立ち並ぶ悪魔の碾き臼の間で
真円よりわずかに細った月の青みを帯びた光を背に、木造タール塗りの教会堂が黒々と浮かび上がる。
申し訳程度の柵で周囲の街区と隔てられた敷地に建つそれは、シンプルな堂の西側に塔を有していた。おそらくはこの教会の本山に相当する、フランク王国内の寺院を模したものなのだろう。
柵の切れめから敷地内に侵入した俺は、追いはぎ女をやっとのことで肩から下ろし、激しく息をついた。数ヶ月伸びっぱなしの髪に覆われた頭部が蒸れ、汗が額を伝って目に入り込む。
こんな具合に呼吸を荒げたままでは潜伏の意味をなさない。俺はダッフルコートのポケットに放り込んだままだったシャツの切れ端を、丸めて口に突っ込んだ。たちまち襲ってくる酸素欠乏の苦悶に耐え、呼吸を殺し続ける。
(うぐぁあ。死ぬ……死ぬッ)
頭ががんがんと痛み、気が遠くなってきた。放り出した女のすぐ横に仰向けに体を投げ出し、鼻で呼吸をするが、いつまでたっても酸素負債が解消されない。ようやく心拍数が収まり呼吸が落ち着いたところで布を口から引き出すと同時に、俺は透明な粘液を大量に口から垂れ流して嘔吐いていた。
傍らの女を見下ろす。フードが取れて露わになった、軽くウェーブのかかった栗色の髪が見えた。不揃いで手入れの行き届いていない感じだが、ツヤと張りのある髪質そのものは比較的良好な生活環境をうかがわせる。年のころは推定18~20歳と言うところだろうか。
「なるほど、美人だな」
ややうんざりした気持ちで独白する。顔の造作や着衣の材質、こまごました身の回り品を見る限り、何がしか高貴な身分であることを容易に想像させるのだ。
見つめているとむらむらと怪しげな衝動がこみ上げてきた。先ほどまで女の頭部を背中側にして肩に担いでいた――つまり俺の顔のすぐ横に女の腰、いや、尻があった。あまつさえ俺の右手は彼女の太腿をがっしりと掴んでいた。走っている間は意識の片隅に追いやられていたその感触が今になってまざまざと甦ってくる。
(くそ、なんて残酷なんだ)
北方人の家屋形式にはプライバシーの概念が無い。屋根の下で行われる一切のことは、同居者に筒抜けだ。俺の場合は家長たるインゴルフと、その孫娘との三人の生活。鬱積するものの処理は望むべくも無く、ありていに言えば俺は溜まっていた。
だがこの女に狼藉を働くのは危険すぎる。さまざまな状況証拠はこいつが爆弾に等しいトラブルの焦点であることを示唆しているのだ。幸か不幸か、ここで自ら事態をややこしくする事を回避する程度の分別が俺には備わっていた――残念ながら。
もろもろを踏まえた結果、俺の取った行動は――21世紀的基準で言えば――女性に対するものとしては、いささか非難を免れ得ないものにならざるを得ない。まずは腰の剣を吊り帯から外し、手の届かない位置まで投げた。
「起きろ、こら」
悲鳴を上げられないようにさっきのシャツの切れ端を口にねじ込み、その上で膝と左手でそれぞれ女の両腕を封じて、右手で頬をしたたかに平手打ち。数回連打するとかすかに身じろぎが起こった。
「う……!?」
ようやく目を見開いて、女が拘束を振りほどこうともがいた。結構力がある。
目を覗き込みながらゆっくりと、出来るだけ非情な声色で話しかけた。
「騒ぐな。大きな声を立てないと約束すれば口に詰めたものは取ってやる。追われているんだろう? わざわざ人目につかない所まで運んでやったんだ、無駄にするなよ」
呼吸が苦しいのか少し涙目で慌しくうなずいた。
「じゃあ取るぞ」
布切れを取り去ると女は小さく咳き込み、深く息をついた。
「君はさっきの……ああ、これは全く、僕には抗議の余地がなさそうだな。で、どうするつもりだい」
「とりあえずお前を尋問する。訊かれた事に答えろ、抵抗は無意味だ」
ついでに男装も無意味だ。
「仕方ないね。だがせめて屋根のあるところで、体を起こして喋らせてくれないか。これじゃあまるで……首でも取られるみたいだ」
「耳か親指がお好みかな?」
「その斧でかい? 怖いよ、君」
凌辱方面に話を振らないのは、あくまでも男装を押し通すつもりなのか。まあいい。事情は人それぞれだ。
「両膝を地面につけて、頭の後ろで手を組め。俺が良いといったらゆっくり立つんだ」
左腰に剣が無いことを確認して、女は少しあきらめた顔になった。
「そら……これでいいかい」「よし」指示通りに立ち上がる。
「この教会の中に入ろう。先に立って歩け。斧が届く範囲から出ようとしたら容赦しないからな」
「西ローマ教会の聖堂か……まあ仕方が無い。僕の剣は?」
「後で回収させてやる」
南に面した壁に入り口があった。重そうな木の扉を押すと、予想に反してそれはかすかな軋みを上げながら奥へ開いた。奥の祭壇に灯ったろうそくの明かりで、天井の梁に彫刻された悪魔めいた異形の動物図像がぼんやりと浮かび上がる。
その明かりの中、北側の袖廊から歩み出てきた人影があった。粗末な修道士のローブをまとい、顔や年恰好は定かでない。
