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赤い薬液が沸々としている様はまるで熔岩だ。
師匠はこれを鍋の半分になるまで煮詰めろと云った。果して何が出来るのかは解らない。師匠はいつもそうだ、何も云わない。何も云わずに弟子の俺に薬の鍋の番をさせ、自分は酒場へ呑みに云っている。
昔は有名な魔法使いだと云っているが、それもどうだか怪しいものだ。俺は師匠が魔法を使っているところなど見たことが無い。
それでもインチキ臭い薬を作り、それを売って金を稼いでいる。その金で食わせて貰っているのだから文句は云えないが、この赤い液体も“塗ればたちまち美白になる魔法の化粧水”とか云って金持ちの奥方に破格の値段で売っているんだ。きっとそうだ。
それともアレか? “飲むと筋肉隆々になる魔法のプロテイン”か?
……どっちにしても、何の効果も無いインチキ薬には間違いない。
しかし、いつになったら煮詰まるんだろう? 薬が煮詰まる前に俺の頭が煮詰まりそうだ。
適当にぐりぐりかき混ぜると、結構な粘度が出て来ているような気がするが、まだまだ鍋半分には程遠い。
「ちょっと! 魔法使いのヤシマールの家ってここ?」
びっくりした。
ノックも無しにいきなりドアを開け、けたたましい女が入って来た……と思ったら男だった。
「ど……どなたですか?」
ごっつい男が長い金髪を巻き髪にして胸の大きく開いたドレスを着ている。その露になった胸元には胸毛が渦を巻き、たくしあげたドレスの裾からは華奢なハイヒールを履いたと云うか爪先に辛うじてひっかけたゴツい脚が露わになり脛毛が生えていた。
「ヤシマールってアンタ? ちょっと!どうしてくれるのよ! アンタが作った薬飲んだら男になっちゃったじゃないの!」
て事は、このゴツい兄さんは本当は女なのか。
師匠の作ったインチキ薬で男になってしまったと……一体、何の薬として売ったのか。そんな事より、この男……いや、女……は俺の事を師匠だと思っているらしい。早く誤解を解かないとボコボコにされてしまうような気がする。
「人違いです。俺は弟子のデルメクです」
「弟子? ヤシマールは何処行ったのよ!」
師匠はどっかの酒場で呑んだくれています。と云おうとして口をつぐんだ。
「あのー、そのー」
しどろもどろになっていると男は……じゃなくて女は苛立ちを更に募らせたようで世にも恐ろしい顔をして俺ににじり寄って来た。
「弟子なんて嘘ね? アンタがヤシマールなんでしょう? 弟子になりすまして責任逃れしようなんてとんだクズね!」
「ち……違います!」
更に暑苦しい顔が近くなる。気持ち悪い。
その時、俺は背後の何かに触れた。忘れてた。俺の後ろには薬を煮詰めている大鍋があるのだ。
それに触れた訳だから当然
「熱い!」
俺は男女の顔から逃げる為と鍋の触れた腕を離そうとしてバランスを崩して煮立った薬液の鍋をひっくり返してしまった。
「ああ熱い熱い」
「きゃー! 何これ熱い!」
辺り一面物凄い湯気が立ち込める。
大火傷だ。男女も蒸気の熱さにパニックになっている。
早く体を冷やさないと。家の裏の泉に猛ダッシュして飛び込んだ。何故か男女も俺に続いて飛び込んだ。
冷たい泉の水に浸かりながら、師匠が帰って来たら怒るだろうな……と途方に暮れた。
オカマ……いや、男女……いや、かつて女だった男はレオナと云うらしい。
「もう! 顔を火傷したらどうすんのよ」
そんな事を云ってぷりぷり怒っている。そんなゴツい顔に火傷の痕が一つや二つ有ったって大した事じゃないと思うが、元は女なんだし、師匠のインチキ薬の被害者なんだし、これで損害賠償が二倍三倍にでも膨れたらもう生活して行けない。
