5-9①
邸のどこからか響いてくる人の声に、エリシュカは重い瞼を上げた。昨夜は寝付きが悪かったせいか、少し長く寝すぎたようだ。それにしてもいつもより随分騒がしいのは、何かあっあのだろうか。目をこすりながら身体を起こすが、部屋の中からでは何もわからない。
ベルを鳴らして使用人を呼ぶが、一向にやってくる気配はない。いつもすぐに来るわけではないが、それにしても時間が掛かりすぎている。
一人で着替えられるのは、ルツィエの用意してくれた服くらいだが、それを着て邸内を歩き回るわけにもいかない。どうしたものかと思案していると、遠慮がちに扉を叩く音がした。
「はい」と応えると、「お嬢様っ」と慌てた様子のルツィエの声が聞こえてきた。入るように促すと、「お待たせしました」と申し訳なさそうにしている。
「何かあったの?」
首を傾げたエリシュカに、ルツィエは躊躇いがちに口を開いた。
「私もよくわからないんですがね、テレシエ様の具合がよくないらしくて」
それからため息を吐いて、少し呆れた風に腰に手を当てて首を横に振った。
「それにしたって、エリシュカ様をお待たせするなんて。今日お嬢様のお手伝いをする使用人がテレシエ様のところに向かったもんで、何があったか聞いたんですよ。そうしたら、もうずっとエリシュカさまをお待たせしてるって言うじゃないですかっ」
「それで急いで来てくれたの?」
「当然ですよ」
「ありがとう、ルツィエ」
笑みを浮かべたエリシュカに、ルツィエはまだ怒った風にしかめっ面をしている。
エリシュカは、母が亡くなってから色々なことを諦めていた。以前ならこんなことがあっても、特に何も思わなかっただろう。ルツィエに礼は言っても、まあいつものことだとその程度だ。けれど、今はルツィエとパヴェルがここにいてくれたことに、心から感謝している。
野営で寝床や食事を用意したり、干し肉を齧ってやり過ごしたり。そんな経験をしなければ、気付かなかったに違いない。自分だけが冷遇されているように思っていたが、実際はそこまで酷くはない。そうでなければ、旅に耐えられるような身体を持ち合わせてはいなかっただろう。
他の貴族に比べて恵まれているわけではないが、ヴラノヴァーの領地で会ったホンザ母子を思い出せば、それでもやはり自分はまともな生活を送れているのだから。こんなことを他の貴族に言ったら、市井の民と比べるなんてと鼻で笑われてしまうのだろうけれど。いや、きっと旅をともにした四人は笑わない。そう思えるだけの時間を重ねてきたのだと思うと、それもまた心強く思える。
「お嬢様、何かいいことでもあったんですか? こんな扱いを受けてるっていうのに、文句の一つもおっしゃらないのは……まあ、いつものことですけど。それにしても今日はなんだか嬉しそうですね?」
ルツィエに言われて無意識に綻んでいた頬を両手で包みこんだ。さらに笑みを深めたエリシュカに、ルツィエのしかめっ面が不思議そうなものに変わる。
「私って、思ってたより不幸じゃなかったわ。ルツィエとパヴェルには感謝してる。いつもありがとう」
目を瞬いたルツィエは、次の瞬間唇を結んで鼻をすする。「なんですか、急に」と言ったきり黙りこんで、エリシュカの着替えに取り掛かった。
支度を終えて部屋を出ようとすると、階下でズラタが何かを喚いている。顔を合わせるのは面倒だと思い、様子を窺う。どうやらどこかへ出掛けるらしい。機嫌が悪そうな声音が響いているので、いいことではないのだろう。
ルツィエと顔を見合わせると、二人揃って首を傾げた。そう言えばルツィエが部屋にきたとき、テレシエの具合がどうとか言っていなかっただろうか。少し気になったが、顔を出すわけにもいかず、そのまま声が聞こえなくなるのをじっと待った。
静かになった階下へ移動して、大分遅めの朝食を済ませたあと、今度は邸に突然の訪問者が現れた。
「エリシュカっ!」
慌てた様子でやってきたのは、アダムだ。一緒についてきていたルツィエに目配せすると、眉を寄せて不服そうに頷いた。拳一つ分だけ扉を開けたまま、ルツィエは外に出た。しかし扉の直ぐ側で待機している。
「どうしたの?」
「テレズカの具合が悪いって聞いてっ。本当は指輪を着けた翌日から、少しずつ悪くなってたんだ。きっとアーティファクトのせいで……」
言いかけて言葉を止めたアダムは、我に返ったように俯いた。そのアーティファクトを最初にエリシュカに渡したのはアダムだ。ヴァーツラフの命令だったとは言え、そんなものを他人に着けさせていたのだから、気まずくなるのも当然だろう。
それにしても、あの指輪はどれほどの魔力を吸い取るのだろうか。エリシュカは四年間着けていても特に体調を崩すこともなかった。だとするなら、もう一度魔力測定の洗礼を受けたらどうなるのか。そこまで考えてから、今更だと思い直す。この家の人間に喜んでほしいわけではないし、ヴラノヴァーを継ぐことは変わらない。ふとルカの顔を思い浮かべて、胸の奥がずしりと重くなった。
