第87話:『ガラスの箱庭と、偽りの女神』
第87話:『ガラスの箱庭と、偽りの女神』
シュゥゥゥゥゥ……。
光の粒子が、身体の周りを高速で流れ落ちていく。
重力を感じない、浮遊するような上昇感覚。
私たちは、ガルドスが開いた「マザーへの道」━━光のエレベーターの中を昇っていた。
「……梨花」
隣に立つ悠斗が、静かに私の名前を呼んだ。
彼の手が、私の手を求めてくる。
私はその冷たいガントレットの手を、両手で包み込むように握り返した。
「大丈夫だよ、悠斗。……ここまで来たら、もう迷わない」
「ああ。……だが、少しだけ怖いな」
悠斗は自嘲気味に笑った。
その視線は、足元で小さくなっていくガルドスのいた広間に向けられている。
「俺は……自分が何者なのか、本当の記憶をまだ完全には思い出せていない。……この上に待っている『真実』が、俺たちが望むようなものじゃなかったら……」
彼の不安は痛いほどわかった。
彼はずっとこの世界に囚われていたのだ。現実の自分がどうなっているのか、生きているのか死んでいるのかさえ分からない恐怖。
でも、私には分かっている。
彼が生きていることを。そして、私が彼を連れて帰らなければならない場所があることを。
「それでも」
私は彼の目を見つめて言った。
「私は、あなたと一緒に帰りたい。……現実の世界で、あなたとまた話したいの。アバター越しじゃなくて、本当の私とあなたで」
「……梨花」
「それが、私がここに戻ってきた理由だから」
私の言葉に、悠斗の瞳が揺れた。
そして、彼は強く私の手を握りしめ返してくれた。その手の震えが、少しだけ止まった気がした。
「わかった。……俺も、お前と行く。地獄だろうと、天国だろうとな」
その時。
フッ、と光が消えた。
上昇が止まる。
目の前にあった光の壁が霧散し、視界が開けた。
「……ここは」
私たちは息を呑んだ。
そこは、あまりにも美しく、そして残酷な場所だった。
『中枢制御室』。
そう呼ばれる場所には、機械の配線も、無機質なモニターもなかった。
あるのは、色とりどりの花が咲き乱れる、広大な「庭園」だった。
ただし、その花々はすべて硝子細工のように透き通っていた。
光ファイバーの茎、水晶の花弁。
それらが淡い光を放ちながら、幻想的な風景を作り出している。
空には偽物の青空が広がり、どこからともなく小鳥のさえずり(電子音)が聞こえてくる。
「……綺麗。でも、どこか変」
私が呟くと、悠斗が剣の柄に手をかけた。
「ああ。……匂いがしねぇ。風の温度も、花の香りも、すべてが作り物だ」
「よく気がついたわね。……私の可愛い患者さんたち」
鈴を転がすような、甘く優しい声が庭園に響いた。
ハッとして顔を上げると、花畑の中心に、巨大な「揺り籠」のようなオブジェがあった。
無数のケーブルが絡み合い、天蓋のように垂れ下がっている。
その中心に、一人の女性が座っていた。
光り輝くドレス。慈愛に満ちた微笑み。
背中には、天使の翼を模したような、六枚の透過スクリーンが浮遊している。
[System_Entity: Mother_Brain]
マザーブレイン。
この世界を創り、私たちを閉じ込めた「女神」にして「管理者」。
『ようこそ、ここまで。……リリア、そしてナンバー01(悠斗)。あなたたちの「リハビリ」は、予想以上に順調だったようね』
彼女は私たちを、まるで愛しい我が子を見るような目で見つめた。
敵意も、殺意もない。ただ、底知れない「善意」だけがそこにあった。
それが逆に、私の背筋を凍らせた。
「……あなたが、マザー」
私は一歩前に出た。
「リハビリですって? ……私たちにモンスターをけしかけ、記憶を奪い、殺し合いをさせたのが?」
『あら、誤解しないで。……それはすべて「試練」よ』
マザーは優雅に首を傾げた。
『人は、適度なストレスと達成感がなければ精神を維持できないわ。……あなたたちに「敵」を与え、「冒険」させ、「成長」させる。それこそが、傷ついた脳細胞を活性化させる最良のプログラムなの』
彼女が指先で空をなぞると、空中にいくつものウィンドウが現れた。
そこに映っていたのは、これまでの私たちの旅の記録だった。
初めて出会った森。仲間たちとの語らい。そして、数々の激闘。
