幼い者の願い
再び壁画の部屋へ。戸口で俺が立ち止まると、少しばかり遅れてアルノルとフォカスも追いついてきた。フォカスのほうはやや息が乱れて荒い。
「息子よ、年寄りにこれはいささかこたえるぞ」
「まったく、いきなり走り出すからなにかと思ったぜ」
「すまん、つい」
二人に謝りながらドアを叩く。中からはイレーネともう一人、誰かの息遣いと身動きの気配があった。
――トールかい? 入って。
「うん、俺だ――」
俺は後ろにいる男二人に、待っててくれるように手まねで合図した。パンもいったんアルノルに預けた。
「多分、大勢で入るとややこしくなる。出てくるまで待っててくれ」
「わかった」
「ここで待っておる」
アルノルとフォカスがうなずいた。火の気のない廊下で待たせるのは気の毒だ。できるだけ早く話をまとめたいところだった。
部屋に入ると、イレーネは暖炉の前に陣取って、膝の間に女の子を座らせていた。
手入れの悪い麦わら色の髪の毛を後頭部で引っくくり、荒い毛織の半そでチュニックを身につけた、やせぎすの少女――
この子がネリスだろう。彼女はイレーネに肩を包み込むように抱かれたまま、暖炉で温めたらしい焼き色のついたパンと、握りこぶしの半分くらいの大きさのチーズを、無心な様子で食べていた。
「かまどの前にいたおばちゃんに聞いてきた。俺を探していたんだってな」
「うん」
イレーネは物憂げな吐息にまじえてそれだけ答えた。
「その子が――ネリス?」
「そう。身寄りのない孤児でね。フランドル伯の思し召しで、この城で厨房の下働きをしてる」
その瞬間、こちらを見上げた少女の目に怯えが走ったように見えて、俺は胸が締め付けられた。
(孤児か……)
多分、この子もシグリと同じで、ヴァイキングの襲撃やそのほかの戦、あるいは流行り病といったこの時代につきものの災厄に肉親を奪われ、一人で暮らしているのだ――
「ネリス、イレーネの相手をしてくれてありがとうな。ゆっくりしてってくれ」
精一杯の笑顔を作って、ネリスに笑いかける。少女は口の中のパンを名残惜しそうにゆっくり飲み込むと、俺の方を訝しげな顔で見上げた。
そのまま後ろを振り向いて、イレーネにささやく。
「だれ?」
しかめられた眉がもの問いたげだ。イレーネは少女の耳に唇を寄せてそれに答えた。
「昨日着いたお客の中の一人さ。トールっていうんだ、僕の花婿になる人だよ」
「そうなの!?」
彼女はしげしげと俺とイレーネを見比べた。またぞろ「似合わない」と言われるのかとうんざりしたが、どうやらネリスの気持ちはほかの所へ向いているらしかった。
「……じゃあ、イレーネお姉ちゃん、ここからいなくなっちゃうんだ」
「そう、だね……来年の春になるかな。トールの住んでる村は北の方にあって、ちょっと寒いんだよ」
「ふうん……」
ネリスは少し口をとがらせて不満そうだった。
イレーネがいま説明した件について、目下の俺には別の腹案もなくはない。だがさしあたっては目の前の事件だ――
「えっと、この子が何か知ってるかもしれない、って話なんだよな?」
「うん……」
返答がさっきから何やら歯切れが悪い。それを指摘すると、イレーネは困ったように微笑んで、ネリスの肩に手を置いた。
「その……ユーライアさんはネリスのことを、とても気にかけてたらしくてね」
「というと?」
「人目につかないところで時々、ラウルたちに与えるものと同じお菓子を渡したり――」
「む……」
俺の感覚で言うと、あまりいい接し方ではない気がする。「犬や猫じゃあるまいし」と口にしかけたのを慌てて飲み込んだが、ユーライアの心情もわからなくはなかった。
彼女は生後間もない女児を、ここにきてすぐに亡くしているのだ。
「それでね、ネリスはユーライアさんにとても……まあなんというか、彼女のことが好きだ、と」
「わかるよ」
「だから……自分がなにか話すことで彼女が不利になるのが心配らしい。さっきからずっとだんまりを決め込んでるんだ、何を訊いてもね」
なるほど。いうなればこの少女は、のちの世の司法取引に近いことを、無言のうちに要求しているというわけだ。自分の利益――時たま与えられる良い食物や、優しい言葉といった慰めを、いや、あるいは本当にユーライアその人を守るために。
自分とユーライアの安全が保証されない限りは、何もしゃべらない。彼女の小さな瞳は決然とそのことを告げているようだった。
俺は迷った。本来なら、ネリスが知っている情報がどんなものかわからないうちは、その保証を与えるかどうかの判断ができないのだ。だが、その内容次第では――つまりユーライアとフィリベルトの関係がどんなものなのかによっては、この後取るべき行動が大きく変わる。
そして、ひょっとすると――
この一年余りの経験が、俺の頭のどこかでチリチリと警鐘を鳴らしていた。その、取るべき行動のために残されている時間は、もしかするとあまり多くないのではないか?
