第99話:『終わる聖域と、異能の防人(さきもり)』
第99話:『終わる聖域と、異能のさきもり』
プシュゥ……。
倒れ伏した少年の頭部から立ち上る白煙が、高級タワーマンションのリビングに、およそ不釣り合いな焦げた臭いを充満させていた。
私はその場にへたり込み、震える両手で自分の口元を覆った。
ほんの数分前まで、ここは私たちにとっての安全な鳥籠だったはずだ。淹れたてのコーヒーの香りが漂い、悠斗が体を鍛え、レンが呆れたようにテレビを見ている。そんな、かりそめだけれど確かな平穏があった。
それが今、見るも無惨に破壊されている。
ひしゃげた鋼鉄のドア。粉々になった飾り棚。壁に穿たれた無数の亀裂。
そして、床に転がる、生命活動を強制終了させられた少年の亡骸。
「……梨花、怪我はないか」
悠斗が木刀を下ろし、私の方へと歩み寄ってきた。
彼の体から立ち上っていた異常な熱気と、ボコォッと隆起していた筋肉は、すでに元のしなやかな少年のそれに戻りつつあった。しかし、彼の頬にはナイフで切り裂かれた一筋の傷があり、そこから赤い血がツーッと顎を伝って落ちている。
「私は平気。……悠斗こそ、血が……」
「こんなの、かすり傷だ」
悠斗は手の甲で血を無造作に拭い、床に倒れた少年を見下ろした。その瞳には、かつてアルメルシアで強敵を倒した時のような達成感はない。あるのは、やり場のない深い怒りと、底知れない悲哀だった。
「……ただ操られていただけの子供を、俺は……」
「自分を責めるな、悠斗。お前がやらなきゃ、俺たちの首が飛んでた」
レンがタブレットから顔を上げ、冷たい声で言った。彼女の指先は、カタカタと恐ろしいスピードでキーボードを叩き続けている。
「それに、こいつはもう人間じゃなかった。脳をいじられ、意識を奪われ、ただ殺戮命令を実行するだけの機械だ。……どこかの国が造り出した、最悪の人間兵器だよ」
ウゥゥゥゥゥゥン……!!
その時、マンションの遙か下、地上の道路から複数のサイレンの音が響いてきた。同時に、廊下の奥のエレベーターホールから、重装備のブーツが床を蹴る音が多数近づいてくる。
「……おせーよ、無能どもが」
レンが忌々しそうに舌打ちをした。
数秒後、ひしゃげたドアの隙間から雪崩れ込んできたのは、黒い戦闘服にアサルトライフルを構えた防衛省の特殊部隊の隊員たちだった。彼らは素早くリビングに展開し、周囲の安全を確保する。
そして、その隊列を割って、一人の男がゆっくりと足を踏み入れた。
銀縁の眼鏡の奥で、冷徹な蛇のような目を光らせる男。防衛省特務局の黒田だ。
「……遅くなりましたね。お怪我はありませんか、瀬戸さん、風間君」
黒田は、破壊された部屋の惨状をぐるりと見渡し、一切の感情を交えない声で言った。
「遅いどころの騒ぎじゃないわ」
私は立ち上がり、黒田を睨みつけた。
「ここは、あなたが安全だと保証した場所よ。それなのに、武装した暗殺者が玄関のドアをぶち破ってくるなんて……どういうことよ?」
「申し訳ない。敵の偽装が、我々の想定を上回っていたようです」
黒田は一歩進み出て、床に転がる少年の死体を見下ろした。
「彼は、正規の宅配業者のシステムをハッキングし、身分をすり替えて堂々と正面から侵入してきました。そして、監視カメラの映像をリアルタイムでループ映像に差し替え、外のSPを音もなく処理した」
黒田が部下に顎で合図すると、隊員の一人が少年の頭部を慎重に調べ始めた。
「……やはり、脳内チップの自爆による証拠隠滅ですか」
黒田は眼鏡の位置を直し、低くため息をついた。
「知っていたのね、黒田さん」
私が問いつめると、黒田は隠す様子もなく頷いた。
「ええ。最近、諜報網に引っかかっていた不確定情報が、これで真実だと証明されました。……某国の軍部が、盗み出したアルメルシアの開発データを利用して、恐るべき兵器を量産し始めているという情報がね」
