第97話:『監視付きの硝子細工』
第97話:『監視付きの硝子細工』
ザッ、ザッ、ザッ……。
規則正しい呼吸音と、床に汗が滴る音。東京都港区。その一等地にある超高層タワーマンションの最上階。広々としたリビングルームで、神崎悠斗は黙々と腕立て伏せを繰り返していた。
「……998、999、1000」
身体を起こし、彼は軽く息を吐いた。Tシャツ越しに浮き上がる筋肉は、三ヶ月前の「骨と皮」の状態からは想像もできないほど隆起し、しなやかな鋼のような質感を帯びている。
「……おかしいな」
悠斗は自分の掌を握りしめ、不思議そうに呟いた。
「リハビリを始めてまだ数週間だぞ。……筋肉の付き方が異常だ。それに、身体が軽い」
彼は立ち上がり、窓際に置いてあった木刀を手に取った。
ヒュンッ!!
無造作に振るわれた木刀が、空気を切り裂く鋭い音を立てる。その速度は、プロの剣道家でも視認できないレベルだ。
「悠斗、あまり無理しないで。……佐藤博士に怒られちゃうよ」
キッチンから、エプロン姿の私が顔を出した。手には淹れたてのコーヒー。ここでの生活は、表向きは「平穏」そのものだ。最新の家具、最高の眺望、そして何不自由ない衣食住。政府が私たち「特異点」を懐柔するために用意した、黄金の鳥籠。
「ああ、悪い。……でも、じっとしてると体が疼くんだ。まるで、何かが身体の中で暴れたがってるみたいに」
悠斗が苦笑しながらコーヒーを受け取る。
私は窓の外を見た。眼下に広がる東京の街並み。しかし、私たちの部屋のバルコニーの先には、常に小型の監視ドローンが数機、ハエのように旋回している。
さらに、マンションの入り口、エレベーターホール、廊下には、常に黒スーツのSP(公安)が配置されている。
「警護」という名目の「監視」。
「……平和ね」
私は皮肉っぽく呟いた。
「でも、このガラス一枚隔てた向こう側は、私たちの知らないところで腐り始めてる」
「……その通りだ、梨花」
リビングのソファで、複数のモニターに囲まれていたレンが、スナック菓子を噛み砕きながら重い口を開いた。
彼女の表情は、いつになく険しい。
「どうしたの、レン? 眉間に皺が寄ってるよ」
「笑い事じゃねぇよ。……見てみろ、これ」
レンがメインモニターに地図を表示させた。日本列島を中心に、無数の赤い矢印が海外から伸びている。
「日本のサイバー防衛網の現状だ。……見ての通り、穴だらけのザルだぜ」
赤い矢印は、特定の国々━━大陸の某国や、北の軍事国家から、怒涛のように日本のサーバーへ流れ込んでいた。
「ここ数週間で、政府のサーバーへの不正アクセスが急増してる。……狙いは明白だ。『プロジェクト・アルメルシア』の研究データ。つまり、お前たちがいた仮想世界と、脳神経接続の技術だ」
「……盗まれてるの?」
「ああ。防衛省のセキュリティなんざ、奴らの国営ハッカー集団にかかりゃ紙切れ同然だ。……もう既に、基幹プログラムのコピーが海を渡った形跡がある」
レンがキーボードを叩き、一枚の顔写真を表示した。
真面目そうな中年の研究員だ。
「昨日、アルメルシアの開発チームにいた元技師が一人、行方不明になった。……警察は『家出』で処理してるが、現場には争った形跡があったそうだ」
背筋が寒くなった。家出じゃない。拉致だ。技術が盗まれるだけじゃない。それを知る「人間」ごと、持ち去られている。
「……目的は、なんだ?」
悠斗が鋭い声で問う。
「さあな。だが、平和利用じゃねぇことだけは確かだ。……あっちの国じゃ、人権なんて言葉は辞書に載ってねぇからな」
レンがモニターを切り替える。そこに映し出されたのは、衛星写真だった。大陸の奥地、地図には載っていない山岳地帯にある、巨大な軍事施設のような建物。
「ここ最近、この施設で異常な電力消費が観測されてる。……マザーブレインを稼働させていた時と同じくらいの、莫大な熱量だ」
嫌な予感がした。私たちが命がけで破壊したあの世界。人を人とも思わない実験。脳を弄り、心を壊す技術。それが今、私たちの手の届かない場所で、もっと最悪な形で再現されようとしている?
「……黒田は知ってるの?」
「気づいてるだろうさ。だが、公表できねぇ。……自分の管理不足を認めることになるし、何より外交問題になるのを恐れてる」
レンが忌々しそうに舌打ちをした。
「俺たちがいるこの部屋は、今のところ安全だ。……だがな、日本の『壁』はもう壊されてる。……いつ、向こう側の『怪物』がこのリビングに入ってきてもおかしくねぇぞ」
ピリリリリ……。
その時、部屋のインターホンが鳴った。モニターには、いつも立っているSPではなく、宅配業者の制服を着た男が映っている。帽子を目深に被り、手には大きな段ボール箱。
『……お届けものです』
ごくありふれた日常の風景。けれど、悠斗の目がスッと細められた。彼が持っていた木刀を握る手に、血管が浮き上がる。
「……梨花、レン。下がってろ」
「え?」
「……殺気だ」
悠斗が低い声で告げた瞬間。平和な日常という名のガラス細工に、決定的な亀裂が入ろうとしていた。




