前半
<ジェノサイドとは、宗派、人種など、ある特定の集団に対する虐殺のことをいう。この作品における「特定の集団」とは、自分たちが捕食者の頂点にいると勘違いしている、ある霊長類のことを指す>
中世ヨーロッパで、魔女狩りなるものが流行ったころがあった。教会の僧侶と、それを支援する貴族たちが、世捨て人や一人暮らしの老婆など、他人と変わっている女性や、少しでも不審に見える女たちを、世に災いをなす魔力を持つ魔女呼ばわりして捕らえ、拷問して処刑するという、よくわからん頭の悪そうな行いである。
いちおう「神聖なる正義のおこない」の名目であったが、実はそれにより、当時の教会の腐敗と堕落から世間の目をそらすという真の目的があった。むろん魔法を使える本物の魔女が人間ごときに捕まったり、まして殺されるなどというザマをするはずもなく、殺されたのはすべて無力な一般人で、その罪状はあまねく言いがかりであった。
被告が法廷で罪を認めないと拷問されたが、拷問器具は痛みを感じない細工がなされ、なんの根拠もないが、なんかそんな感じに見えるという憶測により、魔女は痛みを感じないとされていたので、容疑者がそのまま痛くないと言えば魔女だから処刑、痛いと言えば嘘を言ったことになり、虚偽の証言は魔女である証拠だから処刑という、どっちを選んでも殺される以外に道がないダブルバインドの手法が用いられ、魔女の嫌疑をかけられた女性は、ことごとく火あぶりにされていった。
魔女を告訴した者には賞金が与えられ、その資金調達を口実に農民や商人など下層の国民から無理やり献金させて、教会はますます腐敗が進み、僧侶や司祭はこぞって銭儲けにふけった。
だが彼らも悪の根源である魔女を退治して神に貢献しているというわけで、どんなに我欲にふけろうが、死後は必ず救われると本気で信じていた。あの世から戻って証言した者がいない以上、彼らが死後にどうなったかはわからない。まあ普通に考えれば地獄に行ったろうが。
ところが、そのようにして魔女狩りを始めてから、数週間たったころである。ある村の農民たちの様子がおかしくなった。毎晩、彼らは遠巻きに教会を眺め、集団で林や木に隠れながら、偵察するようにじっと僧侶たちをうかがうようになった。それは日に日に近づき、ついには包囲するように数メートルずつ狭まってきて、さすがに教会側は不審に思った。
ある晩、司祭が数人の僧を引き連れて出てきて、隠れている彼らに呼びかけた。「いったい、このごろあなたがたは何をしているのか」とたずねると、農民の一人が進み出て、もったいつけるように口をひらいた。
「あ、あんたらは、その……魔女を捕まえてるんだって?」
「そのとおりだ」と司祭。「神に逆らい、世に災いをなす悪の存在を根絶するために。すべては、あなたがた人民の幸せのためである」
この返事に、民衆は顔色を変えた。もともとけげんではあったが、それが一気に一皮むけたようなあんばいだった。そこかしこで起きるざわめき。
「見ろ、やっぱりそうだ!」
「こいつら、魔女を捕まえて殺してんだ!」
「な、なんと恐ろしい!」
「ぎゃあああー!」
とつじょビビりだす人々に、坊主たちは困惑した。
「なにを言い出すのだ、いったい」
司祭もきょとんとして言った。
「我々は、諸君を救うために邪悪なるものを退治しておるのだぞ。それを――」
「うるせえ、この化け物ども!」と指さす太目のおっさん。
「化け物? なんのことだ?」
「とぼけるな!」
その隣で叫ぶ、やせた貧相なオヤジ。
「魔女っつったら、魔法を使うじゃねえか! 箒で空を飛んだり、杖で人をカエルにしちゃうんだぞ。それをこともあろうか捕まえて、そのうえ殺すなんて、地獄の底からわいて出た、とんでもねえ魔力を持ったおぞましいバケモノにちげえねえ! この妖怪野郎!」
「こえええ! こいつら、こえええ!」と指を組み、目をむいてガタガタ震えておびえまくる口ひげの男。「きっと今に、俺たちを巨大な足で踏み潰したり、口を幅二十メートルはあけて、村人全員をひとくちにぺろりと食ったり、火を吹いて焼き殺すに決まってる! こえええ! 死にたくねえええ! かみさまああ! たすけてけろおおお!」
「ま、待ちなさい、落ち着かんか!」
司祭があわてて叫んでも、いっさい聞く耳もたない農民たち。それどころか、坊主どもが言い訳するほどに恐怖は村中を席巻し、終いには憎悪すら呼んだ。
「魔女の退治は、神のご意思なのだぞ!」
司祭の言葉にキレて、クワで指す農家の中年女。
「身の毛もよだつ怪物のくせに、なあにが神だよ! 魔女を巨大な手でふんづかまえて、頭からバリバリかじってる妖怪変化のくせに!」
「誰がそんなことするかっ! イエス・キリストの名において、断じてそのような――」
「聞いたか! 腐れ妖怪が、イエスさまの名前なんぞ出しやがって!」
指さして目をむく男。
「神さまを思いっきり侮辱しやがった! おぞましいバケモンどもが、坊さんのカッコまでして、見え透いてんだよ! やーいやーい、このゴキブリ! 馬糞! カビ!」と鼻の穴おっぴろげて歯をむきだし、糞ガキのように罵りまくる。
「聖職者にむかって、その態度はなんだっ!」
「わっキレたぞ! 逃げろ、食い殺されるー!」と顔をそむけ、手で防ぐ人々。
「いま謝れば、神もお許しになるぞ!」
「うるせえ! 妖怪、死ね!」
ついに石をぶつけだす民衆。もろに顔面にあたり、「ぎゃあああ!」とだらだら流血する司祭。
だが、それだけでは済まない者もいた。過度の恐怖は暴力を呼ぶ。すべての迫害と差別の根底には、相手への間抜けな小心のビビりがあるように、農民たちにも僧たちへの恐怖のあまり、過剰防衛に走る者が出た。彼らの背後にまわり、「やられる前にやれえええ!」といっせいに襲いかかってナイフで刺殺したり、ハンマーで「死ね、コノヤロウ! ド悪魔ヤロウ!」と頭を何十発もぶん殴って頭蓋骨を叩き割るなどして、その場の僧侶たちを次々に虐殺していった。
司祭は泣き叫びながら両目を潰され、手足をノコギリでバラバラにされたあげく、家畜小屋に放られて豚の餌になった。農民たちは「死ねえええ! 化け物、死ねえええ!」と連呼しながら教会に火を放ち、残っていた坊さん方も残らず焼死した。
「魔女を殺せるほどの魔力を備えし強大な怪物ども」である僧侶たちを、このようにいとも簡単に殺害できたということは、けっきょく彼らと同じことをしたような気がしないでもないが、まあ触れないでおこう。
この村だけではない。この国の僧侶たちは、国民のそのあまりの純真さ、愚直さを舐めすぎていたため、同じように彼らの恐怖心の犠牲になった。国中の教会という教会が焼かれ、魔女容疑で中に幽閉されていた女たちも多くが焼死したが、なんとかいましめを解いて脱出できた者もいた。
その後、彼女らはみな国を出たが、それは、そのまま国内にいたらまた魔女あつかいされて、何されるかわからないからである。そして外国でも、魔女の嫌疑をかけられたことを誰にも決して言わなかった。
このように、捕まっていたのはみな濡れ衣を着せられた人間の女で、あたりまえだが本物の魔女が人ごときに捕まるはずもなく、魔女狩りのあいだは身を隠していて、ほとぼりがさめたらまた活動する、という感じだった。
また魔女なら人間の坊主など一ひねりだったろうが、もともと数が多くはないから、無数の人間をいちいち魔法でどうこうするのが面倒くさいし、なんのメリットもなかったのである。
多くの国で僧侶がすべて殺され、教会は残らず焼き討ちにあった。坊主だけでなく、支援者の貴族たちも「妖怪に指令を下す総元締めの悪魔」と見なされ、農民に屋敷を襲撃されて、家族もろとも惨殺された。
こうしてキリスト教自体がヨーロッパ全土から跡形もなく消滅するまでに一週間もかからなかった。誰かに言いがかりをつけて虫けらのように殺しただけで、このように国教そのものが滅ぶこともある。
それから数世紀がたった。
人間たちの殺しあいのさなかに隠れていた数少ない魔女たちの子孫に、自由奔放な少女がいた。これはまれに見る、あるとてつもない性質を持った一人の魔女、ジェノスの物語である。
第一章「殺人魔女とドブネズミ」
つばの広いとんがり帽子に、長袖の上着の上にかぶるだぶっとしたローブと、膝うえの長さのスカート、それに先のとがった革靴など、そのすべてが黒づくめ。白いのは露出した太ももとふくらはぎ、それに健康的なつやつやした赤ら顔と、ウェーブのかかった豊富な空色の髪くらいである。
今年で十七歳になるこの若い魔女は、名をジェノスといい、旅行が趣味で、魔女らしく愛用の箒にまたがって大空を飛び回り、町から町、国から国と渡り飛んでいた。世界は、そろそろ蒸気機関が現れようとする進歩発展の時代を向かえつつあったが、魔女や魔法使いのたぐいは健在で、中世の影をまだまだ引きずっていた。
ジェノスは十代でありながら、水、火、風、土など自然のあらゆる力を使った、広範囲にわたるさまざまな魔法をこなすやり手で、普段はその吊りあがるドヤ目を猛獣のごとく光らせ、魔法の杖のみならず、ときには素手からさえも魔法の光を発することが出来た。
たとえば攻撃魔法に反撃用魔力封じ、防御バリアと結界の張設、さらには傷や病気を治す回復魔法なども難なくこなし、かつては祖国で一時在籍していた魔法学校の教師や先輩たちに嫌われたものである。
理由は才能への嫉妬だけではない。彼女の場合、ある特徴のせいで、嫌われても仕方がなかったのである。
馬車や徒歩で旅をする普通の旅人たちは、たいてい観光や各地の名産、珍味などが目的であるが、このジェノスの旅行の仕方は、かなり変わっていた。
今日も緑なす山並みを箒で飛ぶ若い魔女。ひらけた場所に小高い丘があり、小屋の前に二人の小さな子供がいて、追いかけっこをして無邪気に遊んでいる。ジェノスはそれを見るや杖を取り出し、下降すると、杖から白い光を発した。光は二人の首をすぱっと見事にちょん切り、目をむく二つの頭が丘の下までころころと転がっていった。ジェノスは眺めながら邪悪にニヤつき、そのまま飛び去った。
さらに進むと、山間の川岸に、並んで洗濯をしている数人の女性たちがいた。ジェノスは見るや、端の一人に手から青い光を発して魔法をかけた。たちまち女の頭が縦にまっぷたつに割れ、女は「うんぎゃああああ!!」と絶叫しながら、無残に脳みそをたらして川へうつぶせに倒れた。川の中にどろどろと垂れ広がる赤い体液と緑の脳。
驚くほかの女たちも、ジェノスの魔法で手足をバラバラにされたり、上半身が爆発して肉片が飛び散ったりして、皆殺しにされた。ジェノスは口元を吊り上げて「うっひゃっひゃ」と楽しげに笑いながら飛び去った。
その先に集落があり、今度は脇の大木に斧を入れる木こりに魔法をかける。斧が彼の手を離れて宙をひょいと舞い、そのでかい刃を顔面にくるりと打ち込んだ。「ぎょはあああ!!」と木こりは両目がぽんと飛び出し、縦に大きく裂けた悲惨な顔で、血まみれであおむけに倒れ、けいれんしながら死んだ。
叫びを聞いて小屋から出てきた父親にも魔法をかけてヒグマにし、続いて出てきた太った女房を襲わせた。「うんぎゃあああ!!」と喉元を食いちぎられ、死んだところで旦那を元に戻す。彼は、自分が女の喉に食らいついているのに気づいて驚がくし、愛する妻を食い殺してしまったことに絶望して、近くの木にズボンのベルトを引っかけ、首を吊った。
ジェノスは続いて飛び上がり、集落の小屋という小屋に指先から火を放った。赤々と燃えあがる家の中で「お前らだけでも早く逃げろ!」という大人の声がしたので、右手のそろえた指先から溶けた鉄を発射して、家の扉とすべての窓の隙間に流し込み、すぐに左手から冷気を出して一瞬で冷やして固めた。
「と、とうちゃん、あかないよおおー!」
「ぎゃあああ! ママー! あついよおおー!」
中から子供らの悲痛な叫びが聞こえ、窓の中で空しくガラスを叩きながら炎上する二つの人影が見えた。たぶん兄妹だろう。ジェノスは集落が大火で全滅するのを確認してから、元気よく飛び上がって去った。
