第91話:『境界を越える、二つの鼓動』
第91話:『境界を越える、二つの鼓動』
ドガガガガガッ……!!
足元の螺旋階段が、音を立てて崩れ落ちていく。
私たちは全速力で駆けていた。呼吸が苦しい。足が重い。けれど、立ち止まることは許されない。
眼下では、あの巨大な光の樹が、そしてヴォルフたちがいた最深部の祭壇が、真っ黒な虚無の海へと飲み込まれようとしていた。
「……見るな、梨花! 前だけを見ろ!」
悠斗が私の手を引き、叫んだ。
彼のアバターは、すでに限界を迎えていた。漆黒の鎧はほとんど剥がれ落ち、その下から、私たちが知っている「制服姿の少年」の姿が半透明に透けて見え始めている。
この世界における「黒騎士」としての役割が終わり、本来の「神崎悠斗」としてのデータが再構成され始めているのだ。
「出口は……あそこね!」
私が指差した頭上。
偽りの青空に入った亀裂の向こうから、強烈な「白い光」が漏れ出していた。
あれはデジタルの光じゃない。現実世界の光。私たちが帰るべき場所。
『警告。領域閉鎖まで、あと10秒。……急げ、二人とも!』
レンの焦った声が、ノイズ混じりに脳内に響く。
「……っ、飛ぶぞ!」
悠斗が地面を蹴った。
階段の最上段が崩れるのと同時に、私たちは虚空へと身を投げ出した。
重力がない。浮遊感。
周囲を、この世界を構成していた無数のポリゴン片が、桜吹雪のように舞い上がっていく。
それは、私たちが旅した雪原の白であり、森の緑であり、そして仲間たちの笑顔の色だった。
(さよなら……)
私は心の中で呟いた。
楽しかったことも、辛かったことも、全部抱きしめて。
私たちは手を繋いだまま、あの眩しい白い亀裂へと吸い込まれていった。
***
プツン。
音が、消えた。
光の奔流が視界を埋め尽くし、次の瞬間、強烈な浮遊感が「重力」へと変わった。
「……ッ、はぁッ!?」
ガバッ!!
私は勢いよく上体を起こした。
全身に脂汗が滲んでいる。心臓が早鐘を打っている。
視界に入ってきたのは、薄暗いコンクリートの壁と、無機質なサーバーラックの点滅だった。
鼻をつくオイルとカビの臭い。冷え切った空気。
「……梨花!」
すぐそばで、ヘッドセットを外したレンが駆け寄ってきた。彼女の顔には、安堵の色と共に、焦燥が張り付いている。
私はダイブ用のレン特製のカスタムカプセルの中から、転げ落ちるようにして立ち上がった。
自分の身体だ。肉の重みがある。痛みがある。
「悠斗は……!? 悠斗はどこ!?」
私は叫び、部屋の中央にある白いカプセルへと駆け寄った。
そこには、無数のチューブに繋がれたまま眠る、痩せ細った悠斗の姿があった。
モニターの数値が、激しく乱高下している。
ピーッ、ピーッ、ピーッ、ピーッ!!
警告音が鳴り響く。
カプセルの中で、悠斗の身体がビクン、ビクンと痙攣していた。
「脳波、覚醒水準に到達! ……来るぞ!」
コンソールにしがみついた佐藤博士が叫ぶ。
私はカプセルのガラスに張り付き、祈るように彼を見つめた。
「悠斗……! 起きて……! 帰ってきて!」
あの世界で繋いだ手。その感触はまだ残っている。
ヴォルフが背中を押してくれた。マザーの呪縛を断ち切った。
あとは、あなたがこちらの世界に「ログイン」するだけ。
「悠斗ォォォッ!!」
私がガラスを叩いた、その瞬間。
ドクンッ。
悠斗の身体の痙攣が、ピタリと止まった。
警告音が消え、代わりに、規則正しい心電図の音が響き始める。
ピッ……ピッ……ピッ……。
そして。
ゆっくりと、本当にゆっくりと。
その瞼が震え、持ち上がった。
そこに現れたのは、あの赤い電子の光ではない。
少し色素の薄い、けれど確かな意志を宿した、焦げ茶色の瞳。
「……あ……」
酸素マスクが白く曇る。
彼の瞳が、焦点の定まらないまま彷徨い、そしてガラス越しの私を見つけた。
ふわりと、彼の目元が緩んだ。
マスクの下で、唇が微かに動くのが見えた。
声は聞こえない。
でも、私には分かった。
彼が、こう言ったのが。
━━『ただいま、梨花』
「……っ、うぅ……!」
私の目から、熱いものが溢れ出した。
もう、データの涙じゃない。本物の涙だ。
私は崩れ落ちそうになる膝を必死に支え、ガラスに額を押し当てて、泣き笑いの顔で頷いた。
「……おかえり、悠斗。……おかえりなさい!」
北海道の廃倉庫。
氷点下の寒さの中で、二つの鼓動が、確かに重なった。
長い長い、虚構の旅の終わり。
そして、ここからが、私たちの本当の「人生」の始まり。
窓の外では、雪が止み始めていた。
雲の切れ間から差し込む朝日が、私たちを祝福するように、倉庫の中を黄金色に照らし出していた。