黒田は革靴の踵で、床に散らばったガラスの破片を踏み砕いた。
「彼らは自国の孤児や、反体制派の子供たちを強制的に昏睡状態に置き、脳に軍事用AIチップを埋め込んでいる。そして、安全な基地にいるオペレーターが、VRゲームのキャラクターを動かすように、彼らの肉体を遠隔操縦している。……それが、この人工覚醒者、ドールです」
悪寒が背筋を駆け上がった。
ゲームのキャラクターのように。
つまり、操作している人間にとって、これはただのモニター越しの戦争なのだ。痛みも、恐怖も、倫理観もない。ただコントローラーを握って、画面の向こうの人型の塊を動かし、人を殺す。
「……なんて、おぞましい」
私は両腕を抱きしめた。マザーブレインがやっていた箱庭の実験よりも、ずっと悪質で、ずっと残酷だ。
「問題は、それだけではありません」
黒田の視線が、少年の死体から、悠斗が手にしている木刀へと移った。その刀身には、ナイフと激突した際にできた深い傷が刻まれている。
「この少年は、ただ遠隔操作されているだけではない。……アルメルシアの脳再生プログラムを悪用して、脳機能の活性化を極限まで進めて、人の人生を早送りにして、数倍の時間を戦闘に費やして、脳に直接、戦闘データを蓄積することで、人間の限界を超えた反応速度や身体能力を、現実世界で強制的に発現させられている。先ほど、風間君と渡り合ったように」
黒田の目が、獲物を見つけた鷹のように細められた。
「そして……それに対抗し、彼を撃退した風間君。君のその身体能力もまた、ただの高校生のものではない。……先ほど部下が回収した監視映像には、君が常人離れした速度で木刀を振るい、敵を吹き飛ばす姿が映っていました」
「……それがどうした」
悠斗が黒田の前に立ち塞がり、私を庇うようにして鋭く言い放った。
「俺がどんな力を持っていようが、あんたらのモルモットになるつもりはねぇぞ」
「誤解しないでいただきたい。私は君たちを恐れているわけでも、利用しようと企んでいるわけでもありません」
黒田は両手を軽く上げ、敵意がないことを示した。
「ただ、事実を述べているだけです。……風間君、君がアルメルシアの治験プログラムで習得した剣術や身体強化といったスキルが、現実世界の君の肉体にもフィードバックされ、発現し始めている。これは、瀬戸さんが魔法を現実で使えるようになったのと同じ、極めて稀な成功例です」
「成功例だと……? ふざけるな。俺たちは望んでこんな体になったわけじゃない!」
悠斗が声を荒らげた。
「その通りです。だが、世界はそれを許さない」
黒田の声が、一段と冷え込んだ。
「某国は、盗み出した不完全なデータで、この少年のように欠陥だらけの使い捨て兵器、ドールを量産し始めた。しかし、彼らが本当に欲しがっているのは、君たちのように自我を保ったまま異能を操る、完全な覚醒者のデータです。今回の襲撃は、君たちを拉致するためのテスト、あるいは我が国に対する宣戦布告と言っていい」
黒田の言葉が、重くリビングに響き渡った。
窓の外、東京の煌びやかな夜景が、どこか遠い世界の幻のように見えた。
ガラス一枚隔てた外側では、もうすでに戦争が始まっているのだ。国境を越え、倫理を越えた、目に見えない異能の戦争が。
「さらに厄介なことに、同盟国のアメリカも黙ってはいません」
黒田は眉間を揉みながら言った。
「CIAからは連日、『日本のセキュリティはザルだ。君たちの保護と研究は我々が引き受ける。さっさと身柄を引き渡せ』と強烈な圧力がかかっています。政府内でも、アメリカの機嫌を損ねる前に君たちを差し出すべきだという意見が出始めている」
「冗談じゃないわ!」
私は叫んだ。
「私たちは物じゃない! 日本政府の道具でも、アメリカの実験動物でもないわ!」