「きゃああ!アンタちょっと何してるのよ」
レオナが急に叫ぶ。何って……濡れた服を脱いで着替えようと……
「いきなり脱がないでよ! 私これでも嫁入り前なんだから!もう、イヤーっ」
ああもう、いちいちうるさい奴だ。
「じゃあ、俺、あっちで着替えるからアンタはこっちで着替えなよ。そこの衣装箱に師匠の服があるから適当に着てな」
こんなゴツい奴に師匠の服が入るだろうか?とも思ったが、師匠はまあ見かけだけは魔法使いらしくだぶだぶのローブばかり着るし、多少は誤魔化せるだろう。何にせよレースだのフリルだのついたドレスよりはマシな筈だ。
「覗かないでよ!」
いや、頼まれたって覗きたくない。
レオナはどうやら師匠が“豊胸の薬”として作った薬を飲み、男になってしまったらしい。
「て事は、師匠から薬を買ったんだろ? なのに何で師匠の顔を知らないんだよ」
「仲買の薬屋から買ったのよ、その薬屋を問い詰めたら製造者の名前と家を教えられて此所へ来たのよ」
師匠の古着を着たレオナはマッチョな魔法使いといった感じになってしまっている。それなのに相変わらずのおネエ言葉で物凄く違和感がある。
しかし、取り敢えず、俺は師匠のヤシマールでは無いと云う事は解って貰えたようだ。
「でもさあ、アンタ大丈夫なの? あの煮えてたやつモロに被ってたじゃない。私は湯気に当たっただけだからいいけど」
そういえば、その割りには痛くも熱くもない。直ぐに泉で体を冷やしたからだろうか? でも、余りにも酷い火傷だと熱さも痛みも感じないと云うし。
おそるおそる薬液がかかった部分に触れてみるとなんだか火膨れになっている。
肩と云うか背中なので自分で見られないのが困る。
「ところで、アンタの師匠は何処行ったのよ。早く解毒剤を調合して貰わないと」
「いや、それ無理だと思う」
「えっ?」
師匠は出鱈目に薬草やら何やら調合して薬を作ったんだろう。配合も原料もいちいち覚えて居ないと思う。なので解毒剤は作れる訳無い。本人が帰って来ても申し訳無いがレオナは男のままだ。
「ちょっと! 何それ?」
ゴツい顔が怒髪天をつく勢いで怒っている。怖い。
「うわああ! いやよ私こんなゴツい男のままなんて!」
今度は泣き出した。マッチョな男がさめざめと泣き出した。気持ち悪い。
泣きたいのはこっちの方だ、こんな暑苦しい元女に怒鳴り込まれ、インチキ薬とは云え、師匠の薬をぶちまけてしまったし火傷はするし、踏んだり蹴ったりだ。
そんな風に途方に暮れていると、玄関の呼び鈴が鳴った。師匠かと思ったが、自分ちに帰って来て呼び鈴は鳴らさないだろう。
出るか出るまいか迷っていると野太い声が響いて来た。
「魔法使いヤシマール! 我々は軍の者だ、此処を開けよ! 貴様を薬事法違犯で逮捕する」
窓からこっそり外を覗くと厳つい顔をした兵士が家を取り囲んでいる。
薬事法違犯って……そりゃしょっちゅうインチキ薬作ってるけど、この国にそんな法律有ったか? 新しく出来たと云うならもっと早く作って欲しかった。そしたら師匠も少しは真面目に働いたかも知れないのに。
取り敢えず師匠は不在だと云う事を伝えようと玄関に向かっていると、また兵士の野太い声が聞こえて来た。
「ヤシマール! 聞こえぬか! 貴様には極刑の裁きが下っている。早く出て来い!」
えっ……?
極刑って事はつまり……
何をしたんだか解らないが、師匠が極刑だとしたら弟子の俺も同罪になるんじゃ……?
「レオナ! 逃げるぞ!」
「えっ?」
「話は後だ、死刑になりたくなかったらとにかく付いて来い!」
「え? え? 何で私まで死刑? 意味解んない」
レオナのゴツい手を掴み、暖炉の裏の隠し通路に滑り込んだ途端、玄関の扉が破られた音が聞こえた。