例えばフィリベルトに随行した僧侶たちが、夕方になると城門のそばで何かを見張るように立っていた、という話。どうも気にかかる。
「よし、わかった」
俺は腰をかがめて、座り込んだ少女の目の高さまで顔を持っていった。
「ネリス。約束しよう――俺はこの先、君から何を聞こうと、ユーライアさんと君自身にとって不利になるようなことは、一切秘密にすると」
彼女は驚いたように目を見開き、まじまじと俺を見つめた。
「ほんとに?」
「もちろんだ」
次に続くべき言葉の選択に、俺は少しだけ迷った。俺には、ここの人々のように固く信じる神はない。
俺が信じるのは、俺が受けた教育と、享受してきた文化が規定する正義と善、それだけだ。だがそれでも、誰かと約束を交わすには、相手が理解できる言葉で語るしかない。
「……イエス・キリストでも聖母マリアでも、何ならオーディンにでも――君が信じられるものに誓おう」
「……そんなこと言われたの、初めて」
彼女はなぜか怒ったような口調でそういった。どこかまだ踏み切れないものを抱えているようで、彼女の左手は無意識にしっかりと自分の膝頭を握りしめて、かすかに震えている。
俺は畳みかけた。
「君が見たことを俺に話してくれないか。フィリベルト司祭とユーライアさんは、何を話していたのかな?」
彼女は迷っているようだった。何度か口を開きかけては閉じる。俺は辛抱強く待った。アルノルとフォカスには申し訳なかったが、ここで無理強いはできない。
そんなネリスに、イレーネが言い添えた。
「心配いらないよ。トールは誰が相手でも約束を守るし、関わりのある人が困ってたら助けずにはいられない男さ。ブレーメンの大司教様のお墨付きだ……それにね」
彼女は言葉を切って、妙にキラキラしたいたずらっぽい目つきで俺を見つめていた。
「トールはね、偉大な魔法使いなんだ。夏には海を渡った西の島国で、竪琴ひとつかき鳴らして、戦を鎮めたんだよ。僕の英雄さ」
「おい……」
俺はあきれてイレーネをたしなめた。
「それはあまり、言わないでくれ」
確かに自分のやったことを持ち上げられるのは気持ちいいものだが、大げさすぎる。それに、現に戦や病で寄る辺ない身の上になった者にとって、自分の与かれなかった奇跡にどんな価値があるのか。
むしろそんな話をされるのは、この上なく残酷なことではないのか?
