神父の皮を被った悪魔
――ガツンッ。
静かな教会の片隅に、物騒な物音が響いた。
「ふっ、ふははっ、ふはははは。これだ、この盃さえ手に入れれば……」
一人の男が鈍く光る盃を、ステンドグラスから降り注ぐ光にかざして笑い声を立てた。その瞳は虚ろで、盃を見ているようでいてどこか遠くを見つめている。その足元にはうつ伏せで倒れる神父が一人。
男はブツブツと何かを呟きながら、教会の扉を潜り抜けた。それ故、気付かなかった。神父がうつ伏せに倒れながら、その口元に笑みを浮かべていることに。
しばらく倒れたままだった神父は、何事も無かったかのように立ち上がる。汚れた服を愉快そうに払い、細めた目は大凡真っ当な人間には見えない。
「クハハッ、間抜けな人間め」
神父は満足げな笑みを浮かべ、こちらに視線を移した。
「俺が何者か知りたいか? ……いいだろう、神父様の説教を聞くがいい。俺はこんな形をしているが、悪魔だ。神父が悪魔なんてどんな冗談かって? いいや俺は大真面目だ」
神父――否、悪魔はゆっくりと歩き出し、一番前の椅子に座る。見上げた先には神の像だ。
「神様とやらの前で聞かせてやろう、なぜ俺がここでこうしているのか」
悪魔はさも愉しげな笑みを浮かべ、遥か彼方を見つめて口を開いた。
今から数百年昔、森の奥でひっそりと暮らす『善き魔女』がいた。稀に訪ねてくる者に薬草を与え、その身に宿る大いなる力で人々の暮らしを助けていた。おいそれと近づける存在ではないが、忌避されるべき者でもなく。ただ静かに暮らす魔女だった。
そこへ一人の傷を負った男が訪れる。魔女は男を介抱し、やがて男は魔女を籠絡した。
男は魔女と子を成し、国を興した。魔女の大いなる力を存分に利用し、それを継承する子を手に入れた。その真意を悟った魔女は、やはり『善き魔女』だった。
「俺を召喚して何を願う?」
悪魔は不遜な笑みを浮かべて魔女を見下ろした。
「私の力を奪って欲しい」
腕を組み、口の端を上げた悪魔がちらりと魔女の子に視線を移す。
「いいだろう。お前の娘を器にして魔力と共に俺に寄越せ。俺にとっては、お前の魔力もその器も実に魅力的だ」
「断る」
強い口調で異を唱えた魔女は、十六になる娘を庇うように抱きしめた。
「対価もなしに、俺がお前の願いを叶えるとでも?」
「私の命を対価に」
「そんなものは必要ない」
蒼白な顔で悪魔を見上げる魔女は、震えを隠すように拳を握りしめた。
「では一体何を?」
「そうだな……ではこうしよう」
悪魔は残酷なまでに美しい笑みを浮かべ、魔女をじっと見つめた。
その対価を聞いた魔女は、娘を強く抱きしめ全身を震わせた。娘もまた青褪め、きつく唇を噛み締めた。しばらく沈黙の時間が過ぎ、やがて魔女は静かに口を開いた。
「お前の望むような結末を迎えることは決してない。私は私の子らを信じるのみだ」
悪魔はペンダントと盃を手に、愉悦の笑みを浮かべた。
「クックック。これまで長い時を待った甲斐があったというものだ。あの魔女とまるでよく似た魂が生まれ、その力を望む人間が現れた」
神父は殴られた頭をそっと撫でるが、さして気にした様子もなく再び笑みを深めた。
「きっともうすぐ手に入る。盃にその力が満たされれば、俺の悠久の願いが叶うのだ」
すっと立ち上がった神父は、椅子の影に隠れた男の方へ視線を向けた。
「ところでお前は、いつまでそこに居るつもりだ。喜びのあまりつい聞かせてしまったが、触れ回られても面倒なのだ」
細身の男がガチガチと歯を鳴らし、震える体を抱きしめた。ゆっくりと近づいてくる神父は、これまで礼拝で見ていた神父と同じであることが信じられないほどに、冷たい笑みを浮かべている。
「さあ、わかったのなら早く出ていけ」
神父の額からツーっと一筋赤いものが流れる。ぽたりと床に落ちたそれへ視線を落とした男は、「ひっ」と小さな悲鳴を上げた。
「なんだこれは。……人間の体とはやわなものだな」
額の血を拭った神父が、忌々しげに呟いた。それから首に巻かれた黒い布を撫で、舌打ちをする。
視線が逸れたことでどうにか体が動くようになった男は、慌てて後ずさる。震える膝を叱咤して、どうにか教会の出口へ辿り着いた。恐る恐る振り返ると、そこにはもう神父の姿はなかった。幻でも見たのかも知れない――きっとそうだ。そう言い聞かせた男は、そのまま逃げるように教会を後にした。




