タイトル未定2026/04/08 07:47
## 濁った聖水、あるいは作家の地獄
水元雪祈は、売れないライターだった。貯金は底を突き、夢見ていたファンタジー小説の公募は一次選考すら通らない。天涯孤独、友人もいない彼女にとって、唯一の救いは「自分はまだ、誰かに優しくできる余裕がある」と信じることだけだった。
新宿駅の改札前、ボロ布のようなコートを着たホームレス風の男に「千円貸してほしい」と頼まれたとき、雪祈は迷わず財布を開いた。
「いいですよ。返さなくたって大丈夫ですから、温かいものでも食べてください」
それが、彼女の人生が狂い始める引き金だった。
その男は、安高海来。莫大な資産を動かす業界の黒幕である。彼は雪祈の無欲な善意に「聖女」を見出し、調査したところ、彼女が心優しいだけではなく真面目な努力家で、いわゆる「ダイヤの原石」であることを知った。
そのため、彼女を一流の作家、そして自分の理想の花嫁に仕立て上げるという、傲慢な救済計画を開始した。
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### 第一章:見えない鳥籠
雪祈の周りに、不可解な幸運が降り注ぎ始めた。
なぜか仕事の依頼が増え、行く先々で親切な「専門家」に出会う。大学教授、民俗学者、そして自称・霊能力者の水木。雪祈は「ファンタジーを書くための取材」と称して、水木のスピリチュアル・サロンに通い始めた。
「雪祈さん、あなたの魂には毒が溜まっているわ。このフラワーエッセンスを飲みなさい」
水木から渡された小瓶。それを飲み始めてから、雪祈の夜は変わった。
恐ろしいほど鮮明な夢を見る。水木が予言する「不吉な出来事」が次々と現実に的中する。雪祈は不安に震え、自信を失い、水木に縋るようになった。
「怖い……仕事が手につかないんです」
「それはあなたが『正しくないもの』を書こうとしているからよ」
実は背後で、安高の命を受けた学者やメディア関係者が、雪祈を「教育」していた。だが、水木らスピリチュアル班だけは暴走を始めていた。彼らは雪祈の頭の中を24時間監視し、彼女がこっそり執筆していた「BL」のプロットを見つけ、激怒したのだ。
「こんな卑俗な同性愛を書くなんて、魂の穢れよ!」
「前世は男に強姦されて殺された姫だったのよ! だからこんな倒錯したものを書くの!」
テレパシー、という名の集団心理的圧迫。雪祈の脳内には、四六時中、見えない誰かの説教が響き渡るようになった。箸の上げ下げ、言葉遣い、そして創作の内容。彼女が愛した耽美で気品ある物語は、水木たちの「魂の矯正」という暴力によってズタズタに引き裂かれた。
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### 第二章:怒りのレシピ
安高海来は、引きこもりがちになった雪祈を「自立させる」ためのゲームを仕掛けた。
水木に命じ、フラワーエッセンスの処方を「怒りを呼び起こすレシピ」に変えさせたのだ。泣いてばかりの女を、戦う女に変えるために。
効果は劇的だった。だが、方向が違った。
ある晩、安高が主催した最高級ホテルでの親睦会。本来なら、雪祈が「未来の作家・花嫁」としてお披露目されるはずの席だった。
正装した学者や名士たちの前で、雪祈はいきなり立ち上がり、テーブルクロスを叩いた。
「うるさい! どいつもこいつも、私の頭の中で喋るな!」
彼女の口からは、溜まりに溜まった泥のような毒が溢れ出した。安高が用意した英才教育の教師たちを、彼女は天才的な観察眼で論破し、罵倒し、恥をかかせた。
かつての優しい雪祈は消え、そこにはノイローゼで毛羽立った、怪物のような女がいた。
追い打ちをかけるように、水木たちは「荒療治」を開始する。
安高に対し、「彼女はBL作家などという卑しい道に進むべきではない。もっと卑近な男と結婚して苦労し、魂を磨くべきだ」と進言したのだ。
そこで用意されたのが、雪祈の中学時代の同級生、島津英巳。無職、傲慢、過去に雪祈の悪評を流した最低の男である。
水木たちは「霊的結婚」と称し、雪祈の意識に英巳の存在を無理やり紐付けた。
24時間、頭の中で英巳が自分を馬鹿にする声が聞こえる。雪祈は発狂寸前だった。原稿用紙に向かっても、書けるのは英巳への呪詛と、消えてほしいという悲鳴だけ。
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### 第三章:三毒の正体
変わり果てた雪祈を見て、安高はようやく事の重大さに気づいた。彼は高名な宗教学者に相談を持ちかける。
学者は雪祈を取り巻く惨状を見て、静かに首を振った。
「安高さん、これは『三毒』の渦です。怒り、妬み、そして愚痴。彼女を導こうとしたスピリチュアリストたちが、自分の思い通りにならない彼女に対し、最も卑しい『怒り』をぶつけている。魂を磨く? 冗談ではない。彼らはただ、自分たちの操り人形を作って悦に浸っているだけだ」
安高はハッとした。
「BLが魂のレベルが低い」という水木たちの主張がいかに滑稽か。三島由紀夫を例に出すまでもなく、芸術に貴賤はない。むしろ、雪祈の自由を奪い、精神的な虐待を加えているスピリチュアル班こそが、最も醜悪な存在ではないか。
安高はサロンに乗り込み、水木たちに絶縁を告げた。
「彼女の権利は憲法で保障されている。彼女が何を書こうが、誰を愛そうが、彼女の自由だ。二度と彼女の脳内に触れるな」
水木たちは顔を真っ赤にして叫んだ。
「憲法!? そんな俗世のルールが何よ! 私たちは宇宙の真善美を教えてやっているのよ!」
だが、安高は冷徹だった。
「そうか。では、君たちがこれまで彼女に行ってきた『霊感商法』と『精神的虐待』の証拠を、法廷という俗世のルールで裁かせてもらう。実名で報道される準備はできているか?」
「実名」という言葉を聞いた途端、魂だの宇宙だのと説いていた彼らは、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
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### エピローグ:千円の価値
それから数ヶ月後。
雪祈の頭の中から、不快な声は消えた。
安高の「花嫁計画」もまた、彼の反省とともに白紙となった。雪祈は元の孤独なライターに戻ったが、その表情にはかつての穏やかさが戻っていた。
ある日、久しぶりに家を出た雪祈は、馴染みのカフェへ向かおうとした。
駅の改札前。あの日と同じボロを纏った男が立っていた。
「……あ、あの時の」
雪祈が声をかけると、安高(ホームレス変装中)は照れくさそうに笑い、ポケットからシワシワの千円札を取り出した。
「約束通り、お返しします。助かりました」
雪祈はそれを受け取り、ふふっと笑った。
「利息、高いですよ。……この近くにいいカフェがあるんです。お礼に、一杯ご馳走してくれませんか?」
「喜んで」
大がかりな魔法も、神仏の加護も、お節介な救済もいらない。
ただ一杯のコーヒーと、対等な会話。
それが、彼女が本当に必要としていた「物語」の始まりだった。