なぜこんなことをしているのかというと、楽しいからである。魔女の彼女からすれば、人間などただの虫けらなので、目につくと、今のように暇つぶしに殺しまくることがよくあった。
実は彼女も元は人間なのだが、竹を割ったようなさわやかな性格なので、そんな細かいことはいちいち気にしなかった。
ジェノスは人間殺しが何より好きだった。殺人は彼女にとって心身の健康のために欠かせないスポーツであり、趣味であり、生活になくてはならない最高の娯楽だった。
また、人間がひざまずいて許しをこうとか、特に親が悲痛な顔で「お願いします、この子だけは、どうかお助けを!」などと子供の命乞いをしたりすると、「言うとおりにしたら助けてやる」と言ってヒホヒホ猿の真似をさせたり、手拍子を打って間抜けにタコ踊りなどをさせて赤っ恥をかかせ、それを鑑賞して笑ってバカにしまくったりする。それで、さんざん楽しんで堪能し終わると、結局、親子ともども無残に殺した。いったん助けると約束して騙すほうが、相手があとで顔色を変えて絶望するので、見てて面白いのである。
ジェノスは人間が苦しめば苦しむほど、無残に死ねば死ぬほど、「楽しいなぁ、けけけけけ」と口が耳まで裂けそうなほど吊りあがって邪悪に笑い、命令どおりに醜態をさらせば、「ざまあ、うっひゃっひゃっひゃ」と腹抱えて面白がって笑った。
この大虐殺が、ジェノスの旅の目的である。彼女は魔法が使えるのをいいことに、諸国の住民たちをやりたい放題殺して楽しんでいた。ジェノスにとって殺人は、ただの遊びにすぎない。
だがこれは、そう昔からやっているわけではない。十五歳で魔女見習いになり、最初の二年はわりとおとなしくしていたが、師匠がことのほか厳しい人で、修行がきつかったせいで日に日にストレスがたまった。
だが、それでも我慢して耐えた。魔法を完璧にマスターし、それを使って好き放題に生きることだけが、人生の目標だったからである。
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しかし毎度のことだが、この国にも今の警察にあたる組織があり、このような大量殺人という凶悪犯罪には断固として対処してくる。
このアランポラン公国にある国家直属の近衛隊がそれだが、その中でも雇われ魔法使いの魔道士による魔道近衛隊マジカルアーミー、通称「マジカラミー(さらに略してラミーとも言われる)」は、国内の魔法使いや魔女の犯罪者を逮捕し、専用の結界つき監獄に入れるために組織された、特殊公安部隊である。
「そこの魔女、止まりなさーい!」
背後の男の声に振り向けば、五、六人の白づくめローブに身を包む、いかにも正義の集団という見た目の連中が箒で追いかけていた。いつものことなので、ジェノスはあまり気にせず前を向いた。
「我々はマジカラミー! アランポラン国直属の魔道近衛隊であーる! これ以上、罪を重ねるなー!」
(この国の保安隊か、めんどくさー)
とは思ったが、追いかけっこもそれなりに面白いので、片手でお尻ぺんぺんしたあと、スピードを一気に上げた。後ろの声が、心なしかむっとする響きを帯びた。
「降りなさーい! 投降すれば、悪いようにはしない!」
悪いようにしない、と言った奴が、しなかったためしはない。さっさとまこうと、いきなりきりもみ急降下するジェノス。丘の土手に箒の柄が当たる寸前でさっと真上に上昇、追っ手の二名がそのまま地面に激突して自爆した。
無数の細長い岩柱が迷路のように林立する隙間に逃げ込み、岩をあざやかな飛行テクでひょいひょいすり抜けると、後ろで残りの追っ手が柱にぶちあたって落ちる音がした。あんまり愉快なので、ジェノスは岩場を出るや、天に届くほど高らかに笑った。
「きゃはははは! ざまーみろー!」
これで敵はリーダーらしい男、一人だけ。
彼は仲間をやられてキレたのか、「きさまあ、もう許さんぞー! ふんづかまえて、ぶっとばしてやるうう!」と、追いすがりながらチンピラのようにわめきちらしている。ジェノスはおもろいので、さらに怒らせようと、後ろを向いて舌だして、舐めくさった笑みであっかんべーした。思惑どおり、男は「てめえええー! なめんなああー!」と理性が完全に消し飛び、それでまた、大口あけて笑うジェノス。
怒るほどに相手を喜ばすだけなので、怒らなければいいのだが、この隊長はまだ若くて血気盛んなので、心ならずも、この凶悪犯にご奉仕するしかないのであった。
(さて、ここいらで殺しちゃおっかなー)
周囲に崖が増えて海が近くなると、ジェノスはあたりを見回して殺人現場を物色した。が、男をぶつけ殺して絵になりそうな形の岩が、なかなか見つからない。あれもこれも平凡、平凡、つまらん。
それとも、いっそ街まで引っ張ってから殺るか。ギャラリーが多いほうが、こいつがさらし者になって笑えるし、残酷に殺せば、見物人もショックで心に深い傷を負うから、さぞかし楽しいぞ。よしそうしよう、判決っ。
ところが街の方角へターンしかけたとき、崖の向こうから箒に乗った魔道士の集団が、わらわらとわいて出た。目の前で人壁をつくり、虚空でゆれながら通せんぼしているこいつらは、ざっと見て三十人はいそうだ。
追っ手の男が背後にまわり、すり抜けて逃げるのがめんどくなったので、ジェノスはおとなしく投降した。
べつに死刑でよかった。
やりたい放題してきたので、人生に悔いはなかった。
ジェノスは、あまりにも前代未聞の凶悪犯すぎて、国民感情を抜きにしてそのまま裁判、というわけにいかず、国王じきじきの裁きが下ることになり、城へつれていかれた。剣を持った近衛兵が両側に立ち並ぶものものしい警戒のなか、巨大な伽藍を思わせる薄暗い城内の廊下を進むジェノスの両脇と背後も、やはり近衛が囲んでいたが、もちろんこっちは王国各省勤務のマジカラミーたちである(部隊のみならず、個々の兵士もこの名称で呼ばれる)。魔法の杖を、さながら現代の拳銃かライフルのごとく、容疑者とは名ばかりの真犯人に険しい顔で突きつけて護送している、こいつらのしんがりが、最初に現場に急行した部隊で、ただ一人生き残った、あの若いリーダーであった。
リーダー、リーダーではわずらわしいので、今後は彼をビジョップと呼ぶ。作者がいま何も考えずにホイとつけたのは言うまでもない。
のちに名を聞いたジェノスは、「美女が屁えこいたような名前だな」と、日本語と英語がメチャクチャな、気のきいた発言をしている。
(ふふん、よその国ではまぬがれてきたんだろうが)
(このアランポランでは、そうはいかんぞ……)
ビジョップは、黒いローブをすらりとまとったジェノスの背中をながめて、ほくそえんだ。
(なんせここには、最高位の魔法使いの集まるヨーロッパいちのオカルト最高機関、マジカラリヤがあるのだからな……)
べつに、そのうちアニメ化でもされたときに脚本を書きやすいようにと、今から気を使ってそうしたわけではないが、彼は胸のうちで、やたら説明的にほくそえんでいた。しかし、実際このアランポラン公国の魔法協会であるマジカラリヤには、優秀な魔女や魔道士が、ずるいくらいに集まっていた。ちなみに近衛であるこのビジョップも、マジカラリヤの会員である。
彼はいつしか、この世でもっとも尊敬する恩師の姿を思い出し、感慨に顔をほころばせていた。
(そういえばもう、かれこれ一年もお会いしていないが)(お元気だろうか……)
そのとき、不思議な縁とでもいおうか、廊下のわき道から誰かが歩いてきた。そっちを見るや、彼の目は輝いた。それはまさにいま、この心中に思い描いていたお方、その人ではないか。
「せ、先生!」
思わず叫ぶ声を向いたその顔は、まごうことなき、かつて彼に魔法を伝授した、あの偉大な女性であった。
「あっ……ひ、ひさしぶりですね……」
「ご無沙汰しております、ティロットン先生」
ビジョップが頭を下げると、相手も軽く一礼した。
長い黒髪を胸の下までさらりとたらし、つばの広い濃い紫のとんがり帽子をかぶって、その下は同じく濃い紫のローブに身を包むこの女性は、この国のオカルト関係者のあいだでは名を知らぬ者のない最高位の魔女、ティロットンである。
彼女に師事された者は、世に二人とない素晴らしい魔法使いになると言われるが、このビジョップは近衛隊の隊長クラスにしかなっていないので、「当たり外れもある」などと口さがない者がくさすこともある。しかし彼は、今に自分も出世して、やがてはラミーの長官に必ずなれると息巻き、よせばいいのに言いふらしさえしており、今回の史上最悪の凶悪犯逮捕は、必ずや、それへの強固ないしずえになるはずだ、と確信していた。
だが彼は、恩師のさっきから妙に元気がないのに気づいた。いや元気がないというより、蒼白い顔で終始うつむき、それでいて視線がともすればあちこちに泳ぎ、なにかにおびえているような雰囲気なのだ。修行中の先生は明るく快活で時に厳しく、こんなことはまったくなかった。こんな姿は初めて見た。
かなり驚いたビジョップは、どうしたのかと聞こうとしたが、聞くまえにわかってしまった。
それは彼に、驚がくをはるかに超えるトラウマ級のショックを与えた。
「……ジェノス」
集団の先頭で、どう見ても人気者が取り巻きを従えているわけではなく、たんに悪さして連行されているその少女を見て、ティロットンはぽつりと言った。すると少女も彼女を向き、目を細めてニヤリと皮肉に笑った。
「先生――こんなとこで、なにしてんの?」
「せ、せんせえ、だってえええ――?!」
あまりのショックに目が飛び出かけたビジョップが叫ぶと、彼の恩師はすまなそうに言った。
「ええビジョップ、この子は私の教え子のジェノスよ」
そして、つらそうにハンカチを目にあてて続ける。
「認めたくないだろうけど、こいつはあなたと同じ、私の弟子。本当に申し訳ないわ、ううう……」
「なによ、ひどいなあ」
嫌そうに口をとがらすジェノス。
「まるで私が先生の汚点みたいじゃない」
「あなたは私の汚点であり恥であり、黒歴史よ」と、かつての弟子のザマをじろじろ見る。「ふん、どうせ犯罪でもやったんでしょ」
「たいしたことしてない。虫けらをたかが百人ほど殺して遊んだだけだよ」
頭痛がして額に手をあてる先生。
「こんなのを魔女にした私の責任だわ。教える前に破門すればよかったのよ。そうよ、あんなことが起きる前に――」
「あんなこと?」
「私が悪いのに、自分のせいとかさぁ」
ビジョップの発した疑問を無視して続ける凶悪犯。
「完全に無視じゃない。私の人格を尊重してよ。人権侵害だよ」
「尊い命を大量に奪っておいて、どの口がそんなことを言えるのかしら」
「なによ、嫌なこと言うなあ」
かちんときてにらむと、とたんに「ひいっ!」と蒼くなってしりぞく先生。そして、すぐにまたうつむいて、暗く悲しい女に戻ってしまった。
それを見てビジョップは(先生は、こいつに何か弱みを握られているにちがいない)と確信、この凶悪犯に対し、怒髪天を衝くほどのすさまじい怒りが燃えあがった。
――よくも、よくも先生を。殺人鬼のぶんざいで……!
――こ、こんな、この世に二人とおられぬほどの良い方を脅すとは……!
思わず指さして怒鳴る。
「この人殺しが、お前は絶対に死刑だ! 覚悟しておけ!」
ビビると思いきや、あくびしそうなほどつまんなそうに言うジェノス。
「死ぬのもいいけどぉ、めんどくさー」
「死刑が怖くないのか?!」
「だって、たかが死ぬだけでしょ。それより殺すほうがいいや」と薄笑い。「ねえ、人間十匹くらいつれてきてよ。ここで殺すから」
「できるかっ! なぜそうも殺したがるんだ。人間に、なにか恨みでもあるのか?」
「だって楽しいじゃん、人殺すの」
にこにこと無邪気に笑って言うので、近衛隊長もさすがにぞっとしたが、ここは気合いれて冷徹に対応せにゃならん、と思い直した。
そうだ、俺までビビってどうする。師匠の前じゃないか(と彼女を見て、)ああこの人、このケダモノを前に、あんなにおびえてしまって。
そうだ、師匠を助けるのだ。いま彼女を守れるのは俺しかいないんだぞ。今こそ、かつて受けた多大なご恩をお返しするときなのだ……!
