毒を注ぐ手
虫の破片を見せると、フォカスがうなずいた。
「ふむ、どうやらカンタリスのようだな、それは。ヒポクラテスの医書で読んだことがある。忌まわしい話だが、高貴の人々の間では何かと縁があるものだ」
さもありなん。宮廷やその周辺では、こうしたものを使ってでも閨の営みを維持したり、あるいは邪魔な相手を陥れたりしなければならないのだろう。フォカスもあるいは、イレーネの母をそのような毒物から守るためにあれこれと心を砕いてきたのかもしれない。
「毒なのか、そいつは。それがあのワインに投じられたというわけかな?」
アルノルが俺の手元の包みをのぞき込んで顔をしかめた。
「いや、まだそうとは限らない。限らないが……」
――慎重に考えるべきだ。これだけではまだ、フィリベルト司祭が毒使いであると断定はできない。現にハンミョウはここにある。だがそれはつまるところ「まだ使われていない」ものなのだ。
今確実なのは、彼が毒物を所持していたことだけ。そこから出発しなければならない。そして普通に考えれば、これは聖職者が持つにはあまりふさわしいとは思えない――およそ毒と名の付くものの中でも。
後の世に知られた俗称がその来歴をよく表したものであるとするならば、これはスペイン、つまりイベリア半島近辺の産物ということになる。イベリアは確かこの時代、イスラム教徒が支配する地であったはず。確か後ウマイヤ朝の時代。首都コルドバはキリスト教世界にも知られた壮麗な街で、当代においては学問の一大拠点でもある。
そうした異教の土地からもたらされた毒薬を、キリスト教の司祭が隠し持つ。ああ、うん。迂回してもやはり怪しいものは怪しい。
抱いた疑念について、侍祭たちの不審な行動も併せて説明すると、二人はしばし考え込んだ。だがしばらくするとアルノルがふいに目を輝かせ、さも得意げに自分の顎ひげを掴んで引っ張った。
「よし、じゃあやることは決まりだ。フィリベルトの部屋へ行って、奴の荷物をあらためようじゃないか」
「……それが一番確実かもしれないな。だが、供まわりの侍祭たちに見とがめられるかも」
「いや、もうそいつらはフランドル伯の賓客じゃないだろう。この事件の怪しい奴の仲間……ええと、証人というのもちょっと違うな」
「ああ、言いたいことはわかる」
さすがの知恵者も重要参考人などという語彙は持ち合わせがないらしかった。
「だまして部屋から遠ざけるか、いっそふんじばって転がすか」
アルノルが物騒なことを言い出した。さすがにこのあたりは感覚が俺とは違うが、結局はそういう手段に出ざるを得ないのかもしれない。警察などない時代である以上、正義と安全を担保するのは自前の実力だけだ。恐ろしいことではあるが。
「では善は急げだ……はて、私も行きたいところだが、この遺体はどうしたものか。あまり余人を近づけたくないものだな」
フォカスは検分途中の死体を何やら気にする風だった。まあ近づきたい者もそうそういないだろうが、遺体も重要な証拠品ではある。
「うちの船の連中を何人か、ここにつけておくのがいいかな?」
「それなら、そろそろ誰か来るんじゃないかな。イレーネに言伝を頼んでおいたから」
そういいながらフォカスの仕事場の戸口に出てみると、ちょうどそこへヨルグがやって来た。
「いい所へ来てくれた! ちょっと頼みがある」
俺が手招きすると、ヨルグが顔をしかめた。
「なんだ、俺の仕事はあんたから伝言を聞くだけじゃ済まないのか? 自分が首を突っ込むだけじゃ飽き足らずに、俺までこの上の面倒ごとに巻き込む気なんだな」
アルノルがそれを聞いて噴き出しそうな顔になった。
「安心しろヨルグ、もう俺たち全員が巻き込まれてる。俺たちの立場を思い出してみろ……ノルウェー王の使節ってことになってるんだぞ。それに死んだ司祭はトールたちの婚礼を取り仕切る段取りだった」
「ああ、何てこった。確かにそうだった」
ヨルグが大げさに落胆を顔に表す。はて、どこまで本気なのやら。
「しばらくここで司祭の死体を見張っててくれないか」
本題に戻る。
「はあ?」
ヨルグは状況が飲みこめていないという顔をしてみせた。
「何で俺が死体の番なんぞせにゃあならんのだ」
いかにも不本意そうに、作業場の奥の暗がりをのぞき込む。
「まだ推測の域を出ないが、どうもあのワインの毒は死んだ司祭が仕込んだものらしいんだ。供の侍祭たちの様子もどうも怪しい――」
ここまで得た情報と、これからやることの段取りを話して聞かせる。
「俺たちがこれ以上の手がかりを得ることを妨害しようとして、連中が死体に悪さをしに来るかもしれない」
「……分かった、引き受けよう」
