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ばいめた!~楽師トールの物語(サガ)~  作者: 冴吹稔
ミクラガルドの騎士
21/102

Red herring

 聖堂に響くざわめきと肩を揺り動かす誰かの大きな手に、俺は眠りを覚まされた。眠い目をしばたいて開くと、昨夜よりは少し身ぎれいな服に着替えたリンベルトが、俺の顔を覗き込んでいた。


「おはよう。申し訳ないがこれから一時課(朝六時に行われる礼拝)でね。数は少ないが信徒も来ているので、さすがにここで眠っていてもらっては困る」

「ああ、これは失礼」

さすがに礼拝の神聖を冒涜するのはまずい。俺はばね仕掛けのように体を起こした。


 昨晩はあの後、イレーネの長剣を彼女の眠る部屋の前に立てかけ、聖堂の西の隅でマントに包まって横になったのだった。床は道路と同様に、割った丸太の平面を上にして敷き詰められていて、地面の上に直接寝るよりは随分とましだ。体調は悪くない。



 すでに祭壇に近い場所のベンチには、十名ほどの老若男女が間隔を置いて腰掛けており、フランク王国からの商人あたりと思われる、それなりにまともな服を着てひげをそり落とした男もいれば、絵に描いたようなヴァイキングの戦士、地元民と思われる目元に特徴のある化粧を施した男女などさまざまだった。


 リンベルトが昨晩着ていたような粗末なローブをまとった、下級の僧侶らしき姿も数名、床のちりを掃いたり祭壇に新しいろうそくを立てたりと忙しそうに働いている。


「君の仲間らしい男が訪れたのでね、中庭で待ってもらっているよ」

リンベルトは、聖堂の中を見回している俺にそう告げた。


「ありがとう。滞在中に機会があればまた伺います」

俺は意識するともなく、そう口にしていた。彼の持つ、人間を奥深いところで魅了するオーラのようなものに中てられていたのかも知れない。



 中庭にはヨルグが一人で来ていた。赤みを帯びた薄い色の金髪とまばらな髭が、昇りかけた朝日に照らされて彼の顔を縁取るように輝いている。おかしな話だが聖人の光背ハローを連想した。冷え込んだ朝の空気に彼の息がわずかに白い。


「良い朝だな。ヴァジはこなかったのか?」


「なんだか昨晩怪我した小指の調子が悪いらしくてな、スノッリが副木を当ててやってるところだった。あいつは狩に出ることが多いから、骨の手当てには一番詳しい」


「そうか。ヴァジの指、大事無いと良いが」

そう言いながら港のほうをなんとなく眺めた時、ちょうど頭上で教会の鐘が物憂く哀調を帯びた音色で鳴り響いた。遠くのアシの茂みに潜んでいた水鳥が飛び立つ、かすかな羽ばたきの音がそれに加わる。

 それを合図に、俺の耳にはずいぶんと古めかしく聞こえる、聖歌らしきものが堂内から流れ始めた。

グレゴリオ聖歌とかいうやつだろうか?


「なんだこれは。声がやたらに高くなったり低くなったりして、気味が悪い」

ヨルグがヴァイキングらしい見解を述べた。彼らの歌う武勲詩には普通、楽器の伴奏もメロディーも殆どない。

「トールが時々歌う変な歌とも違うな」

変な歌と申したか。くそ、俺がギターを再現したら撤回させてやるぞ。


「よし、宿へ行くか。シグリとの約束もあったしな」

「きれいな女を捕まえたって聞いたんだが、連れて来ないのか?」

不思議そうにヨルグが訊く。彼らにとってはやはり、ああいうケースでの略取と奴隷売買は普通に行うのが当たり前の感覚なのだ――少なくとも男衆には。

「教会に預けてきた。奴隷にして役に立つような女じゃない。それに、フリーダが嫌がるだろう」

 俺を初めて見たとき奴隷であることを疑わなかった割に、彼女が昨夜見せた奴隷売買に対する忌避ぶりはかなり尖っていた。女同士だからだろうか。


「そうか、それじゃ仕方がないな。まあヴァジには納得させるようにしろよ」

「ああ、気が重いが何とか説得しよう」

 イレーネを無力化したのはヴァジだし、その際に負傷もしている。ヨルグの忠告は尤もだった。




 中庭を出ようとしたとき、東側の丸みを帯びた壁を回りこんで、イレーネが姿を現した。

「おはよう……お仲間が来たようだね、トール。もう出航するのかい?」

 見れば少し様子がおかしい。体がまっすぐ立っていないし、どこか青ざめた顔色と引きつった口元が、身のうちに苦痛を抱えていることをうかがわせた。

「調子が悪そうだな。急に食って腹でも壊したのか」

「そうじゃない……あの大男に体当たりを受けてから、僕の体のどこかがずれて歪んでるらしい。まるで背中から逆刺のついた大きな杭を突き込まれて、そのままになってるみたいだ」