かつて勘違いだと封印していた彼女への恋心が、胸のうちの戒めを破って外へ飛び出し、見る見る心を満たした。
しかし彼女のためにすべきことは、すでに終わっている。こいつの処分は、裁きをくだす国王陛下と、死刑執行人の手にゆだねればいい。
そうだ、まずは陛下のもとへ――。
そのとき、背後から聞きなれた声が響いた。
「これはこれは!」
そして、またも耳を疑った。
「いついらしたのですか、師匠!」
伽藍のような宮殿中に、神の御声のごとく満ちたのは、国王の野太い声だった。ティロットンは王の前に出ると、ひざまづこうとした。
「いや先生、お顔をあげてください」と苦笑して手で制するオッサン。「国王にはなりましたが、私は今でもあなたの教え子ですよ」
「へ、陛下のお師匠さまなのですか?!」
身分も忘れて叫ぶビジョップに、王はあごひげを触りつつ、機嫌よく言った。
「そうだ、このお方のおかげで今の私がある。まだ第一王子のころは、ずいぶんと世話になったものだ。先生に魔法を教わる者は、世に二人といない使い手になるというが……」とにっこり笑う。「私のザマを見ると、当たり外れもあるようだな」
「ご謙遜を」と一礼のままで言うティロットン。
そのとき、王はやっとジェノスに気づいた。
「で、これが例の凶悪犯かな?」
「こんちはー」
右手をあげて明るく挨拶するジェノスに、うさんくさい目を向ける王。
「礼儀作法もなっとらんな。極悪人としては完璧だ」
「完璧だって」とうれしそうにティロットンを向く。「聞いた? 先生。国王にほめられたよ。私ってどこまでも優秀な魔女だよねー」
「せ、先生だと?!」
とつじょ目をひんむいて大口あいて驚がくする国王。あわててティロットンに聞く。
「それはまことですか、師匠?!」
「え、ええと――」
一瞬返答にこまったが、ジェノスがにらむと、たちまちおびえきって叫んだ。
「ひいいい! そ、そうですうう! 言いたかないけど、私の教え子ですうう! ま、間違いありませんんんっ!」と、しゃがんで頭を抱える。
聞くや、険しい顔になる王。
「ううむ、先生のお弟子をむげに扱うわけにはいかん。なにをしておる近衛! 杖をどかして離れんかっ! このお方は釈放する!」
これにはビジョップも仰天した。
「ええっ、大量殺人犯ですよ?! 我が国のなんの罪もない市民が、合計百人以上も、こいつによって無残に殺され――」
「たとえ極悪人でも、先生のお弟子さまだ!」
腕組みし、ガンとして聞き入れぬ王様。
「ま、弟子でもないお前には、わからんだろうがな……」
(弟子です!)
(でも、わかりません!)
と思ったが、言えなかった。
死刑をまぬがれたジェノスは、拍子抜けした顔で豪華な部屋に案内され、国王がじきじきに用意する、無罪を言い渡す書類とかにサインすることになった。待つあいだ、高級料理が出てたらふく食い、その晩はベッドでグースカ高いびきで寝た。
だが翌朝、目を覚ますと、勝手に大浴場で顔を洗って鼻歌で朝風呂につかり、部屋のクロゼットから引っ張り出した優雅なバスローブを着て、安楽椅子でゆったりした。完全にホテル気分で、手を叩いてメイドを呼び、「なんでもいいから朝飯もってこい。ステーキがいい」と命じた。すると入れ替わりに国王が飛び込んできて、こぶしを振り上げ「バッカもーん!」とカンカンになった。
「べつに、きさまを賓客として招待したわけではないわ! 贅沢するな!」
「なによ、王様のくせにケチだなぁ」と右手で持つグラスをまわしてワインをゆらす。「私はもう無罪なんだし、ファーストクラスの扱いうけて当然でしょ」
「いや、それはだな」
急に困り、口に手をそえて内緒話のように続ける。
「やはり国民感情を考えた結果、無罪放免というわけにはいかんのだ……」
「国民感情って、そんなん、そっちの都合じゃん」
「お前のせいだろうが!」と襟を正す。「そういうわけで、ジェノス殿には城下のドブ掃除を命ずる」
とたんに眉をひそめる少女。
「えー? やだー」
「わがまま言うな! これでも精一杯、譲歩したのだぞ。わが国の住民のほぼ百パーセントが、お前の死を望んでおるのだ。それに比べれば、どれほど軽い刑であることか」
「はいはい、わかりましたよ」と肩をすくめる少女。「じゃ、魔法でささっと片付け――」
「魔法は禁止だ」とテーブルに地図を広げ、該当箇所を指さす。「この部分全体のゴミ掃除だ。一日で終えること」
「こんな広いところを……」
ジェノスが目を細めて地図をにらむと、国王は妙に意地の悪い目で言った。
「そのゴミは特殊でな。サイズが犬や猫ほどもあり、そこらじゅうを動きまわって、邪魔する者には噛みついてくる」
「ちょっと待って」とにらむ。「それ、私にドブネズミの駆除をしろっていうこと?」
「まったくそのとおりだ」
「魔法なしで? 素手で?」
「魔法なしだ。素手だ」
真顔で腕組みする国王。
「そして、もし一日で終わらぬ場合は――」と、びしっと指さす。「そなたを死刑に処す!」
「ちょっ、なにそれ」
さすがに、むくれるジェノス。
「刑罰の結果いかんで死刑とか、法律違反でしょ」
「殺人鬼がなに言っとるか。これでも精一杯、譲歩したのだ」
「ちっ、しょうがないなぁ」
ほぼ悩むことなく刑を受け入れたので、王は助かったと思う反面、後ろめたさも感じた。刑罰の成績いかんで死刑にするのは確かにやりすぎだが、彼女を逮捕した近衛隊長の進言を採用した結果である。
この国のドブネズミは、サイズがえらくでかい。セントバーナードクラスもザラである。魔法なしで駆除しようとすれば、まず噛み殺される。だがこれなら師匠も、どんなにかわいい弟子の死であっても、事故ということならあきらめてくれるだろうし、もちろん国民は大納得だ。
王はそのような腹づもりであった。
執行当日、マジカラミーの岸にずらり立ち並び監視する前で、ジェノスはドブ掃除を開始した。その排水溝は市街のはずれ、長城のような石造りの仕切りの裏側にあり、街の東西をまっすぐ横断している。場所が限定とはいえ、広いところでは幅二メートルはあり、本気で掃除したら人手がいくつあっても足りないが、今回はネズミ駆除だけなので、殺りくのプロなら、なんとかなるレベルだ。
だがこの場合、従事するのは魔法なしのただの少女である。
「ま、瞬殺だな」
岸に立つ兵士の数人が意地悪く笑いあった。が、ビジョップは笑わなかった。最低の悪党とはいえ、無力なガキが無残に殺されるのを見るのは、やはり気持ちのいいものではない。が、責任者の立場上、見届けなくてはならない。そうだ、国民の、犠牲者の遺族のためにも……。
彼の中で、にがい罪悪感を押しのけるように、鋼の正義感がむくむくと膨れ上がった。
(悪だ!)(この悪を殺せ!)(滅ぼせ……!)
目がぎらんぎらんに輝く隊長。正義のはずなのに、なぜかアブないような気がしないでもない。だが、こうなるのも彼の人の良さゆえである。それだけ犠牲者と遺族たちのことを思ってのことなのだ。
たとえ、どんなに見た目が危険で、飛び出そうな目で鼻の穴おっぴろげ、歯をカンナの刃のごとくにょきにょきむき出し、興奮で鼻息ふんふんの変態の域に達していても、愛と正義の怒りに燃えているからだから、許してやろうではないか。よしよし、うんうん、わかっとる、わかっとる。
しかし結果的に、彼ら正義の使者たちの目論見は水泡に帰した。
ローブを脱ぎ、紺の作業ズボンと上着だけになって腕まくりしたジェノスは、とりあえず排水溝へ降りた。フタもなにもないから、実質ただのでかいドブ川である。石の塀につかまりながらつたなく降りる姿は、見ているものに「本当にこれが大量殺人を犯した怪物なのだろうか?」という疑問を起こさせたが、魔法を使えば赤子でも怪物になれる事実を思い出し、身を引き締めた。今までこんな感情が人に起きなかったのは、この国の国民性が穏やかで、そんな非道なことをする者がいなかったからである。
兵士たちは降りる女を、かぶりつくように、食い入るように見ていた。べつにエロい意味ではなく、相手が魔法を使ったら即、処刑しなければならないからだ。立ち並ぶ全員が片手に杖を握っている。ぱっと見、これから新体操でもするようである。罪人が変なまねをすれば、隊長の号令により、この杖から斬首魔法「四つ裂き光輪」を発して首チョンパである。
なぜ一般的な「八つ裂き」でないかというと、べつにウルトラマンの必殺技だから円谷プロになんか言われたらやだ、とかいう大人の事情ではなく、死刑に使うような場合は、あまり切れ味がいいと楽に死んでしまうため、このような凶悪犯になるほど、わざと刃を劣化させて飛ばすのである。罪人は半分だけ切れた首をぶら下げ、しばらくのたうちまわってから死ぬ。悪人になればなるほど厳罰にし、長く苦しめて殺すのは国民の総意である。
もっとも、刑の執行は今のように一般公開されないので、遺族すら遺恨の仇敵の最期を堪能することは出来ない。勝手に見ようとすると逮捕である。
さて、小学生なら長靴と呼ぶであろう黒のブーツでジェノスが底へ着くと、狭い足場のすぐ先に広がる構内を、誰かが吐いたような、きったねえくせえ黄色い下水がとうとうと流れている。だが彼女は顔をしかめるどころか、目がきらきらと星のように輝いた。深くはなく、水深は三十センチもないので、入ってもきったなくてきめえだけで問題はないが、上流の数メートル先に、なにかの黒い頭が出ては引っ込みして近づいてくるのが見えたのだ。どれもかなりでかい。
これこそが、このアランポラン公国最悪の害獣、犬ほどもある凶暴なドブネズミ、ヂュウヂュウ・ベインボフである。
かつてはふつうサイズで体にカラフルな縞模様があったため、チュウチュウ・レインボーというかわいい名前がついていたが、駆除のために放った毒魔法のエキスが体内に蓄積し、徐々に巨大化して縞が消え、毛並みがタールを浴びたようにどす黒くなり、とうとうこのサイズにまでなってしまうと、とてもかわいいとか言ってらんねえってんで、今のようなグロくなまった呼び方をされるようになった。
そして性質もやはり毒で凶暴化、見たものは即座に仲間でも噛み殺す、通り魔よりひどい破滅的生き方を送るようになってしまったのである。レミングの集団自殺をそっくり他殺に置き換えてみれば、この獣の性質がいかに危ないかがわかるだろう。
市民の犠牲者は年間一、二人、少ないときはゼロ人におよび、駆除で毒魔法を使った魔道士は責任を問われて死罪になったが、今も的確な措置ができず、野放しの状態である。ただ汚物が好きでドブの外に出てこないので、人がめったに襲われない利点はあるが、排水溝に危険動物がいるというだけでもなんかやだし、数も徐々に増えているので、そのうち厄介なことになろう。
そんなわけで、この凶悪犯に駆除を押し付けるのは最良の判断ではあったものの、関係者の誰もそれが成功するとは、つゆほども思っていなかった。一頭目でもう瞬時に食われて終わり、は確実だから、実質ただの死刑執行である。ラミーたちは、いちおうまじめに監視はしていたが、心中は気楽なものだった。
だが隊長のビジョップだけは、妙な胸騒ぎがしていた。最初はこの少女に憐れみすら感じたのに、いざ完全に下水へ降りて小さくなると、とたんに黒雲が降りてきたように不安に襲われた。
最初に見たときから、こいつにはなにか不穏なものを感じた。得たいの知れない嫌な感じ、大昔に人間が魔女や悪魔に感じていた不安、なにをしてくるか見当がつかない怖さは、案外こんなものだったかもしれない、と思った。
今だって魔法に縁がない人間には、それを使う連中は、仕事上で付き合いがあったり、実際に友達であっても、完全には信用できない相手だろう。強大な権力を持つ富豪と貧民のようなものだ。どんなに親しくても、たとえそれが家族であろうが、敵にまわせば完全に不利である。だからこそ自分らのような魔道専門の近衛隊があり、それに絡んだ犯罪を取り締まっているわけだが。
ネズミどもが来る数メートル前に、すでにジェノスはじゃぶんと下水に降り立っていた。そして背中からするっと抜き出した刃物は長さ三十センチほど、上からの陽光をギラリと照り返してサーベルのように見えた。
(あれひとつで殺す気かよ?!)
