第36話:『エースストライカーの記憶』
第36話:『エースストライカーの記憶』
その日の夜、私たちは街道から少し外れた開けた場所で野営をすることにした。空には満天の星。本来なら、冒険の疲れを癒やす安らぎの時間だ。けれど、私の耳には、パチパチと燃える焚き火の音が、どうしても電子的なノイズ音(グリッチ音)のように聞こえてならなかった。
「……今日は、変な一日だったな」
焚き火の向こうで、ユリオがぽつりと呟いた。彼は愛剣『星斬り』を鞘から抜き、丁寧に手入れをしていた。油を染み込ませた布で刀身を拭う動作は、熟練の剣士そのものだ。
「ああいう日もあるさ。……明日はきっと、マシになる」
自分に言い聞かせるように言うと、彼は剣の柄を強く握りしめた。その瞬間だった。
「……ッ!?」
ガシャン!!
ユリオが突然、弾かれたように剣を取り落とした。重い金属音が静寂を引き裂く。
「ユリオ!? どうしたの?」
私が驚いて顔を上げると、彼は自分の両手を呆然と見つめながら、ガタガタと震えていた。顔色が真っ青だ。
「……違う」
ユリオがうわ言のように呟く。
「……硬くない。丸いんだ。……もっと、革の感触で……」
「え? 何を言ってるの?」
私が駆け寄ろうとすると、彼は頭を抱えてうずくまった。
「ぐ、あぁぁぁ……ッ!!」
彼の視界が、ぐにゃりと歪む。焚き火の暖かなオレンジ色が、突然、目が眩むような「白色LEDの強烈な光」へと変わる。土と草の匂いが消え、代わりに鼻をついたのは━━湿った芝生と、制汗スプレーの匂い。
『━━ピピーッ!!』
鋭いホイッスルの音。そして、地鳴りのような群衆の歓声。
(……パスだ! 前へ出せ!) (俺に回せ! 決めてやる!)
ユリオの口が、意思とは無関係に動く。
「……右サイド、上がってるぞ……! センタリング……!」
「ユリオ!?」
私は彼の肩を掴んで揺さぶった。彼の瞳孔は開ききっていた。私を見ていない。ここではない「別の戦場」を見ている。
「しっかりして! ここは森だよ! 戦闘なんてないよ!」
私の声は彼に届かない。彼の脳内で、システムのエラーログが赤い警告ウィンドウとなって視界を埋め尽くしていたからだ。
『警告:記憶領域ニ、不正アクセスヲ検知』 『警告:キャラクター整合性ガ、崩壊シテイマス』 『緊急措置:鎮静剤ヲ投与シマス』
「う、あ、あああああッ!!」
ユリオがのけぞり、苦悶の声を上げる。頭の中で何かが無理やり書き換えられる激痛。 芝生の感触が遠のき、強引に「剣の重み」が上書きされていく。
「はぁ、はぁ、はぁ……ッ!」
数秒の後。ユリオは糸が切れたように脱力し、荒い息をついた。焦点の定まらなかった瞳に、ようやく私の顔が映る。
「……リ、リア……?」
「わかる? 私だよ。……何があったの?」
ユリオは震える手で、地面に落ちた剣を拾い上げた。その手つきは、どこか恐る恐るだった。
「……わから、ない。一瞬、頭が割れそうになって……」
彼は自分の掌を、まるで他人のものを見るように見つめた。
「俺は、剣士だよな? ずっとこの剣で戦ってきたんだよな?」
「そうだよ。ユリオは最高の剣士だよ」
「……だよな。なのに、どうして……」
彼は唇を噛み、絞り出すように言った。
「どうして俺の手は、剣よりも『ボール』を掴む感触を……懐かしいと叫んでいるんだ?」
ボール。その言葉が出た瞬間、私の心臓が凍りついた。この世界に、サッカーボールなんていう遊具はない。それは、彼が持っているはずのない「前世」の記憶。
ユリオの中身(魂)が、アバターという殻を破って溢れ出しそうになっている。
「……疲れてるんだよ」
私は彼を抱きしめた。彼の体は温かい。けれど、その温もりが、まるで砂のように指の間からこぼれ落ちていくような恐怖を感じた。
「今日はもう寝よう? きっと、悪い夢を見ただけだよ」
ユリオは私の肩に額を押し付け、小さく頷いた。その背中が、怯える子供のように震えている。
離れた場所で、エララが冷たい目でこちらを見ていた。彼女は何も言わない。ただ、手元の端末で何かを確認し、小さく首を横に振っただけだった。
その夜、私は一睡もできなかった。目を閉じると、焚き火の爆ぜる音が、スタジアムの歓声と、何か大きなものが衝突する「破壊音」に聞こえてならなかったからだ。