イレーネは不快そうに首を振った。

「感覚としてわかりにくい症状だが、見るからに辛そうだな」


「こいつか? トール。その追いはぎってのは」

「ああ」

「……良い女じゃないか。だが物言いがまるで男だ」

 たとえて言うならプリンと思い込んで卵豆腐を口に入れたときのような、なんとも微妙な顔でヨルグはイレーネを評した。

「連れて行っても売れるまで面倒くさそうだぞ」


 幾分傷ついた様子でイレーネがヨルグを睨む。

「君はルス族同様の蛮人らしいね、どうやら」


「二人ともやめろって。イレーネ、俺たちはまだこの町に用がある。出航はもうしばらく先だ」

「そうなのか」

イレーネの表情がなにやら少し明るくなった。

「俺たちの日程に何か――」

「頼みがあるんだ」


「虫が良いな、ええおい」

 さすがに苛立ちを覚えた。ヴァジを負傷させ、桶の件でフリーダを宿の主人に対して不利な立場に追い込んでおいて、このお姫様と言うか追剥ぎプリンセスと言うか、こいつは!


「そんな顔をしないでくれ――このままじゃ僕はこの町を動けない。リンベルト師は人格者だが、彼はここの責任ある立場だ。とてもじゃないが面倒事を頼めない」

「俺なら頼めるのか。無責任で悪かったな」


イレーネが泣きそうな顔になった。

「お願いだ、そんなに邪険にしないで……もう君とお仲間くらいしか頼めそうな伝手がないんだよ。出会いは悪かったけれど、君はリンベルト師に庇護を取り成してくれたじゃないか。話だけでも聞いて欲しい」


 くそ、確かにリンベルトに彼女を預けたのは俺だ。それに女の涙にはどうあがいても俺は勝てそうにない。こんちくしょうめ。

「とりあえず言ってみろ。出来そうなことなら何とかしてやる」


「トールはつくづく甘いなあ」

ヨルグがニヤニヤと笑う。なんだ、フリーダに告げ口でもしてポイントを稼ぐ気か。



「北側の土塁近くにある空き家に隠れている、侍従のフォカスを連れてきて欲しい。彼なら格闘パンクラチオンの心得があるから、僕のこの体の不調を何とかできるはずだ」


 なるほど、柔道整体師の整復手技や中国拳法家が行う気功治療のような、武術に付随する負傷治療のメソッドがあるわけか。うなずける話ではあるし、それくらいなら何とかなるかも――

「報酬を提示してもらおうか、姉ちゃん。このトールはとんだお人よしでな、放って置くとただ働きしかねないんだ」

「おい」

 ヨルグが横合いから無遠慮なことを、むきつけに言い出した。確かに何がしか報酬をもらえれば俺としては助かるのだがちょっと待て。


「なるほど、正当な要求だね。では前金でノミスマ金貨1枚、フォカスを連れてきてくれたらもう一枚支払おう」

イレーネがさらりと大変な額を提示する。

「……随分奮発するな。非常時の備えじゃないのか」


「今が非常時だよ、まさに。今使わずにいつ使うんだ」


 ごもっとも――だが本当に大丈夫なのか、これを受け取って。実のところ俺はその金額の意味に気がついていた。

「なるほど、追っ手に遭遇した場合の危険手当ても込みってわけか。それならさほど高くもないな」

「君の言うことは時々よくわからないんだが、追っ手に遭う危険についてはその通りだ。偶然にもやつらが宿舎にした場所が隠れ家のすぐそばでね。ときどきハザール騎兵が巡回してる。それで僕はあそこに戻れなくなった」


「いけしゃあしゃあと……まあいい、引き受けよう。何とかなるさ」

昨夜顔を見られたわけではないし、俺にはもうひとつ勝算がある。


「ありがたい、恩に着るよ」

 俺の掌に、ずしりとした手ごたえの金貨が乗せられた。直径はごく小さなものだが、比重が慣れ親しんだ白銅や青銅のそれとは桁違いだ。赤みを帯びた柔らかな輝き。十字架をあしらいながらどこか異教風で、零落した神のように見える皇帝の絵姿――