あきれたラミーたちから、わずかに笑いが漏れた。が、大笑いするものはなかった。なにか雰囲気が尋常でない。ビジョップは(まさか)と思ったが、その目を見ひらき、あわててこする事態はすぐに起きた。
少女は最前列のヂュウヂュウ・ベインボフにずんずん近づき、いきなり左手で頭をわっしとつかんで水から引き出すや、右手に持つ剣の刃をその喉笛にドスリとたたきこんだ。かつてはチュウウーだったネズミの声も、今ではグギュルルウウ! というどす低い断末魔で、それは左右の石壁に反響しあい、驚くラミーらの耳を襲った。ジェノスはそのまま真横にズザッと絹を引きちぎるように刃を引き、断ち切られた皮膚の裂け目からまっかな血が滝のようにだぼだぼと出た。
絶命したネズミを放ると、ジェノスは危険を察して飛びかかってくる猛獣たちを次々に叩き斬って、返り討ちにした。剣をぶんぶん振りまわし、大ネズミの目をえぐり、喉をつらぬき、太い首をもろにすぱっと切断すらした。何匹も一度に飛びかかればふつうは一匹くらいは噛み付けそうだが、刃の速さが尋常でなく、襲う五匹のうち端から喉、顔面、鼻、目、そして胸(心臓)と、あっというまに切られて順番に血をぶしゃあああと派手に吹き出し、さながら花火大会の様相を呈している。ほとんど「子連れ狼」みたいな昔のスプラッタ時代劇だ。
しかもジェノスの顔は、殺すたびに心底から楽しそうに生き生きと輝き、十匹めにいたっては、うれしさに大口をあけて「ぎゃはははは!」とけたたましく哄笑し、見ているビジョップらは、その抜けるような血まみれの笑顔に背筋が凍りついた。
冷静に考えれば、魔法なしでこのきゃしゃな十七の少女が、これだけ殺しまくれること自体がおかしいのだが、そのときはあまりの恐ろしさに誰も気づかなかった。彼女は殺りくを本当に心から楽しんでいた。「きゃははは! たーのしー!」とエキサイトしてネズミどもをぶった切る姿はまさに鬼神であり、「るんるんるーん♪」とご機嫌な顔でネズ公の腹をえぐり、内臓をチューブのようににゅるにゅる引き出してはぶん投げて捨てる鬼畜行為を楽しむ、その血染めの満面の笑みから、一種の聖なるオーラすら感じられるほどの、冒涜的ひどさであった。ビジョップにはそれが、人外すら超えた本物の「悪」そのものに見えた。魔女どころではない、悪魔どころか、ただの悪である。
汚れた川は鮮やかな血の色に染まり、黄色い水は深紅に塗り替えられる。ゴミのにおいに鋼鉄の香りが加わり、誰もかいだこともないおぞましい異臭になる。
三十匹ほど殺すと、ほかは逃げて、死体は下流に流され、深紅の川は元通りの黄色になった。
決められた区間を「掃除」したジェノスは岸にあがり、口があいたままのラミーたちに笑いかけた。人間以外とはいえ、多くの命を奪えたことで、とてもご満悦らしい。
ビジョップがあわあわと何か言おうとすると手で制し、
「おっと、私に近づくと腐るよ」と、まるでカッコいいかのように目を閉じて薄笑いした。
そして袖に鼻を近づけ、「うっひゃー! くっさ! くっさ! 風呂、風呂ー!」と楽しそうに王宮へ走っていった。一日の終わり、重労働を完遂した人のさわやかさであった。
その晩、大浴場がドロの海になっていて、大騒ぎになった。
こうして大量殺人鬼の見下げ果てた糞野郎は、罰にもならぬむしろご褒美でしかない刑罰を科せられただけで、ほぼ無罪放免で国をあとにした。またべつの国で、ただの暇つぶしの娯楽のためだけに、無数の罪もない人命を奪いまくるために……。
国王は、ふがいなさを国民に糾弾されて失脚したあげく、逆恨みした遺族の一人に刺されて死んだ。なにか理不尽な気がしないでもないが、そんないい人でもないし、いいかべつに。
その同時刻、下宿先で荷物をまとめるビジョップがいた。彼は退職し、あのにっくき人殺し魔女を殺すことを、生涯の目的にすると心に決めたのである。
遺族の何人かも同じ理由で出発した。というか、ジェノスが旅行に出てからというもの、すでに百人以上の遺族が復讐の旅に出て、彼女を追いかけている。
最後にひとつ、アランポラン公国で持ち上がった、あるうわさについて記しておこう。
ジェノスが勤めを果たしている最中、下水の清掃範囲すれすれのある分岐点に、熊ほどもある巨大なヂュウヂュウ・ベインボフがいて、しかもあのティロットンを飲み込んでいた、というのである。「バカでかいヂュウヂュウが下水から顔を出してて、大きくあいた口の中に、先生の顔が見えた」と目撃者は証言したが、後日、当人がぴんぴんして宮廷に現れたので、誤認であるとわかった。
その目撃者である近所の八百屋のオヤジは、あれは絶対に先生だった、あのおびえた目は間違いねえ、と最後まで言い張ったが、そもそも食われたはずの本人が否定したので、結局引き下がるしかなかった。
そればかりか、賞金目当てのデマを飛ばしたとまで言われ、「あそこの大根も人参も、どうせ原価の百倍で売ってるぞ。ひでえぼったくりだ」などと風評被害も起きてしまった。売り上げはガタ落ち、借金がかさみ、八百屋は一家心中寸前にまで追い込まれた。
ところがある日、彼の証言を裏付けるんだかつけないんだか、というような奇妙な証拠があがった。
数ヶ月前に、仕事で王宮に滞在していたティロットンの部屋から、大ネズミの着ぐるみが発見されたのである。床下に隠されていたのを偶然メイドが発見したのだが、それはかなり劣化して腐ってはいたが、あきらかにヂュウヂュウ・ベインボフのそれであり、彼らの住みかである下水の悪臭が漂っていた。
それだけなら、たんにリアリティの追求でにおいをつけたんでしょ、で済む話だが、それに付け加わるもうひとつの事柄が、偶然にも八百屋一家の命を救った。その着ぐるみには下水のほかに、あの場所にいなければつくはずのない鋼鉄のにおい――血のにおいが染み付いていたのである。
ラミーが状況証拠から引き出した結論は、「当時ジェノスの殺りくが行われた現場近くに、ティロットンがネズミの着ぐるみをきてネズミたちに混じっていた」という驚くべきものだった。彼女ほどの使い手なら、まわりに結界を張り、ラミーたちに気づかれぬようにして、ひそかに魔法でジェノスを手助けすることも可能である。そして、終わって例の分岐点で着ぐるみを脱ごうとしたとき、偶然八百屋のオヤジに見られてしまい、あわてて逃げた。
この一連の行為が事実なら完全に犯罪であり、公国はティロットンを国際指名手配したが、彼女はそれ以降、行方をくらましている。
のちに、北の国にいたビジョップへ連絡が行き、「ジェノス殺害ののち、ティロットン殺害もお願いしたい」との文言を見て、彼があきれたとかあきれないとか。
だが、このことで八百屋の証言が嘘でないとわかり、誹謗中傷したものたちは謝罪して賠償金を払った。また多くの同情者から義援金がきて、店に客が戻り、前より繁盛してチェーン展開し、今では国一番の八百屋として、国外にも知られるほどになった。
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「いやほんと、なにが幸いするかわからんね」
大社長になったオヤジは、新聞のインタビューで答えた。
「とりあえず、あの人殺しの魔女さんに感謝かな。あいつがこの国へ来たおかげで、今の俺があるんだし」
などとうっかり口をすべらせたせいで、その後、また客足を減らしている。彼は目下、女房に「また離婚、考えるわよ」と脅されるのが、一番怖いそうな。
第二章「笛吹かば殺人魔女」
ジェノスが次に向かう国はヤパンといい、我々日本人にはなにか嫌な予感がする名前だが、まだ当分着かないので安心していいだろう(よしんば、ヤパン→ジャパンのしゃれで、そこが日本だったとしても、よくて明治時代だろうから、俺らと関係ないし)。
近世ヨーロッパのユーラシアと呼ばれる広大な大陸には、さまざまな規模の国家が点在しており、今のような国境はあいまいであった。ジュノスはいま、後ろに山並みを望む山道を箒に横すわりして、ゆっくりと低空飛行していた。その口には白い横笛、奏でる調べは繊細でか細く、妙に悲しげだが、あたたかい音色であった。
このローブから、でかツバの三角帽から、スカートからとんがり靴から、一面黒づくめの若い魔女は、趣味の旅行を楽しんでいたが、その目的は変わっていて、各国の名所めぐりとかではない。むしろある意味、名所破壊である。このジェノスにとって人間はただの虫けらで、旅先で見かけたら魔法で五体を引きちぎったり首をもいだり、火を放って焼き殺したりして遊ぶのが趣味であった。そして、殺される人間たちの恐怖と苦痛にゆがむ表情や、ほとばしる無残な悲鳴を堪能するのが、旅先での何よりの楽しみだった。彼女も元は人間なのだが、アバウトなので、そういう細かいことは気にしないのだった。
左右に畑が広がる細い道が出て、右にこじんまりした丸木小屋が見えてきた。村が近いなと思い、小屋を過ぎようとしたとき、右からパチパチと拍手が聞こえてきた。止まって笛から口を離すと、それは小屋の向こうからしていて、見れば十歳ほどの男の子がぬっと現れ、拍手が大きくはっきり聞こえた。甲高いので子供だろうとは思っていたので、ジェノスは目を細めた。目のぱっちりした、わりとかわいい顔だちで、ところどころ黒ずんだ麻の白シャツに半ズボンを履いて、いかにも無邪気な天使の笑みで手を叩いている。
「ありがと」
殺人鬼のくせに柄にもなく礼を言うと、少年は手を下ろして小首をかしげ、はにかむような笑いになった。
「とってもいい曲だね。お姉さんが作ったの?」
「ううん、笛は私が作ったんだけど」と手に乗せて見入る。「どういうわけか、なにを吹いても、この曲しか出ないんだ」
「ふうん。なんか悲しいような、じーんとするみたいな」
「そうね。誰かの魂がこもっちゃったのかな」
殺人が趣味のジェノスさんではあるが、今は気が向かないので普通に話している。この子の残りの寿命は、彼女がその気になるまでのあいだだが、そうならずに終わることもあり、その場合は、かなり寿命がのびて、とてもラッキーである。
そこへ馬をひいた男がとおりがかった。田舎くさいチェックの赤シャツを着た無骨な初老のおっさんで、四十代後半くらいに見える。どうもその子の父親らしかった。
「ジミー、大根の皮むきは済んだか」
「とっくだよ」
「これは魔女さま、こんにちは」
父親はジェノスに気づいて頭を軽く下げた。隣のアランポラン公国にあるオカルト関係機関、マジカラリヤのおかげで、魔女や魔道士など魔法を使う職人に高級職のイメージがつき、とくにこの近辺ではやたらもてはやされており、なんの権威もお墨付きもない根無し草のジェノスには、飯屋などでタダ食いとか出来て大変ありがたいことだった。
彼女は高い地位の師匠についていたものの、今では破門されたも同然で、魔女の中でも最低ランクの風来坊でしかない。武士でいうと、さしずめ落ち武者かドサンピンである。
「この人の笛、最高なんだよ」
「おう、そうか」
女の手に持つ笛に気づき、感慨ぶかく目を細めて、目じりにしわが寄る。
「なつかしいな。母さんも結婚前は、よく吹いてたもんだ」
「えっ、そうなの」と息子のジミー。どうも初耳のようだ。
「うちに借金さえなけりゃ、あんなアランポランなんてゴミゴミしたとこに行かなくてすんだんだがなぁ。まあ、来月には帰ってくるんだ。おみやげ持ってな」
てっきり大きく両腕をあげて「わーい」とか喜ぶと思いきや、ジミーは首をかしいだまましばらく難しい顔をし、やっと口をひらいた。
「父ちゃん、母ちゃんの笛って、どんなだった?」
「すごくいい曲だった」と遠くを見つめる。「お前が生まれるすぐ前に、マリアは俺にこう言ったんだ。『私になにか大変なことがあったら、この曲が聞こえてくるから』って。どういう意味かわからんかったが――」
「いま吹いてみせてよ!」
「俺は吹けん。それよりジミー、すまんが、じゃがいもの皮むきも頼む」
「ちぇっ、わかった」
しぶしぶ承知し、ジェノスに「じゃあね」と手を振って小屋に引っ込もうとした。が、ジェノスは急に箒を降りて、「これあげる」と少年に笛を手渡した。
「えっ、いいの?!」
無邪気に目を輝かすのを見て、彼女は顔はにこやかに、心は凶悪にけけけけと笑いながら、「いいの、もうあきたから」とだけ言った。「わーい」と大喜びで持っていく子供の小さな背中を見つめ、魔女の口元が大きくつりあがる。
(あとで真実に気づいたときのガキの顔……!)(さぞかし面白いだろうなぁ)
見れないのはちと残念だと思ったが、ここにいちいち残ってまでするほどのことではない。
気づくと親父もいないので、どっか行ったんだなと箒に腰を下ろして行こうとした。とたん、後頭部にすさまじい衝撃がきて、真っ暗になった。
気づくと、小屋の中で手足をロープで縛られ、背を柱にくくりつけられ、見れば足元にあのでか帽子が口をあけて転がっている。が、こっちはあけられなかった。さるぐつわをはめられているのである。これは完全に捕虜か人質の状態だ。しかしジェノスには捕まる理由がわからなかった。彼女ほどの凶悪犯なら、こうなるわけなど腐るほどあるのだが。
しかし、それは程なく知れた。
「気がついたかい、殺人魔女さん」
あの親父が向かいの扉の前にいて、あざけるように言った。部屋の木の窓はすべて閉ざされ、天井に下がる裸電球が室内を白く照らしている。この国では早くも新しい発明である電気が普及し、こんな田舎にも通っている。ジェノスはふと、さっきから規則正しく水をかく鈍い音がしているのに気づいた。ここはあの小屋ではなく、どこかの水車小屋らしい。「殺人魔女」と呼んだからには、彼女の正体は丸わかりのようだ。
「さっきここへ来るときに、あんたの笛が聞こえてたんだよ。あのきれいな悲しい曲。まさにマリアがあのとき吹いたやつだ。あれが聞こえたってことは、マリアに何かあったんだ。よその国で殺人魔女が暴れてるって聞いてたから、ぴんときた。最初っから、あんたをぶっ殺すつもりだったのさ」
まくしたてると、あざけりは消え、憎憎しげに口をへの字にひん曲げ、わなわなと震えて指さす。
「あの笛は人間の骨だ! マリアを殺して笛にしやがったんだろう! 許せねえ! とことん苦しめてから殺してやる!」
いやまったく、おっしゃるとおりでござんす。すんばらしい名推理でがすね、先生。などと思ったが、女はこれから殺される緊迫感など微塵もなかった。
「杖は、ここにある」
ニヤついて、部屋の隅に立てかけてあるのを指す男。
「これがなくちゃ、なにも出来まい」いや、出来ますよ。「おっと、杖なしでもいけるってか?」と腕組みして歯を見せて笑う。「残念だが、口も封じてるから、呪文も言えねえ。もう、お前は終わりだ。神にでも祈りな。魔女じゃ届くわけねえけどな」
彼女の目が見開いているので、彼はおののいていると思って愉快になったが、実はわくわくのせいで目がきらめいているだけだった。彼女くらいになると、杖どころか呪文もなしで、目から光線を出して相手を焼き切るくらいは楽に出来る。だが、すぐに殺しちゃつまらない。出来るだけイキらせて極限まで増長させきってから、突然地獄に突き落とすほうが、こいつがより深く絶望して楽しい。ってんで、たんに引き伸ばしているだけである。今の彼女は命の危機に陥るどころか、たんに面白がって遊んでいるだけだった。
見ると親父は、暖炉の火にかけていた鍋を持ってきた。中には熱湯がぐらぐら湯だって、白い湯気をくゆらせている。そばの机に置き、にやついて言う。
「こいつをてめえのツラにぶっかけて、ぐちゃぐちゃにしてやるよ。俺は、お前の顔なんぞ全然かわいいと思わんが(よけいなお世話)、女がツラをやられたらそうとう嫌だろ。二目と見られねえようにしてやる」
ところが柄をつかんで持っていきかけたとき、扉の向こうで甲高い声がした。
「父ちゃん! 水車小屋でなにやってんの?!」
「ジミーか!」と、あわてて鍋を置き、後ろに怒鳴る。「じゃがいもは済んだのか?!」
「とっくだよ」
ガキが優秀だと困ることもある。まずい、こいつを殺すところをジミーには見られたくない。まして母親のことは知られたくない。知ったら、どれだけのダメージを食うことか……!