「こんな夜更けに我が教会を案内も請わず訪れるとは――何の御用かな」
聞き取りやすいノルド語だが、語順などには何処かドイツ語のそれに近い特徴がある。良く通る穏やかな声には、柔らかな印象とは裏腹に、如何なる困難にも屈しない意志力の片鱗が感じられた。
「時ならぬ深更の乱入、深くお詫びする。得体の知れない追跡者に付きまとわれている――主にこちらの若い女性が。ここは主の家とお見受けした。庇護を請いたい」
方便だが、嘘じゃない。可能なら教会に押し付けたい。
女性と紹介されて、女が一瞬まなじりを見開いて俺を睨んだ。
「失礼だが、君は異教徒では?」
フードの奥から、男は俺に訝しげな視線を向ける。
「ああ、まあ洗礼は受けていないが……生国では毎年クリスマスのミサに与ったり、聖者ニクラウスを讃えて近しいものと晩餐を共にするくらいはしている」
本当ですよ。
「なるほど。洗礼着目当てに毎年のように教会へ押しかける、北方人の異教徒たちよりは未だしも主の御心に近いかも知れないな。尤も私は彼らにもいずれ福音を受容する恩寵が与えられるものと、信じて疑わないが――」
修道服の男は俺たちに向かって手を差し伸べた。
「ようこそ、ヘーゼビュー教会へ。主は追われあえぐものを助けたもう。私はブレーメンの伝道師、リンベルトという」
「俺はトール・クマクラ。……フィンの楽師だ」
「イレネウス……いや、イレーネ・アモリア」
それぞれが名のったところで、女――イレーネがへなへなとへたり込んだ。
「すみません、何か食べるものを……もう2日ほど……」
語尾がかすれて消えた。
イレーネと名乗った女はリンベルトに供された質素な食事を、一言の言葉も発さぬまま黙々と口に運んでいた。硬くなったライ麦パンとたまねぎのスープ、それにチーズ。絵に描いたような中世ヨーロッパ的粗食だが、彼女は意に介さず涙ぐみながら平らげた。
「ありがとうございました、漸く人心地がついた」
「たいしたおもてなしは出来なかったが、元気になったようで何よりだった」
祭壇に灯したろうそくをこの小さな居室の燭台に移し替えて、俺たちは粗末な木製のテーブルを囲んでいた。
ローブのフードを取り去ったリンベルトの容貌は年のころ40代。高く秀でた額と言うか後退した生え際と言うか、頭部前面の地肌が大面積で露出しているが、顔そのものがメリハリのある骨格をしていて、その一方で髪の色は薄いため、禿頭にありがちなぎらついた感じが無い。
全身から発する深い知性と慈悲、寛容さの輝きが、室内に独特のくつろぎと厳粛さを醸し出していた。
「それで、あんなところでなぜ追いはぎの真似事をしていた? それに昨日の午後俺が港で出くわした異国人の一団、お前に関係があるんだろう?」
教会に押し付けるにしても何にしても、前後のいきさつくらいは聞いておかないとすっきりしない。
我ながら厄介な性格だと思うが、巻き込まれかけているトラブルの正体を知らなければ対処のしようがない。
「ああ、だが何から話したものか。……まずは先ほど追いはぎの真似事に及んだ件、謝罪しなければならないな、すまなかった。」
「慣れないことはするもんじゃない」
屈辱感と後悔を満面に表して彼女はうつむいた。
「全くだ……財布を預けた教育係の侍従と引き離されてしまってね。手持ちが金貨しかなかった」
「金貨があるなら――」
「これは言うなれば非常時のための物だ。このままではまともに買い物も出来ない。高額の金貨を使えば追っ手に手がかりを与えるし、釣銭の重みで走れなくなる事だってあるだろう」
そういいながらベルトの辺りを押さえる。
「ギリシャ風の名前に高額の金貨――もしかすると貴女はローマ……コンスタンチノープルの帝国にゆかりの人間なのかね」
リンベルトが穏やかに口を開いた。
「ええ……母が皇帝の血を引いています。僕は母が嫁いだハザール可汗国の都、イティルで生まれました」
おぼろげに聞いたことはあるが思い出せない。ハザールってどこだっけ。
「そのローマの末裔のお姫様が、なぜこんな北の海まで」
俺の問いかけに、イレーネが下唇をギリッと噛んだ。何かつらいことを思い出しかけて必死に押し戻そうとしている、そんな風に見える。
「逃げてきたんだ――僕を擁立して帝国の旧アモリア王朝を再建しようとする陰謀から」
頭の中で思考が凍りついた。いくらなんでも関わるには話が大きすぎる。危惧したレベルをはるかに超える特大の爆弾だ。
「祖父の皇位を継いだ叔父――ミカエルの代に権勢を振るった、バルダス将軍の一門にバルディネスと言う男がいる。彼が現今のローマ皇帝を廃しようとして、僕に目をつけたんだ。それで、侍従に諭されて逃げだした」
固有名詞にはまるで聞き覚えがないが、それでもかなり無茶な陰謀であることは想像が付いた。イレーネが男のようなしゃべり方をするのも何か関係があるのだろうか?