「こいつがノミスマ金貨か……」

そもそも金貨を手にするのが初めてだ。

「アルノルはベザントとか呼んでたな、確か。同じものを見たことがある」

 ヨルグがこんなときにお決まりの、顔を近づけて手の中を覗き込むポーズで金貨を凝視する――これも実際にやるやつを見たのは初めてだった。


「遥か南東の地、暖かい海に面して石造りの館が無数に立ち並ぶという、ミクラガルド(大いなる都市)の金貨だと聞いた」

「ミクラガルド……か」

 コンスタンチノープルのことだ。だがその響きはなんとも異質で、こうしてヴァイキングの口から発されるとなおさらに、自分のいる状況の突拍子もなさに身震いがした。


「僕の手回しだと分かる目印が必要だろう。これを見せてやってくれ」

イレーネはさらに、鞘と柄に象牙を使った金細工の短剣を、俺に手渡した。


「雷に撃たれて裂けた跡のある大きなモミの木と、その下にある梁の先端を白く塗った屋根が目印だ。屋根には破れ目がある」

「解った。うまくいかなくても夕方には一度顔を出す」



 教会をあとにし宿へ向かう。道すがらヨルグがあれこれと話しかけてきた。

「追っ手のかかった美人で金持ち、従僕と二人旅の女か。何者なんだ……味見はしたのか?」


何を訊いてるんだこの莫迦。

「やってない」

「つまらん……まあトールじゃ期待するだけ無理か。それにしてもよく引き受けたな。フォカスとやらの隠れ場所の周りには、ヤバいのがいるんだろ? その……多分桟橋で出くわしたって言う異国の連中が」

「ああ、だから俺が行くのが良いのさ」

ヨルグが不思議そうな顔をした。




「お帰り。いろいろ訊きたいけどまずご飯済ませてね。女将さんが昨夜羊肉を煮た鍋、今日は洗っちゃいたいんだって」

 宿に帰ると朝から羊のすね肉を煮込んだ塊がでた。付けあわせには茹でたキャベツ。


「へいへい、朝から重いなぁ。それで、桶はどうなった?」

この羊肉は俺が昨夜食い損ねたものらしい。余分な脂が抜け、スジも大分柔らかくなっていて思ったよりいけた。

「ああ、ロルフとシグルズが帰りに偶然、拾ってきてくれたの。一家の主をやってる人ってふらふら脇道にそれないし、よく気がつくから頼りになるわね」


さようですかい。


「シグリいるかな」

「台所で手伝いしてる筈よ」

働き者で良い子だなあ。身一つでよその家に引き取られて、必死なんだろうか。

「呼んでくれ、ちょっと謝らなきゃならない」


 呼ばれてシグリはすぐにやってきた。市場を回って緑の杯を探す予定が、昼以降にずれることを説明する。

「本当にすまない。だがどうもあまり時間をかけられないみたいなんだ」

「うん、良いよ……あの後考えたんだけど、もし売りに出されても多分私じゃ買い戻せないし。お話だけなら逃げないから急がなくても大丈夫よね」


「ああ、それは仕方ない。大変な値で売られるだろうしな」

しかしふと、愚かな偽善の衝動が沸き起こってくる。

「なあシグリ。もしだ、ここの市場に流れてて、一個でも買い戻せるとしたら、シグリはある程度満足して、納得できるか?」

 言われてシグリは虚空に視線をさまよわせる。心の底の激しい葛藤の中から、何かを拾い上げようとしているように見えた。条件付の譲歩を親に求められた子供――賢い子供がたまに見せる、あの複雑な表情だ。


「それでもいいわ。一個でも取り戻せたら、私はまた父様母様と一緒にいる気持ちで、暮らせると思う」

「よし解った。見つかりさえすれば何とかなるかも知れない。帰りを待っててくれ。……もちろん、噂しか残ってない場合もありうるしその可能性は大きい。その時はどうしようもないからあまり本気で期待するなよ」


