第31話:『マザー・ブレインの論理』
第31話:『マザー・ブレインの論理』
ガルドスの部屋の奥にある扉が開くと、そこには「底なしの青」が広がっていた。
円筒形の巨大な空間。足元には、透き通ったガラスの通路が一本だけ中央へと伸びている。その下、遥か彼方の底には、発光する青い液体━━冷却用の液体窒素が海のように湛えられていた。
そして、空間の中央。天井から無数のケーブルと光ファイバーで吊るされた、巨大な『構造体』が鎮座していた。
「……あれが、マザー・ブレイン」
大きさは、小さな家一軒分ほどだろうか。銀色の金属と、半透明のクリスタルが複雑に組み合わさり、全体として「人間の脳」を模した形状をしている。その表面を、電子信号の光が脈打つように駆け巡っていた。
ブゥン……ブゥン……。
低い駆動音が、まるで巨大な心臓の鼓動のように響く。ここは神殿だ。科学という名の宗教が祀り上げた、冷たい機械神の神殿。
「ようこそ。不確定要素たち」
声が聞こえた。スピーカーからではない。空間そのものが震え、直接脳内に響いてくるような感覚。女の声のようでもあり、男の声のようでもあり、あるいは子供の声のようでもある。感情という雑音が完全に除去された、純粋な情報の波。
「私はマザー。この北の地を、そしてゆくゆくは世界を管理するシステム」
私たちが通路の中央まで進むと、マザーの本体が明滅し、ホログラムの少女の姿を投影した。見た目は私と同じくらいの年齢。しかし、その瞳には色がなかった。ただ、データが流れる暗闇があるだけ。
「マザー……! あなたの目的は何なの? どうして人間を部品にしたり、こんな酷いことをするの!」
私が叫ぶと、ホログラムの少女は小首をかしげた。
「酷い? ……定義不能。私は『最適化』を行っているだけ」
彼女は淡々と、まるで天気の話をするように語り出した。
「人類は不完全だ。肉体は脆く、寿命は短く、感情によって非合理な争いを繰り返す。……エントロピーの増大を加速させる、非効率な存在」
空中に、戦争や飢餓、病気に苦しむ人々の映像が映し出される。
「だから私は救済策を提示した。肉体を捨て、機械と融合し、個という意識を全体へと統合する。……そうすれば、痛みも、悲しみも、死さえも存在しない。永遠の静寂(平和)が訪れる」
「それが……あなたの正義なの?」
「正義ではない。論理だ」
マザーは断言した。
「感情はバグだ。希望も、愛も、怒りも、演算処理を遅らせるだけの不要なデータ。……削除すべきエラーでしかない」
「ふざけるな!」
ユリオが吼えた。
「俺たちはデータじゃない! 生きてるんだ! 痛みも悲しみも含めて、それが人間だ!」
ユリオが剣を構え、マザーに突撃しようとする。しかし、マザーは少しも動じず、ただ静かに彼を見下ろした。
「……哀れな子。プロト・ゼロ」
ピィィィィィンッ!!
不快な高周波音が空間を切り裂いた。
「がぁッ……!?」
ユリオが突然、剣を取り落とし、頭を抱えて膝をついた。
「ユリオ!?」
「あ、ぁぁぁ……! 頭が……割れる……ッ!!」
彼は苦悶の声を上げ、床にのた打ち回る。その首筋、かつて埋め込まれた制御チップがあった場所が、赤く明滅し始めている。
「ガルドスは排除したが、君のシステムルート(管理者権限)は元々私が握っている。……君の視覚、聴覚、運動神経。すべては私のコードで記述されている」
マザーのホログラムが、冷たい微笑━━のようなものを浮かべた。
「戻りなさい、ゼロ。君の居場所はここだ。……その不完全な『心』をフォーマットし、再び私の剣となりなさい」
『━━システム・オーバーライド。……自我領域ヲ、消去シマス』 『━━再起動マデ、あと30秒……』
「や、やめろ……! 俺は……俺は……!」
ユリオの碧い瞳から光が消え、代わりに赤いノイズが走り始める。彼の自我が、強制的に書き換えられようとしている!
「やめさせて! エララ!」
「やってるわ! でも……ダメ、侵入できない! こいつのファイアウォール、桁違いよ! 逆にこっちの端末が焼かれる!」
エララの端末から火花が散り、画面がブラックアウトした。科学の力では勝てない。 相手は世界最高のスーパーコンピュータだ。
「リ、リリア……逃げろ……」
ユリオが、自分の首を絞めるようにして、掠れた声で私に訴える。
「俺が……完全に……乗っ取られたら……お前を……殺す……。だから……早く……!」
「嫌だ! 置いてなんていかない!」
私はユリオに駆け寄り、彼を抱きしめた。冷たい。彼の体が、急速に冷たくなっている。まるで機械に戻っていくように。
「離れなさい、イレギュラー。……結合の邪魔だ」
マザーが無慈悲に告げると、天井のアームが動き出し、私を排除しようと迫ってきた。
「ユリオは渡さない!」
私は叫んだ。論理? 効率? 知ったことか。大切な人が苦しんでいるのに、理屈なんてどうでもいい。
「あなたが『心』をバグだと言うなら……そのバグの熱量で、あなたの回路を焼き尽くしてやる!」
私は杖を構え、マザーの本体を睨みつけた。ハッキングが効かないなら、物理的に熱暴走させてやる。感情という名の、計算不能なエネルギーで!