「と、父ちゃんはいま忙しいんだ、帰ってな」
「忙しいんなら手伝うよ」
「ダメだ、そのう――ぶ、豚を潰してるんだ!」
「豚?!」
うれしそうに声が跳ね上がった。しまった、豚つぶしはこいつの大好きな仕事だった――などと気づいても、遅かった。
「ねえねえあけてよー、見たいよー、豚、殺すとこー!」
「殺すとこなんざ、見たがるんじゃねえっ!」
ついかっとなって怒鳴ると、それきり息子の声はしなくなった。
帰ったんだろうと、再び復讐の続きにかかろうとした、そのときだった。ドアの向こうから、今度は笛の音が聞こえてきた。もの悲しい旋律、それでいて、どこか心があたたかくなる響き。あの曲だ。
それは、さっき遠くで聞こえたときとは、まるで比べ物にならない影響を彼におよぼした。メロディが、リズムが、笛の甲高い音色が、彼の脳を猛烈に直撃し、涙腺が激しく崩壊した。
「ま、マリアあああ! マリアあああ!」
とつじょ号泣しながら頭をかきむしり、まくった袖が柄にかかって、鍋が勢いよくひっくり返った。ぽんと高く飛びあがった熱湯の塊は、彼の顔面へもろにぶっかかった。
「ぎゃああああ――!」
顔をおさえて床にのたうちまわり、あとでジェノスの死体を隠そうとあけてあった地下室の入り口に、頭からあおむけに落ちた。
「うわああああ――!」
ボクッ。
数メートルの高みから落下した彼は、鈍い音をたてて床に激突した。脳天強打。即死だった。
ジェノスは魔法でさるぐつわとロープをほどき、穴をのぞくと、親父が大の字で転がっている。上からの電球の光で赤いチェックのシャツが輝き、顔がよく見えた。目が真上を見て口がアガアとあき、かなり間抜けな死に様である。後頭部からそうとう流血しているらしいが、上からは暗くて見えない。
鍵をあけて小屋のドアをひらくと、ジミーがべそをかいて飛び込んできた。持っていた笛がコロッと落ち、「おかあちゃん、おかあちゃん……!」と連呼しながら抱きついて胸に顔をこすりつけ、ひたすら泣きつづける。べつに母ちゃんじゃねえよ、とは思ったが、かわいい子供に泣きつかれるのはまんざらでもないので、よしよしと頭をなでてやった。
「どうしたの?」
聞くと、少年は涙でくしゃくしゃの顔をあげ、途切れ途切れに言った。
「こ……この曲、吹いてたら……なんだかとっても、か、悲しくなって……うう、ご、ごめんなさい……」
「いいよ、そんなの」
なんだ母親を思い出したのか、と思い、かつてないほどの優しい目で見下ろしながら、うっすら微笑するジェノス。だが、急に気が向いたので少年の頭をむんずとつかみ、魔法で首をずぼっと引き抜いた。彼は「ぎょはあああ!」と目をむいて大量の血反吐をはき、手足をけいれんさせて絶命した。ジェノスは彼の首と胴体を穴にほうりこみ、見るとそれらは父親の腕の中にうつぶせに落ちて、うまいことおさまっていた。
魔法で返り血を消し、帽子をひろってかぶり、服をととのえる。ふと床の笛に気づき、ひろって吹いてみたが、音がまったくしないので、それも穴に投げ込んだ。それは少年の隣に落ちて、やはり父の胸におさまり、これで親子三人、水入らずになった。
ジェノスはべつに笛に思い入れもないのでそのまま外に出て、落ちていた箒に腰かけて、また殺人行脚の旅へ出発した。日は暮れ、血のような夕陽がその背を黒々と染めていた。
笛が鳴らなくなったのは、夫と息子が死んで自分と一緒になったので、女の霊がとりあえず満足したからである。ジェノスは以前アランポラン公国において、このマリアという女性を遊び半分で虐殺したのだが、あとでその魂を救うのみならず、知らずに供養までしていた。作者は、「もしかしたら、こいつ実は、いい奴なのではないか……?」という疑いを持ちはじめている。
第三章「腐乱先生」
一、
カラスよりもさらに声がガラガラと汚く醜く、羽の色もさらに不吉な漆黒に塗りつぶされしギャラスなる野鳥どもの遠吠えが山全体に響きわたり、汚れた血のような夕日が浴室の壁の古びた吸盤フックのごとくポロリと落ちるころ、欧州では有名なソウルグループ、Earth,Wined & Fuck――アース・ワインデド・アンド・ファック(地球、一杯ひっかけてバコバコ)――の軽快な「SEXテンパリ婆あ」がラジオから流れだすと、ティロットン先生の憂鬱が始まる。
自宅であり修行場でもある、このガジョマルをくりぬいた家は、広い道場と、その隣に生活圏である彼女のささやかな自室、さらにその向こうに弟子の部屋、というつくりであった。ガジョマルは幅が百メートルはあるのに、高さが二十メートルもないという寸胴の大木である。短い枝が外向きに飛び出て頂点をぐるりとめぐり、その上に深緑のマフラーを巻いているさまは、平たい頭を覆うツンツン髪か月桂樹のようである。この木はこのへんの涼しい気候の山岳には珍しくなく、家を建てるより安くつくってんで、よくこのように中をくりぬいて住居にされる。
さて、ティロットン先生である。
先生というからには、ものを教えるのが仕事だ。彼女は魔女だった。この母国ナハトット・クリスタ共和国の魔法学校を主席で卒業後、怪獣退治や悪魔殺し、果ては国家要人の難病まで治癒し、さらには地球破壊爆弾製造に、衝突型加速器を用いたピッグス粒子発見による黒豚ホール(ブラック・ピッグ・ホール)出現に基づくビタミンBの過剰摂取で国民総ジンマシンという国家的大事業を成し遂げ(このへん、ぜんぶ冗談なんで本気にしないように)、当時の首相クンナ・ナチヤローから魔術最右翼の称号を得た。それをきっかけに、よわい三十五にして北欧の魔法の中心地であるアランポラン公国のオカルト最高機関、マジカラリヤから最高位の魔女の証である純金メダル、キンタラシをもらい(いらねー)、数々の優秀な弟子を輩出して、まさに飛ぶ鳥をイケメンのナンパのように落としまくる勢いだが、本人はぜいたくな暮らしを嫌い、このような山奥の小さな丘に立つ、こじんまりした家で満足している。だから幸せなはずだった。
ところが今の彼女は、この白壁に囲まれた、小さくてきれいでおしゃれでラジオのかかる明るい居間で、普段着の白ワンピを着て安楽椅子にゆったりと背をもたれ、しかし顔色は蝋のようにまっ白、目は病的に見開き、飛び出そうにまん丸、歯を食いしばり、ひじかけをぐっと握り締めて椅子を前後に小さくゆらし、これから必ず起きる、ある恐ろしい事態を待っている。事情を知らぬ者が見たら、とても絶大な権威を持つ大魔女先生のお姿とは思えないだろう。
いきなり遠くで野犬の遠吠えがし、目がびくっとそっちに移る。その叫びは長々と引き伸ばされ、飛ばした紙飛行機が遠くでゆっくりと落ちるように、力なく途切れて終わった。
直後、なにかがどたどたと外から入ってきた。女の右の口元だけが笑うように引きつった。目はさらに恐怖に見開き、落っこちんじゃねえかこのピンポン玉、と心配になるレベルにまでむきだしたとき、バタンと背後のドアがあいた。普段なら、「こらっ、壊れるでしょ」と怒るところだが、今は無理。
誰だってそういうときがある。風邪でイラついてたり、何かで落ち込んでいて、普段なら言うはずのことが言えない。「あれ、おかしいな」と相手は思う。いつもなら、あっちから声くらいかけるのに。だが、たいていそういうときは、まあ体調でも悪いんだろう、で済まされる。そして、それはほとんどのばあい、当たる。
だが、ティロットン先生である。
先生というからには、教え子がいる。
「先生、道場のぞうきんがけ、終わりました」
どこかはすっぱな少女の声に、先生は後ろを見ずに、ただ歳相応の低くセクスィな声を震わせ、うわごとのように、
「そ、そう。や、やらなくても、よかった、の、よ……」
「はあ?」
気を使ったつもりだったのに、少女が不機嫌にそう言うので、泣きそうな顔になった。だが少女は、女が泣きそうなことを、椅子の背からでもよくわかっていた。いつものことだからだ。
「先生、また……」
声がねっとりと意地悪さを帯びた。いつもどおり薄笑いしているのがわかり、女は絶望の目を閉じた。冷酷な弟子は口元が爬虫類のようにニーッと吊りあがり、思いっきりバカにするように歯をむきだして、ぽつり。
「また、あれ……ですか……」
直後に女は、わっと立ち上がった。そして、我々一般人には想像もつかない、すさまじい異常行動をしだした。とつじょ、大きくあいた口から、大量の内臓を吐きだしたのである。
「げろげろげえええええ――!!」
きったなくしゃくりあげてうめきながら、長々した腸、胃、心臓などをにゅるにゅるだぼたぼ足元までたらし、服はもちろん、床一面をまっかな血と臓物の海にした。体内でつながっていたのが、ちぎれて出ているのだから、当然、死ぬほど痛い、苦しい、つらい。息ができず、巨大な手で体をねじ切られているような、地獄の激痛である。
あらかた吐いて、意識朦朧のまま、これで終わることを願ったが、甘かった。次に、いきなり腹が縦に大きくバックリと裂け、ワンピをぶち破って残りの内臓が派手にぽんぽんと爆発のように飛び出した。中には白い骨まで混じっている。
「ぐぎゃあああ――!! げひょあああ――!! だ、だじげでえええ、じぇのずううう!!」
身をよじって絶叫しながら、いつもどおり弟子の名を呼ぶが、呼ばれたジェノスは、やはりいつもどおり後ろで丸椅子に大またびらきで座り、背もたれに腕をかけて、面白そうに見物するだけだ。
この酷いのが、今のティロットンの弟子、修行二年目のジェノスである。豊富な空色の髪は、たいして手入れもせずぼさぼさ、薄く白い麻のシャツにみすぼらしいカーキ色のズボンは、いかにも修行中の門下生の質素な身なりではある。が、彼女は今、どう見ても自分の師匠の危機なのに、なぜかまるで助けようとしない。そればかりか、まるでその悲惨な姿を鑑賞して楽しんでいるようにしか見えないが、全くそのとおりだった。
彼女は師匠の苦しみを心から楽しんでいた。見た目ものすごい非常事態で、いかにも死にそうだが、あわてる必要はない。それは絶対にないからだ。また、これだけひどく汚すと、あとで部屋の掃除が大変そうだが、ジェノスくらいのレベルなら、魔法でちょちょいと片付けて、元通りのきれいな部屋になる。
先生の体も簡単に治るが、心の傷は一生消えない。しかもそれが、日を追うごとにどんどん積み重なっている。休火山のマグマが下から溜まって火口まで膨れ上がるように。
といって、この哀れな火山が噴火する可能性はなさそうだった。どんなに酷い目にあおうが、その怒りや不満が爆発するには、この弟子があまりにも恐ろしすぎたのである。
ジェノスは、もう魔法はあらかた覚え、はっきりいって卒業していいくらいなのだが、まだしばらくはここにいることにしていた。理由はもちろん、このエンタメを繰り返し見るためである。繰り返し見て、このビジョンを脳に焼き付け、あとで老後の回想の楽しみにするのである。
あらかた血と肉を飛ばし尽くすと、恩師はいったんびくっと棒立ちになった。
「……終わりました? 腐乱先生」
あざ笑うように言われ、ばたんとうつぶせに倒れる。ラジオの曲はEW&F最大のヒット曲、「鬱のファンタジー」になっていた。
二、