「それで、朝からヤロスラフ様の伝手で医者に診てもらってもよくならなくて。さらにその医者の紹介で他のところに行ったみたいなんだ……。僕は心配になって会いに来たんだけど、すれ違ったみたいだね」
「でも、指輪を外せばいいだけじゃないの?」
「そうなんだけど……テレズカはこれくらいしか役に立てないからって外そうとしなかったし、ズラタ様はエリシュカのしてた指輪だと気付いて大喜びで……」
「アーティファクトだとは言えなかったのね?」
眉を下げたアダムが、困ったように頷いた。エリシュカのペンダントを奪えなかったズラタからすれば、婚約指輪を着けたテレシエを見れば確かに喜びそうだ。二度と返すものかと意地になっても仕方ないかも知れない。とは言え、アーティファクトでは婚約などできないのだが。それを言っても聞き入れはしないだろう。
「それで、アダムはどうして私のところへ?」
「あっ、そうだった」
アダムは思い出したように、上着のポケットから封筒を取り出した。
「兄上に宛てて手紙を送ったんだ。この間の書類を見付けてすぐに。リシュカは、ルカーシュ・イェリーネク様と何か関係があるの?」
「か、関係っ? ど、どうして?」
突然ルカの名が出てきて、不自然にどもってしまった。後ろめたいことは――多分ないはずだ。それなのに薄っすら額に汗が滲み、引きつったような笑みが浮かぶ。
「あの指輪がアーティファクトだって話した日、イェリーネク家のご当主に調べてもらったって言ってたじゃない。どうしたんだよ、忘れちゃったの?」
そう言えば、あの日イェリーネク家の名前を出したのだったと、今頃になって思い出した。誤魔化すように額を手の甲で軽く拭い、「忘れるわけないじゃない」と返す。首を傾げたアダムは、すぐに続きが大事とばかりに話しだす。
「それで、ルカーシュ様から僕宛てに私信がきたんだ。ちょうど兄上に手紙を書いてたところだったんだけど。中を見たらイェリーネク卿からも口添えをしてくれるような内容で」
「そうだったの」
エリシュカはふと前回会ったイェリーネク家の当主を思い出した。恐ろしいということはないが、どこか厳しい人だったように思う。イェリーネク家が動くべきでないことは、静観するような態度だった。ヴァーツラフのことに関しては、秘密結社の依頼に関わっているから動いたということだろうか。
「それで、兄上に急いで手紙を送ったら、返事がきたんだ」
「ベドジフ様はなんておっしゃってるの?」
「今すぐには無理だけど、一週間後なら戻れるって。もし父上が何かよからぬことをしてるなら、外交官としての仕事にも支障が出るからね。身内の始末は早めに片付けたいってさ」
アダムはそう言ってから、薄い笑みを浮かべた。それはどこかほっとしているようでいて、何かを諦めているようにも見える。優秀なベドジフに対して劣等感を抱いていることは、つい最近聞いたばかりだ。兄が戻るまで何もできない自分に、もどかしさを感じているかも知れない。
それがわかっても、エリシュカにはどうすることもできない。婚約者になったとき、もしアダムが向き合ってくれていれば何か変わったのかも知れないが。アダムはテレシエしか見ていなかったのだから、あの日に戻ったところで同じ結果だろう。
「クリーマ家はこれで終わりかも知れない。まあ、これも自業自得かな」
「どういうこと?」
「父上の様子がおかしいと思ったことも、エリシュカとの婚約も、僕は自分じゃどうにもできないって何もしてこなかった。そのツケが今になって回ってきたってところかな」
アダムは仕方ないとでも言うような、苦い笑みを浮かべた。エリシュカは何とも言えずに曖昧に頷く。
「それに、今度は素直に兄上に頼ることにする。優秀な兄上のことだから、恐らく最悪の事態に陥ることのないよう、うまく立ち回るよ」
肩をすくめたアダムに、エリシュカは「そうね」と答えた。本当のところはわからないが、不幸になることを願っているわけでもない。
「エリシュカには色々と迷惑掛けちゃったから、報告くらいはしようと思ったんだけど」
「そう」
それ以上は言葉が続かず、気まずい空気が流れた。視線を彷徨わせたアダムが、「えっと」と何かを言いかけてから視線を彷徨わせる。首を傾げたエリシュカは、「どうしたの?」と尋ねてみた。
「……テレズカが、どこの医者に行ったかなんて、知らないよね?」
「出掛けたことすら知らないわ」
呆れたように首を振ると、アダムは所在なさげに身体を揺らした。
「それじゃあ、そろそろお暇するよ」
「ええ」
短く言葉を交わすと、扉の外で待っていたルツィエに先導されて、アダムはそのままホールへ向かった。




