雪辱を果たすが今日のところはさらばだ!」
あっという間に踵を返してバルディネスは走り出した。ダーマッドが左腕を押さえながら後を追う。
二人は埠頭を北へ走った。おそらくは先ほどの牛の被害にあって遅れた騎兵たちと、何とか合流を果たしたのが見えた。8人ほどだ。
乗ってきたものか、その場で図々しく拝借したものかは定かでないが、ヴァイキング船の特徴を持つごく小さな船にばたばたと乗り込むと、そのまま漕ぎ出してやがて見えなくなった。
船が見えなくなるとアンスヘイムの戦士たちは威勢良く勝ち鬨を上げた。呆れたことに武器がいくつか破損した以外はさほどの被害はなく、擦り傷やわずかな打ち身を別にすれば、傷を負ったものも誰一人ない。
殺人のストレスと声を張り上げすぎた酸欠で、さすがに俺はがっくりとへたり込んだ。疲れた。考えてみれば港までの道もずっと駆け通しだったのだ。
アルノルがハザール人の剣を一振り、弄びながら傍へ歩いてきて、俺に声をかけた。
「この剣使うか、トール? シグルズの斧を割った奴だ。業物だぜ」
ダーマッドの剣だ。鞘は彼の腰に下がったままだろうが、作れば問題ない。俺は無言でその剣を受け取り、抜き身を日光にすかして見た。
悪くない。水の波紋のような模様が地金に浮き上がる、しっかりした鍛えの刀身。ためしに振ってみるとやや先端よりに重心がある。このバランスなら非力な俺にも強力な斬撃を可能にするだろう。片刃であることも、日本人の俺にとっては感覚的に馴染みやすい。
「使わせてもらおう。良い剣だな」
「ああ。良い戦いだった。それに、良い歌だったぜ」
その日の午餐は結局、喉に通らなかった。
「いろいろと世話になったね、おかげで助かったよ――ここでお別れか」
「少し心配だが、ついていくわけにも行かないからな」
話が前後の順を乱すことになるが、突堤の戦いから数日後。俺はヘーゼビューの西門に当たる土塁の切れ目で、イレーネとフォカスを見送っていた。
イレーネの体にはやはり、かなり危険なひずみが起きていて、フォカスが整体を施さなければ次第に体の自由が利かなくなるほどの状態だったそうだ。
素人ながらにそんな打撃を繰り出したヴァジをフォカスはしきりに弟子にとりたがったが、これは実現しようがなかった。
ようやく健康を取り戻したイレーネは、これからユトランド半島を横切って北海側へ向かうという。海路で向かうと遠回りな上に、スカゲラック海峡は海賊の出没する難所でもあるからだ。
「大したものだな、北方人というのは。ルス族はいささか野蛮で不潔な印象が目立ったが、船を担いで陸路を往く逞しさは掛け値なしに驚嘆に値する……ああいう気質が文明に触れ組織力を発揮すると、こういうものが出来るわけか」
フォカスは眼前に広がる風景を感慨深げに見渡していた。
「まるで、ローマのハドリアヌスが作ったという城壁のようだ」
目の前には町の土塁から連絡して遥か西方へ延びる城壁兼街道「デーネヴィーケ」が横たわっていた。フランク王国との国境に当たるこの城壁の端には、ホリングシュテットと呼ばれる小さな町がある。
その傍らに流れる川を海まで下れば、そこはもう北海なのだ。その先には商業で栄えるフリースラントがあり、さらに海の向こうはもう、イングランドの白い岸壁だ。
花を付け始めたリンゴの木陰に立っている俺たちだが、今日の日差しはまた一段と強い。
イレーネの額を汗が一すじ、流れ落ちて柔らかそうな顎の下へと消えた。
「どこまで行くんだ? 持ち出してきた金にも限りがあるんじゃないのか」
くすっと笑って、イレーネが俺の手を上から押さえるように両手で握った。
「引き止めてくれるのかい? 無理は止したまえ、まあ僕とフォカス二人なら旅芸人の真似事でもして何とかやっていけるさ。しばらく北フランク一帯をぶらついてみるよ」
「大丈夫か? 慣れない事はするもんじゃないぜ」
教会での一幕を思い出したのか、彼女は頬を膨らませた。
「まったくもう。意地悪だね、君は」
まあ、この主従ならそれらしく軽業や剣技、指弾などを披露して日々をしのいでいくのだろう。
「バルディネスは当分ちょっかいを出して来れないだろうが……気をつけたまえよ。彼は執念深い……まったく、皇帝の位がころころ変わるコンスタンチノープルで、旧王朝の皇帝の孫くらいその辺でパンを焼いてても珍しくないと言うのにね。僕なんかがしゃしゃり出たところでまず即位なんか出来ないし、まともな施政が出来るわけもない」
だから逃げてきたのさ、とイレーネは笑った。
(成り行き任せに動いた結果ではあるが……辛い逃避行をこうして笑えるようになる、手伝いくらいは出来たんだろうな)
金貨二枚も無事受け取った。さすがに一枚は銀貨に両替してもらったが、懐が暖かくなった今の俺は少しばかり余裕のある明るい気持ちになっている。
「さて、もう行くよ。元気で」
「ああ、気をつけてな」
そういえばひとつ、忘れていたことがあった。
「短剣をまだ返してなかったな。ちょっと待ってくれ」
フォカスに見せた後、俺は例の短剣をまた手元に預かったままだったのだ。ダッフルコートの内側に手を突っ込んでいると、イレーネは微笑んで手を顔の前で振った。
「それは君が持っていてくれ」
「ん、いいのか?」
それには答えず、ミクラガルドの女騎士は傍らに繋がれていた馬の鐙に足をかけた。
「いずれ、また会おう」
背を向けたままそう言った彼女は次の瞬間、不意に鐙から足を下ろした。上半身を俺のほうへ巡らせて、彼女の顔が目の前に近づく。
再び彼女が体を翻して今度こそ馬上の人となり、馬のいななきを残して立ち去った後――まだ左の頬にほのかに残る柔らかな感触に戸惑って、俺は腑抜けたようにいつまでもデーネヴィーケの延びるその向こうを見つめていた。
「ミクラガルドの騎士」これにてひとまずの幕引き。
少し更新の間が開きますが、ヘーゼビュー編は今しばらく続きます。
戦闘終了後残ったエピソードをまた淡々と書くかどうか迷いましたが、
きれいなエンディングで締めくくるのもまた映画の編集と同じで、読者に
対するサービスだと思うのですよん。