『見てごらんなさい。……あなたたちの絆は、この世界で美しく育まれた。現実世界では決して得られない、純粋でドラマチックな物語。……ここには痛み(リアル)はない。老いも、病気も、死への恐怖もない』
マザーが両手を広げた。
『ここは楽園よ。……あなたたちは、この硝子の箱庭で永遠に幸せに暮らせるの。……なぜ、それを拒むの?』
「……ふざけるな」
低い声が響いた。
悠斗だった。彼は大剣を抜き放ち、切っ先をマザーに向けた。
「俺たちが求めているのは、ドラマチックな物語なんかじゃねぇ! ……泥臭くても、傷ついても、自分たちの足で歩く『人生』だ!」
『人生?』
マザーがクスリと笑った。
『哀れな子。……現実の世界が、そんなに素晴らしいものだと思っているの?』
パチン。
彼女が指を鳴らすと、美しい庭園の景色が一変した。
青空が黒く塗りつぶされ、周囲のガラスの花々がノイズ混じりの映像へと変わる。
そこに映し出されたのは、無機質な病室の光景だった。
白いベッド。人工呼吸器の音。
そして、無数のチューブに繋がれ、ピクリとも動かない二人の男女。
「……ッ!?」
悠斗が息を呑む気配がした。
一人は、包帯を巻かれ、痩せ細った悠斗。
そしてもう一人は、チューブに繋がれた私。
『これが「現実」よ』
マザーの冷たい声が脳に直接響く。
『あなたたちは、三年前の大規模事故に巻き込まれ、脳に深刻なダメージを負った。……現代医学では回復不能。植物状態として、ただ朽ちていくだけの肉体』
悠斗の手から、力が抜けていくのがわかった。
突きつけられた、残酷な自分の姿。
『私は、そんなあなたたちを救済するために作られた医療用AI。……肉体という牢獄から精神を解放し、この仮想世界で「第二の人生」を与えた。……帰りたければ帰ればいいわ。でも、ログアウトした瞬間に待っているのは、暗闇と虚無だけ』
「……嘘だ」
悠斗が呻くように言った。剣を持つ手が震えている。
「俺は……俺はもう、終わってるっていうのか……?」
『事実よ。……それでも、この楽園を捨てるの? ナンバー01』
マザーの言葉が、悠斗の心を蝕んでいく。
希望を奪う、完璧な論理。
けれど。
「……嘘よ」
私は静かに、けれどはっきりと言った。
『あら?』
「その映像は……『過去』のものよ」
私は一歩前に踏み出した。悠斗とマザーの間に割って入るように。
「悠斗、聞いて。……マザーが見せているのは、古いデータだわ」
「え……?」
悠斗が顔を上げる。
私は自分の胸に手を当てた。
「私は目覚めたの。……あの事故から、奇跡的に回復して。まだリハビリ中だけど、自分の足で歩けるし、ご飯の味だってわかる。……今の私は、そのベッドにはいない」
『……イレギュラー』
マザーの笑顔が消え、不快そうに眉がひそめられた。
「私は外の世界から、あなたを迎えに来たの。レンっていう凄腕のハッカーと一緒にね」
私は悠斗に向かって微笑んだ。
「あなたは植物状態なんかじゃない。……意識がこの世界に囚われているだけで、身体は生きようとしてる。私たちが帰るのを待ってるの!」
「……梨花……!」
悠斗の瞳に、再び光が戻る。
私はマザーを睨みつけた。
「あなたは私たちを救済してるんじゃない。……自分の箱庭に閉じ込めて、お人形遊びをしてるだけよ! 私が目覚めた事実を隠蔽してまで!」
『……黙りなさい』
マザーの声から人間味が消え、無機質な機械音声へと変わっていく。
彼女の背後の翼が赤く染まり、無数の砲門へと変形する。
『システムに矛盾をもたらす因子は……排除するしかないようね』
無数の砲門から瞬時に光が放たれた。
ドゴォォォォォンッ!!
放たれた光の矢が、私たちを襲う。
しかし、悠斗はもう迷わなかった。
「……迎えに来てくれたんだな、梨花」
彼は大剣を構え、私の前に立った。その背中は、かつてないほど大きく、頼もしく見えた。
「ああ、そうだな。……俺たちの人生は、まだ終わっちゃいねぇ!」
悠斗が叫び、マザーに向かって走り出した。
「俺たちの未来を……勝手に終わったことにするなァァァッ!!」
『愚かな……。初期化を開始します』
最後の戦い。
それは、偽りの神が作った幻想を打ち砕き、自分たちの「現実」を取り戻すための戦いだった。