意外にすんなりと、ヨルグは嫌な役回りを受け入れた。
「大丈夫か?」
「トールにそんな心配をされるとは心外だぜ。死体はただの骨と死肉だろ。俺が殺したんなら祟りや呪いをこうむるかも知れんが、そうでない以上、怖がる理屈はないな」
「ほう……」
これはなんとしたことか。ヴァイキングはもうちょっと迷信深いものかと思ったが。いや、あるいはこいつが若くて怖いもの知らずなのか。
「それにしても嫌な雨だぜ……同じ水でも波しぶきをかぶる分にはまるで気にならんのにな」
ヨルグは恨めしそうに空を見上げた。死体よりもよほどそちらが気に障るらしい。ノルウェー西部も雨の多いところだが、この地の気温とか景色とか、そんな些細な何かの違いが彼の心を沈み込ませるのかも知れなかった。
彼は軒下の雨がかからないところに、両手斧を杖につく格好で仁王立ちになった。さほど背が高くないので威圧感がやや薄いのが欠点だが、あえて彼の前を通り抜けようという勇者はそういまい。
「そういえば、スノッリたちの首尾はどうなったかな?」
「ああ、あいつはここの領主お抱えの狩人たちと一緒に、ついさっき森に入っていったよ。ヴァジから聞いた話だと、別々に複数の足跡が森へ向かった形跡があったらしい」
「お、当たりだったか?」
してみると、消えた三人のうち何人かはやはり森へ行ったのだろうか?
(気になるが、そっちは慣れた者に任せるしかないか)
「イレーネがまた誰かよこすかもしれない。そうしたら、俺たちは領主の館で司祭の持ち物を調べてる、と伝えてくれ」
「分かった」
俺たちはヨルグを後に残し、再び中庭を突っ切って居館に入った。司祭の部屋には昨日、婚礼の段取りを打ち合わせたときに立ち寄ったので場所はもう分かっていた。
部屋の前にはやや年のいった兵士が、ちょうどその息子くらいの年の兵士を従えて歩哨に立っていた。
「これは、ノルウェー使節のお一人と、楽師殿でしたな? この部屋には何用でしょう」
ていねいな物腰でこちらの用向きを聞いてくる。よく訓練されている男らしかった。
「ああ。俺はフランドル伯様に、この変事の真相を解き明かすように頼まれてるんだ。で、どうも殺された司祭様にはいろいろと隠れた事情がありそうでね……中に入って彼の荷物をあらためたいんだが」
「供周りの僧たちはこの中かな?」
アルノルが儀礼を抜きにぴしりと突っ込んんだ。
「いえ。司祭様が亡くなられたのがわかった時点で、侍祭様方は別の建物に集まって、禁足に甘んじて頂いております。領主様が仰るには、『教会の中にも序列や権勢の争いはある。こ奴らの中の誰かが下手人でないとも限らぬ』と」
おお。ボールドウィンもなかなかファインプレーを見せてくれるじゃないか。しかしキリスト教君主にしてはやはり、聖職者に対していささか不当に厳しいのではあるまいか。
「そういえば気になっていたんだが、フランドル伯様は教会と折り合いがよくないのかな?」
この地で鐘の音が聞こえないことも思い出された。
「ああ、皆様はお客人ですからご存知ないのですな。あまり大っぴらにはできない話ですが――」
「まあ、かいつまんで話してくれよ」
アルノルが先を促した。
「古くからお仕えしておる者は皆知っておる事です。領主さまはかつてシャルル王のご息女、ジュディスさまと駆け落ちなさいました。一年後に教皇様のとりなしでめでたくご成婚されるまで、王命を受けたあちこちのご領主や司教から追っ手を、時には刺客を差し向けられたそうで……このあたりだと、ドーレスタットのデーン王ロリックや、今は故人ですがユトレヒトの司教、ハンガー様ですな」
「なんとまあ」
「そんなわけで、領主さまは確かにこのあたりの教会をよく思っておられませんのです。お坊様方をことさらにちやほやすることもなさいません」
それで納得いった。近くにも司教座はあろうに、ボールドウィンがこの夏にわざわざブレーメンの司教座に出かけた、というのが以前から解せなかったのだ。
「そういうことだったか。道理で今回も俺たちの婚礼に、わざわざブレーメンから司祭を呼んだわけだ」
してみると、これは今回の事件にも大いに関わりがありそうに思える。フィリベルトの荷物からなにかはっきりした証拠が出てくれば、事件の背後にあるものが分かるだろうか。
部屋に入るとそこは、簡素ながら居心地よくしつらえられた広い部屋だった。現代人の感覚だとやや窮屈に見えるていのベッドが一つ据えてあり、窓の下には彼らの荷物が数人分置きっぱなしになっている。
なかでも特に造りのしっかりした、大きな革張りの行李らしきものに俺は目を止めた。
「これじゃないかな?」
