第63話:『エラーコードの降る荒野』
第63話:『エラーコードの降る荒野』
プシュー……。
油圧シリンダーが重々しく空気を吐き出す音が、凍てついた倉庫の静寂を震わせた。 私の目の前で、純白の塗装が施されたカプセルハッチが、まるで巨大な貝殻のようにゆっくりと開いていく。
「……まるで、棺桶ね」
私は吐き出す息を白く濁らせながら、自嘲気味に呟いた。北海道の原野、雪に埋もれた廃工場の奥深く。暖房設備の死んだこの空間は、外気と同じ氷点下の冷気に支配されている。むき出しの鉄骨は霜で覆われ、吐く息さえも凍りつきそうなほどだ。
「縁起でもないこと言うなよ。……これは『ゆりかご』だ。お前たちを新しい朝へ運ぶためのな」
分厚いダウンジャケットを着込んだレンが、指先を温めるように擦り合わせながら、メインコンソールの前に座っていた。モニターの青白い光が、彼女の中性的な横顔を照らし出している。周囲を見渡せば、業務用のサーバーラックが壁一面に並び、唸るようなファンの音を立てている。個人が所有するにはあまりに常軌を逸した設備だ。
「それにしても、よくこんな場所を用意できたわね。……この機材だって、タダじゃないでしょう?」
私が呆れて尋ねると、レンは悪戯っぽく口の端を吊り上げた。
「破綻した仮想通貨のマイニング工場を、ダミー会社経由で買い叩いたんだよ。……北国は天然の冷蔵庫だ。排熱処理のコストが浮く」
レンはキーボードを叩きながら続ける。
「金なら心配するな。昔、遊びで掘ったビッ〇コインが唸るほどあるし、裏で売った特許料もスイ〇銀行に眠ってる。……お前と彼を一生養っても、お釣りが来るレベルでな」
「……さすが、世界最強のハッカー様ね」
「褒め言葉として受け取っておくよ。……ちなみに悠斗が入ってるのは第9研究棟からパクってきた純正品だが、お前が入るのは俺がジャンクパーツで組み上げた『特製カスタム機』だ。性能は保証するぜ」
レンが回転椅子を回してこちらを向き、真剣な眼差しを向けてきた。
「悠斗のバイタルは安定。脳波レベルは依然として低空飛行だが……接続への拒絶反応はない。お前の接続環境もオールグリーンだ。……政府の追跡も、今のところこの猛吹雪が遮断してくれている」
状況は整った。私は無言で頷き、冷たいカプセルの中へと身を滑り込ませた。身体にフィットするゲル状のクッションが、ひんやりと背中を包み込む。レンの手作りだというこの機械は、無骨だが驚くほど心地よく私の体を固定した。
ふと、視線を右に向ける。すぐ隣には、もう一基、純正品の白いカプセルが並んでいる。
分厚い強化ガラスの向こう。無数のチューブとコードに繋がれた少年━━悠斗が、そこにいた。長い昏睡生活で肌は透き通るように白く、少し伸びた前髪が閉じた瞳にかかっている。彼はまるで童話の中の王子様のように静かだ。けれど、その胸には「魂」がない。 私を救うために犠牲になった彼の意識は、遥か彼方の電子の海に置き去りにされたままだ。
(待ってて、悠斗)
私はガラス越しに彼に触れるつもりで、虚空に手を伸ばした。心臓が早鐘を打つ。 これから行く場所は、私たちがかつて旅した美しいファンタジー世界ではない。管理者を失い、データが腐敗し、崩れ落ちていく瓦礫の世界だ。
「……怖くないと言えば、嘘になる」
私は正直な気持ちを吐露しながら、ジェル状の電極パッドをこめかみに貼り付けた。 冷たい感触に、肌が粟立つ。
「でも、行くわ。……彼を、こんな暗くて寒い場所に一人きりで待たせておけないもの」
「……健気なこった」
レンが口元を緩め、苦笑交じりに言った。彼女はエンターキーの上に指を置き、一度だけ深く息を吸った。
「警告しておくが、今の『アルメルシア』はもう、お前の知っているゲームじゃない。……痛覚遮断も機能しないかもしれないし、最悪の場合、ログアウトゲート自体が消失している可能性もある」
「覚悟の上よ」
「分かった。開発初期に実装案のあったHPバーの表示を復活しておく。気を付けろよ」
私の声に迷いはなかった。痛みも、死の危険も、彼がいない喪失感に比べれば些細なことだ。
「よし。……なら、行ってこい。世界一の『お節介焼き』の魔女」
レンの瞳が、力強い光を帯びた。
「必ず連れ戻せ。……そいつと二人で、このクソ寒い現実に帰ってくるんだ。温かいコーヒー淹れて待っててやるからよ」
「ええ。行ってきます」
私の言葉を合図に、レンがキーを叩いた。油圧音が鳴り、ハッチが閉じていく。レンの顔が、工場の天井が、狭まる隙間の向こうへ消えていく。
ガコンッ。
密閉音と共に、世界が完全な闇に包まれた。絶対的な静寂。自分の鼓動だけがうるさいほどに響く。直後、脳髄を直接鷲掴みにされるような、強烈なG(重力)が全身を襲った。
『━━Connection: OVERRIDE(接続:強制上書き).』
視界の闇に、無数の亀裂が走る。鮮やかな光のトンネルなど、そこにはない。在るのは、錆びついた世界を無理やりこじ開ける、灰色と赤のノイズの嵐だけ。硝子が砕け散るような不協和音と共に、私の意識は肉体という檻から乱暴に引きずり出された。
身体が溶ける感覚。重力の鎖が断ち切られ、私の意識は光の粒子となって加速する。
けれど、その旅路はかつてのように滑らかではなかった。
ガガガガッ!