「ええ、私も同意見です。君たちを他国に渡せば、我が国は永遠に防衛の要を失うことになる」
黒田は深く息を吸い込み、私たちを真っ直ぐに見据えた。
「だからこそ、君たちに決断してもらわねばなりません」
「決断……?」
「このマンションは、もはや安全な聖域ではない。敵は日本の防衛網を突破し、ここまで刺客を送り込んできた。……次に彼らが狙うのは、君たちのご両親や、かつての友人かもしれません」
「なっ……!」
悠斗が息を呑む。黒田の言葉は、最も痛いところを突いていた。地方に隠れ住んでいるはずの両親、学校の友人たち。彼らにまで、この血なまぐさい手の内が伸びるかもしれない。
「彼らを守り、かつ、某国の非人道的な兵器開発を止めるためには……君たち自身が盾となり、剣となって戦うしかない。また、危害を加えてきた相手を故意に殺害してしまった場合にも、戦争での殺害行為と同様に個人の責任は問われません」
黒田が、悠斗に向かって手を差し出した。
「防衛省は、君たち覚醒者を中心とした、対外防衛の特別部隊を新設するつもりです。……協力していただけますね?」
それは、実質的な徴兵の通告だった。日本では特段の事情がある場合に限り、徴兵することが可能となっていた。マンションでの保護生活や警備体制、それに魔法という未知の力についての管理、保護、特段の事情という建前を繰り返し使用することで、今回の様々な件に対応されてきたという。
某国についてもどこの国なのか聞いたところ、中国、ロシアの可能性が高いとのこと。また、韓国、中東諸国、南米のベネズエラやキューバなど、複数の国や組織からも注目され、狙われているとのことだった。アメリカですら情報の提供をしなかった場合には、敵に回るだろうとの見解まで示された。
それに、今までやらかした私たちの行動についても、保留とされているとのことを匂わせてきて、協力を依頼された。
確かに、悠斗を救うために、防衛省の施設への侵入、破壊、治療用のカプセル型装置の窃盗、逃走のために都内に停電を起こした件、施設への侵入時のカモフラージュのデモ行進も、当然無許可で行った。他にもいろいろやった気がする。
退路は塞がれているし、協力するしか道が無い状況を作られていた。のんびりまったりキャッキャウフフしている間に、私たちを取り込む準備が完了していたというわけね。
戦わなければ、大切な人たちが標的になるかもしれない。
戦えば、私たちは某国の操り人形、ドールである子供たちと、血で血を洗う殺し合いをしなければならない。
どちらの道を選んでも、かつて私たちが夢見た普通の日常は、完全に断たれてしまう。
私は、足元で冷たくなっている少年の遺体を見た。
彼にも家族がいたかもしれない。彼にも帰りたい場所があったかもしれない。
大人たちの身勝手な欲望と、暴走するテクノロジーが、彼の人生を奪い、単なる殺戮の道具に変えてしまった。
もし、私たちがここで目を背ければ、彼のような犠牲者が世界中に溢れ返ることになる。
「……やるしかないわね」
私は、震える唇を噛み締め、悠斗を見上げた。
悠斗の瞳にも、迷いはなかった。彼は深く頷き、木刀を握る手に力を込めた。
「あんたらのために戦うわけじゃない」
悠斗は黒田を睨みつけ、はっきりと宣言した。
「俺たちは、これ以上、俺たちのような悲劇を生み出さないために戦う。……それだけだ」
「……結構です。動機はどうあれ、結果を出してくれれば」
黒田は満足そうに口角を上げ、部下たちに撤収の指示を出し始めた。
部屋を吹き抜ける夜風が、冷たく頬を撫でていく。
私たちの平和な日常は、終わりを告げた。
アルメルシアから生還した私たちが次に足を踏み入れるのは、魔法と剣、そして血の匂いが立ち込める、現実世界という名の本当の戦場だった。
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