応接室で一目見たときにティロットンが直感したのは、この十五の娘はそうとう性根が悪いということだった。まだ会って数分もたたぬうちで、普通にしゃべっているだけで暴言を吐くでもなし、目つきが悪いわけでもなし、外見は特に問題なさそうに見えるのだが、何人も弟子を取ってきた霊感の強い魔女の教員として、このジェノスという空色の髪の少女に、なにか言いようのない不吉な雰囲気、自分との隔たり、肌がざわつくような不安と違和感を覚えた。そしてすぐにわかったのは、この子の性格にはそうとう問題があるにちがいない、この面接で落として追い払うか、それとも、もし入門させるのなら、相手を一から徹底的に、それも魂レベルから根本的に変えなければ、一流の魔女どころか、人として普通に生きることすらおぼつかないレベルになる、必ずなる――という確信だった。論理的にどうではなく、完全に直感だったが、彼女ほどの大魔女になると、それが外れるほうが珍しい。
であるから、今回は縁がなかったとさっさと追い出せば、彼女がこんにちのような悲惨な運命に突き落とされることはなかったのだが、このときは情が出てしまった。この悪に染まった哀れな子を、なんとかしたいと思った。一世一代の大失敗だった。この世に悪い子などいない、たとえ不良に見えても、本当は素直な良い子になりたいのを、育ちの悪しき環境によって妨げられているだけ。心を尽くしさえすれば、必ずなんとかなる……という一般論と楽観を、彼女も信じていた。
だが、たいていのものには例外がある。まさか、こいつがそれだとは夢にも思わなかった。この娘が魔女どころか、本物の悪魔だと知るときが数年後に訪れるとは、このときは知るよしもなかった。
入門当初のジェノスは言葉づかいもやわく、態度もいちいち「きゃー、私わかんないですうー」などと語尾を不自然にのばして愛くるしい女の子を演じ、いい子ぶりっこを続けていた。
が、すぐに本性がバレた。
弟子入りしてちょうど一週間がたった、ある朝食の席。皿のパンをパクついて新聞記事を目で追いながら、ジェノスはふと、いたたまれないという顔で言った。
「また電気自動車の事故ですって。発明家のヘジスンさんは感電死だそうです」
「きっとまた漏電でしょうね」と向かいで紅茶のカップをすする先生。ちょうど今日は、このあと治癒と回復魔法の授業が、夕方まで続く予定。
「みんなを幸せにしたかっただけなのに」と悲しげに目をとじる。「こんなことになるなんて、ほんとにひどいです」
「そうね……」
カップをとんと置き、なにか面白がるような視線を送る。口元もかすかにあがっているが、弟子は気づかない。
「『伝記ラス・プーチン』でしょ、それ」
「えっ」
「ほら文学春雨、今月号の。ソービエトット社会主義共和国牢邦(略してソーロー)のプーチン大統領が、政策失敗で島流しになって、ぶちキレて預言者になるところよ。『みんなを幸せにしたかっただけなのに』って」
「は、はあ。あれ、確かにいいシーンでしたけど」
弟子がけげんな顔で言うと、ティロットンはナプキンで口をふき、からの皿の前に意味ありげに両手をおいて続けた。
「昨日あなた、掃除中に罠のかごを下げて、『ネズミさんも、一生懸命生きてるのに、かわいそうですね』って言ったわね、たしか」と首を右にわずかにかたむける。顔は貼り付けたような微笑で、変わらず不穏である。「朝刊の連載小説のセリフよね、あれ」
「読んでると、つい出ちゃうんですよね」と苦笑。「すみません、オリジナリティがゼロで」
「覚えてしまうようなセリフかしら」と頬杖をつく。「そうそう、その前の晩はたしか、『この世でいちばん大切なのは、お金でも名誉でもない、愛ですよ』とかなんとか――」
最初は笑っていたのが、次第に真顔になる弟子。
「街へ買出しに行ったときに路肩でやってた人形劇のセリフですよ。さっきからなんなんですか、いったい」
「けっこうマニアックな劇よ、それ。私は知ってたけど」
改めるように姿勢をただし、指を組んで見つめる。
「あなたと暮らして一週間するけど、あなたは世間で喜ばれそうな、無難で良いことしか言わない。そして、それは全て誰かが書いた本や記事からの引用。そうでしょう?」
「それはだから、覚えているから、つい――」
「ちがうわ」
静かに首を振り、口調はやわいままで、しかし刺し貫くように言う。
「本心を素直に言うと、まずいからよ。思ったことをそのまま口にすると、大変なことになる。大問題になる。そうなんでしょう?」
言われても、ジェノスは真顔で見るだけだ。さらに続ける先生。
「なにも、気を使うな、と言うんじゃないの。ただ、ここで立派な魔女になりたいのなら、うそをつくのはやめなさい。ありのままで私に接して。大丈夫、そのことをとがめたりしないわ。私を信じて」
「……本当に、ありのままでいいんですか」
「もちろんよ」と、うれしそうになる。「あなたも隠すくらいだから、よほど自分のことをはた迷惑だと思ってるんでしょうね。でもね、私はぜんぜん気にしない。いちいち嘘をつかれるよりはね」
するとジェノスは一気に口がへの字になって目が細まり、いきなり頭から濃い色のペンキでもかぶったごとく、別人のように豹変して、やさぐれだした。眉が寄り、忌々しそうに卓をにらみ、口をとがらせて、ひとこと「ちっ」と言った。
ティロットンには、もうそれだけで充分だった。この一週間、いちばん見たかったものが、これだ。
「気にしない? 信じろ? はっ、よくそんなことが言えるね、先生」
苦笑して肩をすくめるジェノス。
「私がいつもなにを考えてるか、私のしたいことはなにか。本当に知りたいの? やめといたほうがいいんじゃない?」
いい子ぶるのをやめたジェノスは、ただでさえワルそうな吊り目が、悪意でいっそう悪魔的にとがってギラついている。対するティロットン先生は、普段は女神のように穏やかで優しい目だが、このときばかりは細く鋭く、厳しい教育者のそれになっている。ちなみに弟子の服装は白い麻のシャツに灰色ズボンで、師匠も地味な白ワンピだ。
「なにを考えてるかわからないものに、魔法を教えるわけにはいかないわ」
「わかったら、もっと教えたくなくなるよ。まあ、それでもいいけど」
言って、バツ悪げに、あさっての方へ流し目を送る。
「もっと頭わるそーなのにつくつもりだったけど、ためしにダメもとで大先生のとこに来たら、なぜか即決だった、ってだけだし。べつに一流になりたいわけじゃなし。ほかの奴で充分だから、また探すわ」
「やめるのはあなたの自由よ。契約書にサインしたでしょ。あなたの意思でいつでも師弟関係を解消できる。でもね、ジェノス」と見すえる。「あなたは、それでいいの?」
「じゃ、私を追い出させてあげるよ、先生」
新入りの弟子は腕組みして話しだした。いま気づいたんで解説するが、今のこの大先生の弟子は、彼女ひとりしかいない。
「面接でも言ったと思うけど、私、バルメルヘルン共和国の片隅の、小さな農村で育ちました。昔、魔女狩りでものすごい数の女が殺された、あそこです。
私、小さいころから、虫を殺すのが好きで好きで」
「そ、そう」
困ったような薄笑いで言う師匠。弟子は気にせずに続ける。
「バッタや蝶ちょを捕まえて手足をもいだり、踏み潰したり、握り潰して内臓をにゅるにゅるひりだし、木の枝にひもで吊り下げ、火をつけて焼き殺し――」
「そういう具体例はいいから! 本題だけ話しなさい!」
鳥肌がたつ師匠に、ジェノスはドヤ顔で自慢げに言った。
「お母さんは、そんな私を見て、にっこり笑って、『まあ素敵ね。好きなだけおやりなさい』と、優しく言ってくれました」
「なっ――」
なんですって、おかしいわよ、あなたの母親――と喉まで出かかったが飲み込み、無理に作り笑いし、
「お、お父さんは?」
「お父さんも、にこにこ笑って、『ははは、ジェノシーは本当にいい子だね』とほめてくれました」
ど、どこがよ、どういう父親よ、ふつう怒るでしょ――と寸でのところで言いかけたが、なんとか黙った。
もっとくわしく聞かねばならない。この子の生きてきた人生を。たとえ、それがどんなに反社会的で最低で、犯罪的で胸糞悪かろうとも――。
「家や畑の害虫駆除は私の役目で、ゴキブリや蝿をぶったたく専用のはたきを持ってました。棒の先に靴をひっつけただけのやつで。靴底でこう、バーン! と」と叩くまね。
「だから具体例はいいと――」
「よく蟻の巣にじょうろで水を流し込んで、ぷかぷか全滅させました」
「なんてひどい」
「でもいちばん面白かったのは、スズメバチの退治ですね。軒下に下がってる巣の真下に、猛毒を溶かした水でいっぱいのでかいおけを置いて、巣の付け根を弓矢で切ると、軒から巣が一瞬でざぶーん! 中のハチどもがみんな外に出てきて、水の上でびくびくケイレンして浮いてるんです。楽しかったなぁ」
遠い目でニヤつくので、ティロットンは額に手をあてた。
「やれやれ……。そういう環境が、今のあなたを作ったわけね」
「だってスズメバチの、あの生意気な顔を見ると、殺したくなりませんか?」
「そ、そりゃ……」
そこだけは同意した。
「それで小学校にあがると、虫じゃ足りなくなって、ネズミとか小動物を殺すようになって」
「まぁ、ネズミは害獣だし」
「で、そのうちにだんだん動物のサイズが大きくなって。道端でのら犬やのら猫をナタや鉄の棒で惨殺したり、山でキツネやタヌキをバラしてハゲタカに食わせて、満腹で動けなくなったところを、後ろからうなじにナイフを突っ込んで喉まで貫通させて、そのまま谷に放り投げて、もがきながら落ちていくのを鑑賞したり。ほんと、楽しい少女時代でした」とニコニコ。
「……」
言葉を失った。相手が心から楽しそうに話すので、ぞっとした。
「そ、そのことについて、ご両親はなんと?」
寒気がする師匠に、ドヤ顔で自慢げに言うジェノス。
「お母さんは、犬や猫を殺す私を見て、にっこり笑って、『まあ素敵ね。好きなだけおやりなさい』と、優しく――」
「どういう母親よ!」ついに、こぶしを振り上げてキレる。「娘がそんな非道なことをしたら、ふつうは――」
「で、お父さんもにこにこ笑って、『ははは、ジェノシーは本当にいい子だね』とほめて――」
「ほめんなよ! まったく、あなたの親は、どういう教育方針であなたを育てたのよ」
「どういうって、たんに私の好きなようにさせてくれただけだよ」
あきれたように肩をすくめる少女。
「よその子が生き物を殺すと、親はわけも聞かず怒るみたいだけど、うちの親はちゃんと知ってたの。私が動物を殺すわけを」
「い、いったい、どういうわけで?」
「楽しいから」
目を輝かせて口元を吊り上げるジェノサイ――いやジェノス。師匠は人生で見たもっとも邪悪な顔だと思った。が、それよりも、あとに続く言葉が衝撃だった。
「私、生きてるものを殺すのが、なにより一番楽しいの。犬でも猿でも、血まみれで情けなく吠えながらびくびくくたばるのを想像するだけで、もう興奮で血がたぎって、心の底からわくわくしちゃう。そして棒や刃物で殺すときの、あの手ごたえ! 肉が潰れる感触! くーっ、たまんないわぁ! うっとり」
指を組み、目じりを下げて遠くを見つめる顔は、どう見ても恋する乙女のそれである。が、むろん先生が、それをかわいいとか思うわけがない。目をむいた半ば必死の顔で突っ込む。
「ふ、ふつうは、子供がそんな性癖を持っていたら、親は治そうとするはずよ。ほめるとか、ありえないわ」
「治す? なんで?」
「将来、不幸になるからに決まってるでしょ!」
叫んでから、真剣にさとす。
「あのねジェノス、生き物を殺すことに快感を覚えるなんて、へ――いや、とてもその、良くないことなのよ」
変態、という言葉が危うく出かかってこらえた。が、次の言葉で、相手がもはやそんなレベルはとうに超えていることを知り、がく然となった。
「世間じゃ、なぜかそうなってるみたいだけど、もう遅いよ。私、中学にあがったころに、人殺しちゃったもん」
「ええっ――?!」
腰を抜かす師匠を気にもせず、淡々と話す殺人魔女。