「バルディネスに篭絡されて、砦一つ丸ごと、ハザール騎兵が彼の指揮下に入った。彼らは延々と僕らを追ってきた」
イレーネは堰を切ったように話し続けた。たまりに溜まった辛さを吐き出すように話した。
「ポントス(黒海)から川をさかのぼって船ごと山を越え、ルス族の商人にまぎれてまた川を下った。ここまで来るのには一年近くかかったよ」
双眸から涙がどっとあふれ出す。後はもう言葉にならない。
「ぐひッ……気が休まる時なんて…ズズッ……ルス族のやつら、僕の目の前で、奴隷を、何度も何度も……大勢で……」
「大丈夫、もう大丈夫だよ。今夜はこの教会で休みたまえ。地上の愚かな権勢争いから逃れて艱難を耐え忍んだ貴女に、主のお恵みがあるように」
顔面をべとべとにして泣きじゃくるイレーネを、リンベルトは静かに宥め諭して別室のベッドへと向かわせ、また戻ってきた。
ベンチにどっかりと腰を下ろし、伝道師は目を閉じて首をゆっくりと横に振った。
「驚いたね。まるでギリシャの叙事詩のようだ。楽師だと言ったが、君には興味深いのではないかな」
テーブルに肘をついて、俺は顔の前で組み合せた掌越しにリンベルトを窺った。
「壮大な物語になりそうだが、結末まで付き合いたいとは思わない。俺ごときには手に余る」
「そうだろうか? 父なる神は、人の子に乗り越えらない試練は与えないと言うが」
「冗談でも勘弁してくれ。今でさえ寄食してる村をなんとか戦乱や搾取から守ろうと、あがいてる最中だ。それさえ覚束ないのに、これ以上ややこしいことを背負い込みたくは無い」
「そう言いつつ、君は結末まで付き合うことや背負い込む事を、ひとたびは想定しているではないかね。結果として否定はしても」
リンベルトはこちらの魂の底の底まで見通すような優しく鋭い眼差しで俺を見た。
「う……」
「関わったものが窮状にあれば手を差し伸べたくなる――君は大変に優しい、まるで幼児のようなあどけない心を持っているのだね。そして、その心と自分がこの世で出来ることの落差に、苦しんでいるのだろう?」
やめてくれ。その問題はどう取り組んでも俺を個人的な幸福に導かないんだ。
「修道院で修行していたときから、君のような同輩をたくさん見てきたよ。もう一度言おう、父なる神は決して、人の子に乗り越えられない試練は下されない。なすべきことと出来ることの間に落差があるならそれを埋めるよう、魂の戦を戦いぬきたまえ。それが主のご意思だ――我が師にして最愛の友、亡きアンスカルもそのように北方伝道の旅路を戦いぬいた」
こいつは手厳しい。俺が21世紀から持ち越してきた問題をざっくりとえぐりやがった。それを初対面で俺に突きつけるとは、この伝道師は只者じゃない。そして余りにも厳しい。
「今夜は君もここで休んで行くといい。ひどく疲れているように見える」
「お言葉はありがたく。だがその前に、彼女のために置き忘れた剣を拾ってこよう」
俺はリンベルトに一礼すると、再び聖堂を通り抜けて庭へ出た。細身の長剣は変わることなく先ほどの場所にあった。
イレーネにはこの剣がある。だが俺の手に、魂の戦いを斬り進む剣は未だ影も形も無かった。
心余って言葉足らず、というどうにもひどい一話になった気もします。
後日もう少し加筆するかもしれません。
7月4日追記:やはりいろいろ足りなかったので加筆しました。