激しい衝撃が意識を揺さぶる。光のトンネルには黒いノイズが走り、耳元で不快な警告音が鳴り響く。まるで、嵐の海を小舟で突っ切っているような、荒々しい乱気流。データとデータの衝突音が、悲鳴のように聞こえる。
「くっ……!」
私は見えない歯を食い縛り、意識を一点に集中させた。弾かれるわけにはいかない。 この嵐の向こうに、彼がいるのだから。
ザァァァァァァ……。
不意に、乱気流が止んだ。代わりに聞こえてきたのは、乾いた砂嵐のような音だった。 雨音にも似ているが、もっと無機質で、空虚な響き。
「……ここは」
私は重い瞼をこじ開けるようにして、ゆっくりと目を開けた。鼻孔をくすぐったのは、懐かしい草の匂いでも、土の香りでもない。焦げた鉄のような、あるいは古い図書館のカビ臭さのような、澱んだ匂いだった。
体を起こすと、そこは果てしない荒野だった。
かつて、ここには「始まりの平原」と呼ばれる、緑豊かな草原が広がっていたはずだ。 スライムが跳ね、風が木々を揺らし、遠くには冒険者たちの笑い声が響いていた場所。 しかし今、緑は完全に失われ、地面は色素を抜かれたように灰色に乾ききっている。草花はポリゴンの破片となって散らばり、岩肌は無惨に砕けていた。
そして、何よりも異様だったのは「空」だ。
「……なに、あれ」
私は息を呑み、呆然と天を仰いだ。空が、割れていた。
紫色の厚い雲が渦巻く空のあちこちに、鋭い刃物で切り裂いたような、漆黒の亀裂が走っている。その傷口からは、青空の代わりに底なしの闇が覗き、そこからキラキラと光るものが絶え間なく降り注いでいた。
雪? いいえ、違う。
私は手を伸ばし、空から舞い落ちてくるその「欠片」を受け止めた。掌の上に乗ったそれは、冷たくなく、チカチカと明滅していた。目を凝らすと、それは雪の結晶などではなく、微小な文字の羅列だった。
[ERROR] [NULL] [0x00F43A]……
「エラーコード……?」
世界が泣いている。管理者を失い、維持できなくなったシステムが、自らの崩壊を嘆くように悲鳴を上げ、その破片を涙のように降らせているのだ。美しくも残酷な、終わりの景色。
私は自分の体を見下ろした。見慣れた魔導師のローブ。手には愛用の樫の杖。ここまでは以前と同じだ。だが、左手をかざしてみると、指先が時折ザザッとノイズのようにブレて、向こう側の地面が透けて見えた。
私という存在でさえ、この世界では不安定な異物なのだ。この場所に留まるだけで、私のデータも少しずつ摩耗しているのかもしれない。
ヒュォォォォ……。
乾いた風が吹き抜け、私のローブをはためかせる。遠くで、何かが崩落するような重い音が響いた。モンスターの気配はない。他のNPCの姿もない。あるのは、圧倒的な孤独と、静かなる滅びの予感だけ。
不安が、黒いインクのように心に滲む。本当に、こんな終わってしまった世界で、彼を見つけられるのだろうか。彼はもう、形さえ留めていないのではないだろうか。
「……ううん」
私は首を振り、弱気を振り払った。胸の奥にある熱い想いだけが、凍えそうな心を支えていた。
「いるはずよ。……悠斗」
私は杖を強く握りしめた。かつて、彼は記憶を失ってもなお、私を守り抜いてくれた。 私の名前を呼べなくなっても、その剣で道を切り開いてくれた。
なら今度は、私が呼ぶ番だ。世界の果てまで声を枯らして、彼の名前を呼び続ける番だ。
「探さなきゃ」
私は一歩、灰色の地面を踏みしめた。ジャリッ。乾いた音が、静寂の中に響く。その音だけが、ここがまだ辛うじて「世界」として存在していることを証明する唯一の音色だった。
私は顔を上げ、エラーコードの雪が降りしきる荒野を見据えた。遠くに見える街の影━━「王都グランドリア」を目指して。
崩壊世界の放浪者。私の、そして私たちの、最後の旅が始まった。