「十三歳にもなると、だんだん動物ばっかじゃ物足りなくなってきて。もっと殺しがいのある、でかい生き物はいないかと思ってたら、畑道を仕事帰りのおっさんたちが、クワを肩にかけて笑いあいながら歩いてきたの。これだ! と思ったけど、さすがに村の誰かを殺すと捕まるんで、そう簡単には出来なかった。
ところがさ、運のいい奴っているもんだよね。村の廃屋に、よそから来たホームレスの爺さんが住み着いたの。これなら村人じゃないから減っても気づかれないし、年寄りだからガキでもなんとか殺せるぞ、やったあ、ってんで、ある月もないまっくらな晩に、小屋に忍び込んで実行した。
……詳細はいいんだよね?」
「きっきっ、きっきっ、」
数回繰り返してから、ティロットンはやっと言葉を続けた。そこまでするほどに激しく動揺していた。
「きっ――聞きたくもないわあああ!」
「翌朝、村外れの大木の枝から、首吊り死体が下がってるのが発見されました。全身二十箇所に刺し傷があって、死因は出血多量。もちろん、やったのは私。誰にもバレなかったけど、親には話した」
「そ、そしたら……?」
すっかり疲れた師匠に、ドヤ顔で自慢げに言うジェノス。
「お母さんはにっこり笑って、『まあ素敵ね。もっと好きなだけおやりなさい』」
「素敵じゃなああい!」と絶叫。
「で、父もにこにこ笑って、『ははは、ジェノシーは本当にいい子だ。でもバレると面倒だから、そこだけ気をつけなさい』って」
「なによ、『そこだけ』かよ!」
「せんせえ、さっきから、とても教育者にあるまじきセリフ吐いてるよ。幻滅うー」と引いて流し目。
「あ、あなたが育った環境については、よくわかりました」
座りなおし、目を閉じて無理に気を落ち着ける。が、眉間にしわは寄ってるし、卓におく手は小刻みに震えるし、動揺は隠せない。
これは大変なことになった。やはり面接で落とせばよかった、と思っても、もう遅い。今の話が悪質なジョークでなく本当ならば、こいつは完全に殺人犯だ。私はいったい、どうすればいい……?
と、あることに気づいた。
「私にそんなことを話して、通報されるとか思わないの?」
「いいよ、してもべつに」
「死刑になるわよ。いくら子供でも、そこまで悪魔的なことをしたら」
「べつになっても――いや、少し残念かな」と椅子に背をもたれ、のんきに伸びをする。「魔女になって人を殺しまくらないうちに人生が終わるんじゃねえ。なんか、もったいなくね?」
「も、もったいないとか、そういう」
「だって、せっかく偉い先生に弟子入りしたのにさぁ。魔法をしこたま覚えて使わにゃ、損じゃん。まだ一人しか殺してないのに」
「そんなことに使うつもりなの?! 冗談じゃないわ、私の魔法をよくもそんな恐ろしいことに――」
キレたが、犠牲者がまだ一人だけだと知り、どこかでほっとしていた。
「人を殺したいって言うと、みんな恐ろしいだの、ひどいだの言うんだよね」と、けげんに言うジェノス。「変なの」
「変なのは、あなたよ!」
「ほら、そうやって、すぐ人を変だと決めつける」と指さしてため息。「はあ、ティロットン先生は、少しはまともかと思ったのに。やっぱり、ほかの奴とおんなじだ。独断と偏見のかたまり」
「なにが偏見よ! あのねえ、人として基本ちゅうの基本を教えるけど、人を殺すのは悪いことなの。わかる?」
せっかく教えられても、眉ひとつ動かさない弟子。
「それは人が勝手に決めた規則じゃん。なんの根拠もない」
絶望した。こいつには、自分が殺されたら嫌でしょ、だからやめなさい、ってのが通用しない。なんせ死んでもいいというのだから。
「あーあ、父さんと母さんなら、私がやりたいことはなんでもやらしてくれるのに。一歩外に出るともう、あれもダメ、これもダメ。つまんない世の中だよ」
こんなことではいかん、と襟をただす先生。
「断言するわ。ジェノス、あなたの両親は、最低のクズよ」
そこまで言われても、相手は薄笑いを浮かべるだけだ。
「へえ、娘に好きなことをさせて、やりたいように生きさせるのが、クズなんだ」
「ものには良し悪しというものがあるのよ。親には、それを子供に教える義務があります」
「義務のためなら子供の自由を束縛し、人権を侵害していいんだ」と軽蔑の目になる。「それのどこがクズじゃないの? 完全に児童虐待じゃん。どこの親もそうしてるらしいから、どいつもこいつもみんな、ガキをダメにする毒親なんだよ。
でも、私の親だけちがった。私を本当に愛してくれた。そのことに、心から感謝してるの」
「救いようがないくらいに洗脳されてるわね、あなた」
「洗脳されてんのは、そっちじゃん。じゃあ先生のご両親は、先生がもし人を殺して遊びてえ、って言ったら、許してくれる?」
「許すわけないでしょう」
「じゃあ、あんたの親は本当にあんたを愛してたわけじゃないんだ。条件つきなんて、そんなの愛じゃない。どうせいい子にしてないと、家から追い出すような鬼畜だったんでしょ」
「ぱ――父と母を悪く言うんじゃないわよ!」
「そうやってキレるのが怪しい。毒親って、子供にとって毒になる親って意味だけど、ようは子供に心から安心感を持たせないで育てる奴のことなんだって。たとえばしかったあと、なんもフォローなしで不安のままほったらかして終わりとか。あんたの親もそういうたぐいで、その忌まわしい記憶にフタをして、ないことにしてんじゃないの? そこを突かれたから、そんなに――おー、こえ~」
笑って身を引く。相手は無意識に立ち上がり、右手を振り上げてわなわなしていた。もう少しでひっぱたくところをおさえ、おろした手をじっと見つめる。
確かに今はキレかかったが、それは大好きだった親を侮辱されたからである。両親からは愛されこそすれ、わざわざその記憶を抑圧するほどの、酷い目になど、あってはいない。これは断言できる。いま言われた「しかったあとのフォロー」は、ちゃんとされていたし。
(そうだ、パパとママといるときはいつも、愛されているという安堵感があった)(それを否定されたのがムカついただけだ)(まったく、このいけすかないガキを、これからどうしてくれよう……)
かなり疲れたので、とりあえず正論を言って終わらすことにした。
「まともな親は、子供が殺人鬼にならないように教育するんです。それが愛情よ」
「まともな親は、子供が殺人鬼でもかばうんだよ」と、まぜっ返す。「人殺しだからって、子を愛さない親なんか親じゃない。毒親だよ」
「はあ……もういいわ」
立ち上がり、卓上を指す。
「お皿をかたしておいて。一時限目が丸ごとふいになったわ。五分したら二時限目をやるから」
短くないですか、とブーたれる前に師匠はさっさと消えた。不肖の弟子は皿を魔法でシンクにぶっこみ、何枚か割って出て行った。心はわりと晴れ晴れしていた。
(ぜーんぶ言っちゃった)(もう気兼ねなしだな、けけけけ)
だが、そうはイカの炭火焼だった。
三、
ジェノスが本性を現したその日は、魔女見習いになってからちょうど一週間後であった。ティロットン師匠にとっては、炊事、家事全般など基本的なことをこなして道場の雰囲気に慣れてもらい、そろそろ本格的な修行に移るか、という折だったので、ちょうどよかった。
その日からの修行は苛烈を極めた。午前中に杖を何千回も振るとか、手から規定量の気が出るまで飯ぬきとか(それで一日水だけの日もザラであった)、そんなのは序の口で、山奥の虎の穴に入らされて虎の子を取ってくるという、まさに虎穴に入らずんばの実践や、わざとナイフで自分の腕を切りつけ、それを自分で治す回復魔法の鍛錬など、日を追うごとにハードになり、しまいには百キロはあろう岩に紐でくくりつけられ、でかい滝に突き落とされさえした。ただの殺人である。
だが、すぐに音をあげるかと思いきや、この十五歳の殺人鬼志望の少女は、一言の愚痴も言わず、黙々とすべての修行に耐えた。本人の魔力が足りず、あまりに危険なときに限っては師匠が助けたが、基本的には、どんな過激な修行も、ジェノス自身の力量にまかされた。そして、それらのほとんどを根性で乗り切り、日に日にプロの魔女に近づいていくと、今度は教える側が不安になってきた。
(いけない、このまま本当に魔女になると、まずいことになる……)
相変わらず本心を隠した仮面の素直さかもしれないが、それでもこの小柄な弟子は、一見しょうもないただの無駄にしか見えない重労働にもきわめて真摯に取り組み、つねに前向きで、どんな過酷な課題にも遅れずについてきているので、鬼の師匠もそれを評価せずにいられなかった。いくら魔女になる目的がろくでもないからといって、弟子にしたからには責任がある。将来悪さするのを防ぐために嘘やデタラメを教えるなどは、とても出来なかった。
そこで気づいたのは、この子に必要なものは、ただの肉体のしつけだけではない、精神の修練と解放である。それにより心を入れ替えてもらい、愚かな考えをしない正常な人間に育ってもらうこと。素直なふりはしているが、腹の底では邪悪が息を潜めていることを、こちらは知っている。なんせ入門当時、向こうから話してくれたのだから。わざわざ手の内をあかしてくれたわけで、対策も立てやすいはずだった。
が、修行一年目、山をすずしい風が吹きぬけるさわやかな秋の晩に、ティロットンは大きな過ちをおかした。
人生の目的を師匠にぶちまけたあの日から、ジェノスは今日までおとなしく従い、一度もあんなふてぶてしい態度を見せていないが、本心の性悪さは変わっていまい。そろそろ、そこをつつかなければダメだ。なんせ度を越した放任主義で、必要な教育をいっさいしないという、ある種のネグレクト(育児放棄)をかます毒親に育てられ、愛情がいちじるしく欠如しているから、彼女のプライドは恐ろしく高いはずである。それをとりもなおさず、ぶち壊さなければならない。教育には時として叱るという荒療治も必要だが、この子ほどに病んでしまっている場合、心を根底からバキンとへし折るほどの残酷さすら必要である……とティロットンは判断した。
ただきつい修行だけで済ましていれば、まだよかったかもしれない。この判断が、のちに取り返しのつかぬ恐ろしい悲劇を生むことになる。
ジェノスは固まった。
なに、これ。
夕げの食卓は、いつもなら楽しい歓談の場であるはずだった。修行中は鬼畜のように厳しいティロットン先生も、決して豪華ではないが、白くきれいなテーブルクロスの上に並ぶ、つつましくおいしい料理に舌鼓をうつこの時間だけは、明るくて気さくなお姉さまに変わる。が、それはあくまで「労働時間外」のときだからだ。ここまでが彼女の仕事場かつ自分にとっての修行の場になってしまっては、もはや一日に安らぎはない。
弟子入りしてこの一年、食事時に二人の仲が険悪になったことは一度もない。だがその記録は、この夜、いとも簡単に破られた。
先生が食堂に入るや、向かいの席に行かずに、ジェノスのところへつかつかとやってきた瞬間、「修行はつらいけど、ご飯だけは楽しい」の法則は、すでにガッタガタに揺らいで倒壊寸前だった。彼女は弟子の前に並ぶ二枚の皿をさっと取ると、いきなりその中身を、床に思いっきりぶちまけたのである。せっかくの薄切りの豚のしょうが焼き数枚とフライドポテト、そして甘酢のドレッシングをかけた、きれいな緑黄色野菜のサラダが、すべて台無しになった。
あまりに突然のことで、床に転がる夕飯の残骸を、席に着いたまま、ただ呆然と見つめるジェノスに、先生は薄笑いで言った。
「補習です。この夕食を、魔法で完全に元通りになさい」と、卓にからの皿を置く。
「は、はあ……」