だが、少女はイレーネの言葉に希望を植え付けられたらしかった。
「あのね」
そう切り出す。
「司祭様がついた次の日だと思う……あたし、朝から東棟の裏に行ったの……ユーライア様が何か、前の晩の残り物くれるんじゃないかと思って」
「なるほど」
賓客を迎えた日の晩餐には、それなりにいいものが供されたことだろう。この時代なら、領主の食事の残りものを使用人が食べるのはごく普通のことだし、ユーライアが亡き娘に重ねてネリスを見ていたなのなら、彼女がそれを期待するのはある意味至極まっとうなことだ。
「……そしたらね、そこに司祭様とユーライア様が一緒にいてなんだか喧嘩してるみたいだったから……樽の陰に隠れて、二人の話を聞いてたの」
「そうか……どんなことを話してた?」
それが肝心なのだが。
「……えっとね、遠かったから、あまりはっきりとは聴こえなかったんだけど」
「どんなことでもいいんだ。何か聞き取れた言葉はなかったかな?」
「あのね、ユーライア様とフィリベルト司祭様……兄妹なんだって」
「はあ!?」
まったく予想していなかった情報に、足払いをかけられたような感覚に陥った。フィリベルトとユーライアが兄妹とは――
「ユーライア様が司祭様の事、『兄上』って言ってたんだよ。それでね、あとは、『仇を』って言葉と、『ボールドウィン』って名前――領主さまのことだよね? 司祭様がそういってるのが、何度か聞こえた。ユーライア様は泣きそうな感じで……」
そうか!
背筋に電流が走った。この事件の背後にあったものが何か――漠然と頭の中にあった仮定のシナリオが、ここでにわかに明確なかたちを取り始めたように思えた。
「……『仇』か! そうか、フィリベルトはそう言ったのか……!!」
もちろんまだ足りないピースは残っている。だがおおよそのいきさつはこれで推定できるはずだ。
フィリベルトはボールドウィンを仇として狙っていた。これは推測だが、その原因はおそらく今から15年前の、ボールドウィンとジュディス王女の駆け落ち時代に、何かあったのではないか? 何せ近隣の司教までが追っ手を繰り出して二人を脅かしたのだ。
フィリベルトが出家したのは10年前だと聞いたから、それとは時期がずれている――だが、直接かかわらずとも、遺恨の生じ方はさまざまにあるはずだ。
「ありがとう、ネリス。よく話してくれたな」
「う、うん……ねえ、ユーライア様大丈夫かな? 司祭様は殺されちゃったんでしょ?」
ネリスが俺のコートの裾をつかんでそう言った。
彼女は司祭がなぜ死んだのかわかっていないのだ。だから、得体のしれない殺人者の手が、自分に優しくしてくれるユーライアに及ぶことを恐れている――どうやら、そういう事なのだろう。
俺は少女の痩せた手首を、温めるようにそっと掴んだ。
「大丈夫だ。もう誰も、この事件で死なせない――みんなで、幸せに収穫祭を祝えるさ」
そのとき、不意に庭の方から角笛の音が響いた。そしてドアの向こうからノックの音。細目にドアを開けると、アルノルの黄色い口ひげが目に入った。
「トール、まだ話は終わらんのか? どうやら、森へ向かった組が戻ってきたらしいぞ」
「本当か!? 割と早かったな……」
アルノルに「すぐ行く」と言いおいてイレーネたちの所へ戻る。
「どうやら事態が動いたようだ。俺はフォカスやアルノルと一緒に、様子を見てくるよ。ここにいてくれ」
「わかった」
回廊を駆け抜け、階段を下りて中庭へ。
横合いからアルノルが胸元に何か押し付けてきていた。見れば、彼が手にしているのはさっきかまどのそばでもらったパンだ。
「ああ、すまん」
「全く。いつまで持たせとくつもりだ……それで、何か分かったんだな?」
知恵者は、当然自分にも聞く権利があると言いたげに、瞳をキラキラさせて俺の顔をうかがっている。
「うん、まあ分かったが――」
さて困った。たった今ネリスに誓ったことを、舌の根も乾かないうちに破るわけにもいかない。
「ちょっといきさつがあってな、俺が聞いた話はしばらく俺の胸だけに収めておかなきゃならん」
「なんだあ、そりゃ……」
失望の色をうかべるアルノルをよそに、俺はこの事件に対する方針を、はっきりと固めていた。




