第58話:『人間の壁』
第58話:『人間の壁』
正午を告げるサイレンなどない。代わりに、地鳴りのような足音が大地を揺らした。
「……始まったな」
施設の裏手、鬱蒼と茂る森の茂みの中で、レンが手元のタブレットを操作しながら呟いた。画面には、第9研究棟の正面ゲート付近の映像が映し出されている。
そこは、人の波で埋め尽くされていた。三万人の群衆が、プラカードや横断幕を掲げ、怒涛のように押し寄せている。その最前列。アスファルトの陽炎の向こうに、一人の少女が立っていた。白いワンピースを着て、杖をつき、凛とした表情で機動隊と対峙する少女━━「私」だ。
「……よくできてるわね、あれ」
私は茂みの中から、画面の中の「もう一人の私」を見て感心した。あれはレンがドローンを使って投影した、精巧な3Dホログラムだ。本物の私は今、泥だらけの作業服を着て、こんな薄暗い森の中に潜んでいるというのに。
『警告する! 直ちに解散しなさい! これ以上の接近は実力行使とみなす!』
機動隊の指揮車から、拡声器の警告が響く。巨大なジュラルミンの盾を構えた隊列の奥には、高圧放水車が砲門を向け、さらにその後方には迷彩服の自衛隊員たちが自動小銃を構えて待機していた。
指揮を執っているのは、あの黒田だ。彼は装甲車の上から、忌々しそうに群衆を見下ろしている。
「撃てないだろ、黒田。……世界中が見てるんだからな」
レンがニヤリと笑う。上空には報道ヘリが旋回し、ネット配信者たちが至る所でスマホを構えている。この状況で丸腰の市民━━それも十代の少女を先頭にした集団━━に発砲すれば、その瞬間に政権は吹き飛ぶ。
だから、彼らが選ぶ手段は一つだ。
『……放水、開始ッ!』
黒田の号令と共に、二台の放水車から高圧の水流が噴出した。それはコンクリートをも砕く水圧の暴力。狙いは先頭に立つ「私」だ。
「きゃぁぁぁっ!」 「リリア様が!」
悲鳴が上がる。ホログラムだとバレる? いいえ、そうはさせない。
「レン、今!」
「あいよ、水圧制御……カット!」
レンがエンターキーを叩いた瞬間、放水車のポンプ制御システムにウイルスが走り、吐出圧力が瞬時に低下した。凶器のような水流が、ただのシャワーへと変わる。
そして、私の出番だ。私は森の中から、画面越しの座標に意識を集中させた。距離は500メートル。遠いけれど、対象は「水」だ。変化させるのは簡単だ。
━━相転移、実行。 ━━液体から、気体へ。
ジュワァァァァァァッ!!
ホログラムの私に直撃する寸前、水流は白く爆ぜた。水蒸気爆発ではない。一瞬にして沸点を超え、白い霧となって拡散したのだ。もうもうと立ち込める白い蒸気。その中から、傷一つない「私」が、ゆっくりと歩み出てくる。
「……奇跡だ」 「水が……霧に変わったぞ!?」 「神のご加護だ! 誰も我らを止められない!」
群衆のボルテージが最高潮に達する。それはもはやデモ行進ではなかった。モーゼが海を割った神話の再現。恐怖は消え去り、人々は「人間の壁」となって、機動隊の盾に体当たりを始めた。
「押し返せ! 下がるな!」 「ダメです局長! 勢いが凄すぎて……ラインが崩壊します!」
無線から聞こえる黒田たちの悲鳴。彼らの意識は完全に正面ゲートに釘付けになっている。
「……よし。釣れたな」
レンがタブレットを閉じ、バックパックを背負い直した。
「正面はパニックだ。今なら裏口の警備は手薄になってるはずだぜ」
私は立ち上がり、泥を払った。画面の中の私が、群衆の歓声を浴びているのを見るのは不思議な気分だった。でも、あそこにいるのは本当の私じゃない。本当の私は、喝采なんていらない。ただ、たった一人の大切な人を取り戻せれば、それでいい。
「行くわよ、レン」
私は森の奥、木々の隙間から覗く無機質なコンクリートの壁を見据えた。ここからが、誰にも知られない本当の戦い(インビジブル・ウォー)だ。




