第45話:『侵入者(インベーダー)』
第45話:『侵入者』
深夜二時。第9研究棟の監視室では、警備員たちが退屈そうにあくびを噛み殺していた。モニターには、静まり返った廊下や、眠っている被検体の部屋が映し出されている。
「平和なもんだな。外じゃデモだの宗教だの大騒ぎだってのに」 「全くだ。ここは核シェルターだぞ? アリ一匹入れやしない」
警備員の一人がコーヒーを啜りながら笑う。その時。
プツン。
一瞬、モニターの画面が黒く瞬いた。
「ん? なんだ今のは」 「またシステムのエラーか? 最近、計器の調子が悪いからな」
すぐに画面は復旧し、いつもの静かな廊下が映し出された。警備員たちは肩をすくめ、再び談笑に戻る。
━━彼らは気づかなかった。モニターの隅に映っているデジタル時計の秒数が、「23」から「24」へ進んだ瞬間、また「23」に戻っていることに。映し出されているのは「現在の映像」ではない。数分前に録画された映像が、ループ再生されているだけだということに。
同時刻。地下搬入用エレベーターホール。
清掃業者のワゴンを押していた男が、監視カメラの死角で足を止めた。彼は帽子を目深に被り、無言でワゴンの底板を外した。中から出てきたのは、掃除用具ではない。消音器付きのサブマシンガンと、特殊なカッティングツール。
「……エリアC、クリア。カメラハッキング完了」
男が喉元のマイクに囁く。彼の背後から、同じ作業服を着た二人の男女が無音で現れた。その目つきは、清掃員のそれではなかった。獲物を狩る狼の目。
彼らは某国の対外工作機関が放った、実働部隊『ダスク(黄昏)』。任務は一つ。「被検体A」の奪取。不可能ならば、その脳の摘出。
「行くぞ。……ターゲットは地下3階だ」
リーダー格の男が合図を送る。見えざる手が、黄金の檻の鍵を、静かに、そして暴力的にこじ開けようとしていた。
私の安眠を破る警報音が鳴り響くまで、あと五分。
ウゥゥゥゥゥゥゥ――ッ!!
鼓膜を劈くようなサイレンの音が、静寂を引き裂いた。部屋の照明が落ち、代わりに非常用の赤い回転灯が視界を毒々しく染め上げる。
「っ……!? なに、火事!?」
私はベッドから飛び起きようとして、足が動かないことを思い出し、無様にシーツの上で転がった。心臓が跳ねる。ただの避難訓練じゃない。肌が粟立つような、この張り詰めた空気。
バァンッ!!
電子ロックが強制解除され、ドアが荒々しく開け放たれた。
「梨花ちゃん! 急げ!」
飛び込んできたのは、白衣を乱した佐藤博士だった。彼は血相を変えてベッドに駆け寄ると、私を横抱きにして車椅子へと移した。
「は、博士? 何が起きてるんですか?」 「襲撃だ! プロの部隊が侵入した。セキュリティが突破されるのも時間の問題だ!」
襲撃。その単語が現実味を帯びる間もなく、廊下から乾いた破裂音が聞こえた。パン、パン、パン! 銃声だ。映画で聞くような派手な音じゃない。もっと無機質で、冷徹な殺人音。
「くそっ、もうそこまで来ているのか!」
博士は私の車椅子を押し、廊下へと飛び出した。
「つかまってろ! 舌を噛むぞ!」
博士が猛烈な勢いで走り出す。ガタガタと車椅子が揺れ、視界が赤と黒のストロボのように明滅する。背後から、怒号と悲鳴が近づいてくるのがわかった。
「ターゲット確認! 確保する!」 「邪魔な研究員は排除しろ!」
無慈悲な命令。その直後、私たちのすぐ横の壁がバチバチと火花を散らした。銃弾が掠めたのだ。
「ひっ……!」
「伏せろ梨花ちゃん!」
博士は角を曲がり、業務用エレベーターのボタンを連打した。しかし、パネルは沈黙したままだ。
「ダメだ、システムが掌握されてる! 動かん!」
「そ、そんな……どうするんですか!?」
「非常階段だ! 行くぞ!」