「らしく見えるな」
「うむ。開けてみるが良かろう」
錠前らしきものは特にない。不用心と言うべきか、哀れなものだ。これが北方人の荷物なら、必ずや厳重な錠前が――正しい鍵無くしては先ずまともに開けられない精巧な代物が、俺の手を阻んだことだったろうが。
犯罪捜査の常識、と言ったものが確立していないということなのだろうか。これほどの事態に誰も司祭の荷物を検分していない、ということも、俺にめまいを覚えさせた。
行李の中は奇妙な様相を呈していた。替えの肌着や祈祷書らしきものが整然と収納されているかと思えば、奥の三分の一ほどはこまごました革袋や陶製の瓶と言ったものがやたら滅法に詰め込まれている。それらの小間物の間からは、一種独特な匂い、恐らくは各種の薬草やその精油と言ったもの、あるいはチンキ剤の発する微妙な香気が立ち昇っているようだった。
「この瓶を開けて舐めてみるわけにはいかんな」
アルノルが瓶の一つを手に取ってしげしげと眺めた。
「うむ、危険だぞ」
フォカスがやめろ、と手真似をする。
「革袋の中身から調べよう。だがくれぐれも気をつけてくれ。直接手で触れない方がいい」
大の男が三人がかりで恐る恐る、大小の包みを開けていく。やがて、少し大きな袋からまだいくらか湿り気を帯びて見える植物の塊が床の上にあけられた。それを見て、我が義父と我らがケントマントは大きく目を見開いた。
「おいおい、こりゃあ……」
「なるほど、これはむしろ、カンタリスよりも実際的かもしれんな」
よほどの物が出てきたらしい。よく見ようとついつい手を伸ばすと、フォカスがたくましい手でさっと俺の腕を掴んで押しとどめた。
「よせ」
えらく強い力で握られている。何事かと彼の目をのぞき込むと、そこには恐ろしく真剣な様子がうかがえた。
「息子よ。さっき『直接手で触れるな』と言ったのはお前ではないか」
冗談めかした物言いだが、フォカスの眼はどう見ても本気だ。これはまあ、つい衝動に流された俺が悪かった。
「ってことは、これは相当に危険なものなんだな?」
すると、アルノルが後を引き取って、その緑褐色の塊を靴のつま先でつつきながら言った。
「ああ、トールなら話くらいは聞いたことがあるんじゃないか? こいつはヒヨスだ」
「うお……」
確かに聞いたことがあった! おぼろげな記憶ではハムレットの父王が耳に注がれたのもこの種の物だという説があったはず。トリカブトなどと並んで古くから知られる毒だ。
「なるほど。死んだ犬の症状も、これなら説明がつくな。文献にあったヒヨスの記述と一致する」
フォカスが他の包みも慎重に調べながら、そう言った。
「クソッ、フィリベルトとかいう司祭はとんだ食わせ物じゃないか」
まさしく毒使い。薬物に通じ、複数の毒を隠し持って使い分ける――そんなおぞましい技能を隠し持った男が、どうしたいきさつで俺の婚礼に派遣されたものか?
「そういえば、あいつの手は武器を持ちなれた人間の手だったな……」
誰が手を下したのかはまだ断定できないが、殺してくれていっそ助かった、と言うほかはない。これは犯人が見つかっても、むしろボールドウィンから褒賞が出るのではないか。そんなことを考えながらなおも行李の中身をあさっていると、さらに妙なものが出てきた。
「何だこれ。手紙かな?」
それは封筒を連想させる形に折りたたまれた、まだ真新しい羊皮紙だった。黄色い蜜蝋で封緘したらしき形跡があるが、印章が押し付けられていたであろう肝心の部分は、蝋の塊を鋭利な刃物ですっぱりと切り取ってあるようだ。
わずかに薄く残った蝋が、その書状を辛うじて封じていた。思い切って開封する。中身は――読めない。
ブレーメンでオムデン侍祭に読んでもらった、看板の文字とだいたい同じ書体。してみるとカロリング小文字とか言うやつか?
「フォカス、これを読めるかどうか見てくれないか」
「どれ、見せてみろ……ふむ、妙な書体だが読めんことはないな、外交文書などで見たことはある。ローマ(東ローマのこと)の物とはすこし変化しているが、ラテン語のようだ」
「さすが元は皇女付きの侍従だけのことはあるなあ。頼もしいよ、義父さん」
「この緊迫した時にからかうでない」
どれどれ、と手に取って窓からの薄明かりにかざし、フォカスが目をすがめる。見るうちに、その顔は次第に赤く青く色が変わり、なんとも剣呑な様相を呈し始めた。
ヒヨスは実在の毒草で、アルカロイド系の毒物を含み、古代から様々な使われ方をしています。ご興味のある方は調べて見られるのもよろしいかと。
なかにはビールの味付けに使われた、なんて話も。正直ぞっとする。