第60話:『科学者の矜持』
第60話:『科学者の矜持』
地下最深部、集中治療室。地上での喧噪が嘘のように、そこは無機質な静寂と、人工呼吸器の規則的なポンピング音だけに支配されていた。
佐藤博士は、モニターに表示される数値を見つめていた。『被検体B』━━神崎悠斗のバイタルは安定している。だが、意識レベルは依然としてフラットなままだ。
「……すまないな、悠斗君」
佐藤はカプセルの中で眠る少年に語りかけた。彼を「人質」として利用することでしか、梨花の安全を保障できなかった自分の無力さが、老いた胸を締め付ける。
ブーッ、ブーッ!
不意に、部屋のインターホンが鳴り、電子ロックが解除された。入ってきたのは、医師や看護師ではない。フルフェイスのヘルメットと防弾ベストで武装した、『ダスク』の工作員たち三名だった。
「……何用かね? 彼の検診時間はまだだが」
佐藤は白衣のポケットに手を入れ、努めて冷静に問いかけた。先頭の男が無機質な声で答える。
「作戦変更だ、ドクター。黒田局長からのオーダーにより、このエリアを放棄する」
「放棄だと?」
「そうだ。地上ではデモ隊が暴徒化し、施設の封鎖が危ぶまれている。我々は重要データを回収し、撤収する」
男は悠斗のカプセルへと歩み寄った。
「被検体Aが確保できない以上、人質としての『被検体B』の価値は消滅した。……これより、廃棄処分を行う」
「な……ッ!?」
佐藤の顔色が蒼白になった。廃棄。それは、生命維持装置を切り、彼を殺すという意味だ。
「ふざけるな! 彼は生きている! ただのデータじゃない、人間だ!」
佐藤は男の前に立ちはだかり、両手を広げた。
「どけ、ドクター。これは国家の決定だ」
「断る! 私は医師だ。目の前の患者を見殺しにする命令になど従えん!」
佐藤は叫んだ。普段の温厚な彼からは想像もできない剣幕に、工作員が一瞬足を止める。だが、すぐに冷徹なプロの動きで、佐藤の胸倉を掴み上げた。
「邪魔をするな」 「ぐっ……!」
老齢の佐藤は、なす術なく床に叩きつけられた。眼鏡が飛び、視界が歪む。肋骨にひびが入るような激痛。
「やめ……ろ……」
這いつくばりながら見上げると、男の一人が生命維持装置のコンソールパネルに手を伸ばしていた。電源オフのシークエンスに入ろうとしている。
(守ると……約束したんだ!)
佐藤の脳裏に、バイクで走り去る梨花の姿が浮かぶ。『必ず戻ってきます!』そう叫んだ彼女の信頼を、裏切るわけにはいかない。
「おおおおぉぉぉッ!!」
佐藤は咆哮し、床に落ちていた医療用メスを掴んで飛びかかった。科学者としての理性も、保身も捨てた、ただの「大人」としての抵抗。
ガッ!
しかし、その切っ先が届くことはなかった。別の工作員が佐藤の腕をねじ上げ、無慈悲に蹴り飛ばしたのだ。
「ぐあぁっ!!」 「馬鹿な真似を。……処理しろ」
男が再びコンソールに向かう。佐藤は薄れゆく意識の中で、絶望に歯噛みした。
(すまない……梨花ちゃん……) (私は結局、何も守れない無力な科学者だ……)
男の指が、赤い『停止』ボタンに触れた。悠斗の心臓を止める、死のスイッチ。
━━その時だった。
ジュウウウウウウウッ!!
部屋の空気が、瞬時に沸騰した。熱い。焼けるように熱い。入り口の分厚いチタン合金製の隔壁が、まるでバターのように赤く発光し、ドロドロと溶け落ち始めたのだ。
「な、なんだ!?」
工作員たちが驚愕して振り返る。溶解した金属の隙間から、凄まじい熱気と共に、一人の「侵入者」が姿を現した。
白い蒸気を纏い、怒りに燃える瞳をした少女。彼女は杖をつきながら、溶けた壁を踏み越えて入室した。
「……その人に」
少女の声は、地獄の底から響くように低く、そして絶対的な威圧感を放っていた。
「私の大事な人に……汚い手で触るなッ!!!!」
ドォンッ!!
不可視の衝撃波が、工作員たちを吹き飛ばした。