博士は再び走り出す。でも、私は気づいてしまった。ここは地下三階。非常階段を使うということは、足の動かない私を背負って、長い階段を登らなければならないということだ。初老の博士に、そんな体力があるはずがない。
(私が……お荷物だから)
絶望が胸を塞ぐ。その時、前方の通路から黒い影が現れた。作業服を着た男たち。手にはサブマシンガン。挟み撃ちだ。
「そこまでだ、ドクター」
リーダー格の男が、銃口を私たちに向けた。その目は、私ではなく、私の「頭部」だけを見ていた。
「被検体Aを引き渡せ。……抵抗するなら、脳が無事なら手足はいらんと判断する」
「ふざけるな……! 彼女はモノじゃない!」
博士が私の前に立ちはだかり、両手を広げた。震えている。でも、逃げない。
「どけ。科学者に用はない」
男が引き金に指をかける。死の予感が、冷たい風となって私の肌を撫でた。
(また、守られるだけで終わるの?) (悠斗の時と同じ。私は何もできずに、大切な人を盾にして……)
ドクン。
脳の奥で、何かが弾けた。恐怖が怒りに変わる。自分の無力さへの、そして理不尽な暴力への、煮えたぎるような怒り。
「……どかない」
私が呟くと、博士が振り返った。
「梨花ちゃん?」
「私の前で……これ以上、誰も傷つけさせない!!」
私は車椅子の肘掛けを強く握りしめた。イメージしろ。ここはVRじゃない。現実だ。 重力定数は9.8m/s^2。絶対の物理法則。━━それがどうした。書き換えろ。私の「観測」が、世界を定義する!
「『重力操作』ッ!!!!」
ブォンッ!!
空間が歪んだような重低音が響いた。次の瞬間、私の体━━いや、車椅子ごと体がふわりと浮き上がった。
「なっ……!?」
男たちが驚愕して銃口を下げる。私は博士の襟首を掴んだ。
「博士、捕まって!」
「え、うわぁっ!?」
私は空中で手すりを蹴った。本来なら筋力のない私の脚だが、重力がゼロなら関係ない。反作用の法則に従い、私たちは弾丸のように吹き抜けの空間へと飛び出した。
「と、飛んだ……!?」 「撃て! 逃がすな!」
男たちが慌てて発砲する。銃弾が空気を切り裂くが、私は空中で車椅子を回転させ、遠心力で軌道を変えた。まるで、見えないレールの上を滑るジェットコースターのように。
ヒュゴォォォォォ……ッ!
地下研究棟の巨大な吹き抜けを、車椅子に乗った少女と、それにしがみつく白衣の男が滑空していく。赤色回転灯の中を舞うその姿は、あまりにも非現実的で、そして美しかった。
「は、はは……。信じられん……」
博士が眼下の床を見下ろしながら、引きつった笑い声を上げる。
「ニュートンが墓の下で泣いてるぞ……!」
「泣かせておけばいいです!」
私は叫びながら、上の階の手すりを目指した。頭が割れるように痛い。激しい空腹感が襲ってくる。でも、飛べる。この空は、VRの空よりも重くて、苦しくて、自由だ。
ガシャンッ!!
私たちは三階層上の通路に着地し、勢いのまま防火扉の奥へと滑り込んだ。
「ハァ……ハァ……ッ!」
着地と同時に魔法を解くと、強烈な倦怠感が襲ってきた。視界が明滅する。
「大丈夫か、梨花ちゃん!」
「なんとか……。でも、もうお腹ペコペコです……」
私が力なく笑うと、博士もへたり込みながら眼鏡を直した。
「……あいつら、ダスク(黄昏)だ。某国の非合法部隊だ」
「ダスク……?」
「ああ。だが、ここを抜ければ外だ。……行く当てはあるのか?」
博士の問いに、私は壁のフェイク・ウィンドウを見上げた。そこには映っていない、本物の夜空を思い描く。
「東京の街へ降ります。……あそこなら、目撃者が多すぎて手が出せないはず」
「なるほど。『木を隠すなら森の中』か。……よし、行こう」
博士が再び車椅子を押す。黄金の檻は破られた。私たちは今、本当の意味で、世界という荒野へ足を踏み出したのだ。