「トールは私を喜ばせたいのか、落ち込ませたいのか判らない」

少し涙目で笑うシグリの肩を、しゃがみこんで両手で包んでやった。


「大人になるってのはな、何をするにも悲しみが後ろについて来るって事を、知ることなんだよ」

「うん」

「だから俺は良いことだけ言ったりはしない。……そして、嬉しい事は本当に大切にしなきゃいけないぜ」


 それがどんなに望む物より不完全でちっぽけでも。俺はシグリと拳を軽く打ち合わせて約束をした。


 聖杯探索は、午餐のあとに――




「で、なんでそのお姫様のお使いに、私が付いていくわけ?」


 昨日桟橋で着ていたのと同じく、ズボンとチュニック。ある意味イレーネの廉価版のような服装に身を固めたフリーダが、口を尖らせて納得いかなそうに俺をなじった。それでもついてくるあたりこの娘もなかなか付き合いがいい。


 俺たちはそろそろ高く上り始めた太陽の下を、土塁の方角へむけて歩いている。ヘーゼビューは町の中央を東西に流れる川で大きく二つに区切られているが、北側のこちら側には殆ど商人のテントはなく、民家ばかりだ。


「フリーダは、昨日のあの変な一団に無礼な振る舞いをされたよな。一泡吹かせたくはないか?」

「薄笑いを浮かべておかしな理屈を捏ねるのはやめて。それだけの理由なら別に事後報告でも十分だわ。こうして村の外にいる時点で、私が考えられないほどの危険を冒してるのは自覚してるのよ」


「ふむ。まあ説明しておくか」

「いや、当然説明して欲しいわ」


 少し離れて後ろを付いてくるヨルグを、ちらりと見る。湿地帯の黒土が太陽にあぶられてほのかに湯気が立ち上る中、長柄の戦闘斧を携えて少し前かがみ気味に、なにやら恨めしそうな面持ちで歩いてくる姿は、21世紀人の目で見れば完全にアレだ。


『恋慕している少女のデートを尾行するサイコなストーカー』そのものである。怖い。


 とはいえ実のところは彼にもちゃんと頼み込んだ上でついてきてもらっているのだ。俺とフリーダだけでは、万が一荒事にもつれ込んだ場合ほぼ詰んでいる。


「ヨルグもちょっと来てくれ。この作戦について説明しておく」

「よし、聞かせろ」

ものすごい勢いで駆け寄ってくると息も乱さずにそう言って身を乗り出してくる。かなりじりじりさせられていたらしい。


「ヨルグ、俺はさっき言ったよな。『俺が行くから良いのだ』と。なぜか解るか」

「済まん、まだよくわからん。それよりフリーダを連れて行く理由がもっとわからん」

「俺とフリーダは昨日、桟橋でやつらの一隊と出会ってる。フリーダを男装した女と看破した隊長格の男は彼女の顔を検分した上で、人違いだと部下たちに宣言した」

「それで?」


「俺はこの通りの異相、異装だ。フリーダと一まとめでやつらの印象に残っただろう。紛らわしい男装女を連れた妙な男、追跡を混乱させる燻製ニシン(偽の手がかり)としてな」


 そのイディオムは多分まだこの時代には成立してない、ということにすぐ気がついたが、言わんとすることはヨルグに伝わったようだ。

「目的地のフィヨルドとよく似た偽物がある、と事前にわかっていればそこにはわざわざ進入しない、ということだな」

「その通り。理解が早いじゃないか。そして偽のフィヨルドに隠れた船がまんまと逃げおおせる、というわけだ」


むう、とヨルグが唸る。

「そいつは……いろいろと応用出来そうなやり方だな」


「というわけで、俺とフリーダの組み合わせを見れば、やつらはちょっと見はしても、本気で詮索はしてこないだろう。そこで、さらにヨルグが仕上げの役割を果たすわけだ」

「どういう役割を?」

なんとなくいやなものを感じたのか、ヨルグがぎろりと目をむいた。

「好きな女と恋敵の道行きをこそこそつけて回る、斧を持った危ない男、という関係に見える。こうなればまず、イレーネを探して神経をとがらせてる連中であればこそ、関わるほうが時間の無駄、犬も食わぬ痴話喧嘩の一幕としか見ない」

「殺すぞ貴様ー!」

憤慨するヨルグをフリーダが必死でなだめる。取りすがって掻き口説かれれば悪い気はするまい。


 やがて道の向こうに、高く築かれた土塁がさえぎるように姿を現した。

「さて、そろそろ本番だ」




戦闘まで持ち込めなかったー!


11月4日:追記


一部加筆修正しました



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