解せなかったのは、今のジェノスなら、そのくらいのことはちょちょいっとできるレベルだったことだ。そして、それは先生も知っているはずだ。なにも、わざわざ補習と称して食事時間にすることではない。
なにかあるのでは、と思ったそのとき、目の覚めるようなそれが起きた。そのときの光景と衝撃を、今も彼女は、たったいま見たように、まざまざと思い浮かべることができる。ティロットンが残骸のところへ行くと、いきなり右足を振り上げ、木靴の底で何度も何度もそのか弱い肉や葉を踏みつけて、ぐちゃぐちゃに踏みにじったのである。
夕食は完全に原型をとどめなくなり、これを戻すのは高度な技術がいるから、確かに補習レベルではある。が、問題はそこではなかった。
ジェノスは顔色が一気に蒼ざめ、目が見開いたまま過呼吸になり、ぜんそくのようにぜえぜえ息を吐いた。悪い水をたっぷり吸った雨雲がもくもと空一面を覆うように、今にも耐えがたい嫌な気持ちが押し寄せ、自分のチンケな体など一瞬で押しつぶされると思った。そこまで気持ち悪かった。こんなに嫌な気持ちになったのは生まれて初めてかもしれない。
ちなみに料理は二人で一日交替のローティーションを組んでおり、今日はジェノスの当番だから、この無残な元料理は彼女が作ったもので、そのことも不快感をいっそう押し上げた。
「なにをしてるの。はやくおやりなさい」
済まし顔で言い、向かいの席に座る先生。なにもかも、ただの普通のことだ、と言わんばかりである。
「夕食が遅くなるわよ。私、先にいただくわね」
「えっ、それって……」
弟子はこの世の終わりのような顔で、あえぐように言った。
「戻した料理を、食えってことですか……?」
「そうよ、あたりまえじゃない」と薄笑いで自分の肉をかじる。「床に落ちたものでも、完全に戻ったんなら問題ないでしょう。食べなきゃもったいないわ」
「落ちた?! 床に、『落ちた』?!」
連呼し、思わずガタンと立ち上がる。
「ジェノス、椅子がひっくり返ったわよ。壊れたらどうするの」
「なに言ってんですか、落としたあと、むっちゃ踏んづけたじゃないですか! そんなもん、食えると思ってるんですか?!」
吊り目をさらに吊り上げ、怒りにぷるぷる震える弟子に、師匠は変わらぬ薄ら笑いでカップの紅茶をすすってから、さとすように、
「なにも犬のように這いつくばって、口で食えってんじゃないのよ。ぐちゃぐちゃの食べ物を元に戻してから口にしなさい、と言ってるの。もし不完全だったら、それはもうひどいものを食べることになるから、がんばってやるしかない。これ以上、立派な修行はないでしょ?」
「た、たとえ完全に戻ったって……」
ジェノスの頭は、今の無残に食べ物を踏みつけている汚い木靴のビジョンでいっぱいだった。なんだよ、食べ物を粗末にするなといつも言ってるくせに、思いっきりしてるじゃんよ。
「じゃ、いまの記憶を消してください」
「え?」
「先生が踏んづけてるのを見た記憶を、私の頭からきれいさっぱり消し去ってください。それなら、戻した夕飯を食べます」
「ダメよ」
「なんでですか」と口をとがらす。「回復魔法の練習なら、なんか回復させたら、それで終わりでいいじゃないですか。それを踏んづけてから食わすとか、無駄もいいとこじゃん。私がやな思いするだけで、意味ないじゃないですか」
「意味? あるわよ」
目を細めて見つめてからそらし、自分の食事に集中する。
「なにしてるの。夕食の時間、終わっちゃうわよ。今夜は抜きでいいの?」
(……そうか)(そういう意味、か……)
ジェノスは悟り、もう黙った。
私にやな思いさせて意味がある、ということは、要するにいじめなのだ。今の立場はこっちのほうが弱い。弱いものいじめが楽しい、という感覚はよくわかる。今まで、この人はそんなレベルのことはしないもんだと勝手に思っていたが、そうではなかったのだ。
昼の修行だって、見てくれはほとんどいじめだが、あとでほめてくれたり、アドバイスされるので、どんなにつらくて過酷でも、こっちは納得してきた。が、これはちがう。とても納得できるものではない。そして、そうだと伝えたにもかかわらず、無視して押し付けるってことは、ようは私を傷つけて笑いたいということだ。いやもしかしたら、終わったら何かのフォローがあるかもしれない。謝りさえするかもしれない。だが、これほどまでに嫌なことをさせられたら、もう許すことは出来そうにない。
ジェノスは不快な澱のようなものが、腹にどんどん溜まり、じっとりと重苦しい層をなしていくのを感じた。しかし、いつまでも突っ立っていたらラチがあかない。できることをするしかない。
ジェノスは、考えるのも感じるのもやめた。ただロボットのように歩き、床の汚物の前に行くと、それに向けて両手を突き出す。回復魔法はふつう怪我を治したり(医者の治療のように長丁場でなく、一瞬で跡形もなく消し去る)、壊れたビンや椅子などの日用品を元の形にそっくり戻したりするのだが、破壊された食べ物の再現となると複雑である。まず形を戻し、次についたゴミやほこりを全て取り除く。時間を戻せば手っ取り早いが、そこまで高度なことは今の彼女には無理だ。
「リボーン、リターン、リプレイス……」
呪文をとなえ、指先から発した光で、残骸を少しずつ再生していく。薄切りの豚のしょうが焼きと角柱のフライドポテトたちがむくむくと元の姿に変わる。レタスやアスパラのサラダが完璧な形に花開き、甘酢ドレッシングが、つややかな表面にわきだしてぴかぴかに光る。
一分もかからずに回復は終わり、魔法で皿にひょいと乗せてテーブルに置くと、ついに試練のときがきた。椅子に座ったジェノスは、憔悴しきった顔で料理を見た。一度踏みにじられてクソ汚れたことのある夕飯。もう一ミクロンの汚れもなく、食べても全然大丈夫なはずなのに、見るのも気持ち悪くてしょうがない。先生がサドなのはどうでもいい。食えるなら、べつに汚いまんまでもかまわない。
問題は、自分の内面だった。プライドを思いっきり穢されたのだ。足蹴にされ、心を無残に潰されたまま、こんなゴミを食わされるのだ。べつに落ちたまんまを犬みたいに四つんばいで食えってんじゃない、と先生は言ったが、ジェノスにとっては、それとほとんど同じだった。いや、相手がまともな状態に「つくろって」いるぶん、さらにタチが悪かった。
だが、やらねばならない。心を鬼にし、薄い肉をフォークに刺して、口に入れる。いつもはおいしいしょうが焼きは、かめば、ただ下水を流れるにごった水のような気持ち悪い肉汁がじゅわりと口じゅうを満たし、飲み込めば死ぬと思った。だが、このままでいるわけにはいかない。心を鬼神にし、飲み込む。ごっくん。
戻しそうになり、なんとかこらえる。まずく感じるとかいうレベルではない。いったん汚物になったものは、いくら小細工して元に戻そうが、もうそれは汚物でしかないのだ。涙がでそうだが、こらえた。
サラダもぜんぶ食べ終わり、消え入るように「ごちそうさまでした」とつぶやくと、椅子をたち、よろけながら自分の部屋に去った。今日が皿洗い当番でなかったのは幸いだった。そんな気力はみじんも残っていなかった。
その晩、ベッドに突っ伏して枕をぬらした。(ちくしょうちくしょうちくしょう)(くやしいくやしいくやしい)と、全身が上ずった声で連呼していた。私が深く傷ついたんだから、奴はこれで満足だろう。
思えば、こうされる理由は腐るほどある。奴はそもそも私のやりたいことや性格が気に食わない。だから変えようとしている。そこで、まずはプライドを踏みにじって、潰してやるって魂胆だろう。そして、それは大成功した。
だが、そんなことで世間で言う「よい子」になんかなるもんか。脅せば言いなりにはなるだろうが、代わりに心底で、その真逆の感情が芽生えるだけだ。それは、こんな「教育」を繰り返すほどに堆積し、膨れあがる。火種が爆弾になり、いつしか大自然のカタストロフ、地震や雷に匹敵するほどのすさまじい殺意に成長する。ティロットン師匠に対し、地球の中心よりもさらにその先の、反対側にまで突き出すほどに深い恨みが出来た。
(やってろやってろ)(おめえなんか、いつかボロボロにして泣かせてやる……!)
だが、次第に悲しみのほうが勝った。めそめそ泣くうちに、泣き疲れて眠る。夢に両親が出てきた。母は変わらぬ聖母のほほえみで、傷つき折れた娘の頭を優しくなでた。
「ジェノシーはなにも悪くないわ。悪いのは先生よ。だいじょうぶ、なにも心配しなくていいのよ」
「そうだぞ」
隣で父もあたたかく笑いかける。
「お父さんとお母さんがついてる。私たちは、ジェノシーのことを心から愛しているんだよ」
「お――おとうさあああん! おかあさああん!」
ジェノスは二人に抱きつき、顔をくしゃくしゃにして号泣した。そのぬくもりに、少しずつ安堵し、癒されていった。二人の胸に交替で顔をこすりつけ、「おとうさん、だいすきー! おかあさん、だいすきー!」と全身をわななかせて何度も叫びまくった。枕に押し付ける寝顔が、うっとりとしあわせな笑みになった。
翌朝、居間でけろっとして冗談まで言う彼女に、ティロットンは首をかしげた。
(あれじゃ足りなかったのかしら)(いや、そうとう効いたはず)(強がってるだけだわ)
そこでわざと思い出させようと、昨夜のことを口にした。すると「いや、ああいうのはもう、かんべんしてくださいよ」などと苦笑するだけなので拍子抜けし、今日の準備をしに道場へ引っ込んだ。
その背を見つめる瞳の奥に、鉛のような重い光が不気味にともっていた。
四、
長いすにひっくり返って雑誌なんかを読みながら、勝手に作ったリンゴジュースを飲む。修行がない日はめったにないが、今日は先生がお出かけで、朝から晩まで帰らない。課題をさぼったことがほぼ皆無の生真面目な弟子は、珍しい休みに最初は戸惑ったくらいだが、一分もしないうちに本性むき出しでゴロゴロしだした。雑誌をめくると、ファッションに興味がないので、おしゃれよりは男の記事が目に入る。あのしょうが焼き事件から一年がたち、ジェノスは十七歳になっていた。
ティロットン師匠は早朝、「休みだからって気を抜かないように」と言って出て行ったが、そう言われて抜かない奴はいない。先生はいつもの濃い紫のでかトンガリ帽にローブの正装だったから、遊びではない。なんでも故郷のナハトット・クリスタ共和国の科学省に勤める古くからの友人に頼まれて、研究を手伝うとかなんとか言っていたが、弟子の自分に関係あるじゃなし、と聞き流しておいた。
一日かかるので帰りは遅い。ざまーみろ、日ごろの恨みだ勝手なことしてやる、ひひひひ、などと思っても、結局だらけるぐらいしか思いつかない。というか日ごろの疲れがどっと出て、長いすで夜まで眠ってしまった。意味ねえ。
目を覚ますとほぼ同時に、先生が帰ってきた。というかドアが乱暴にあいた音で目が覚めた。寝ぼけながら聞いていると、なにかあわただしく、どたどた廊下を走って自分の部屋に入り、そこでまたばたばたやる音がしばらく続いた。どうしたのかと起き上がり、あいたままのドアをのぞいて「先生、おか――」と言いかけて固まった。ティロットン先生はいきなり目の前にすっと迫り、まるで部屋を隠すかのようにしばらく立ちふさがったのだ。
だがジェノスを驚かせたのは、その顔だった。いつもの先生ではまったくない。目は飛び出そうに見開き、病人のように顔面蒼白、肩で息をして、食いしばる歯のすきまから、ひいひいと激しい息を吐いている。三年も一緒にいて、こんなのは前代未聞だ。急いで走ってきたらしいから息が荒いのはわかるが、たったいま世界崩壊でも見たようなこの様子はどうしたことか。いったい故郷でなにがあったのか。だが、この状態では聞くのも気が引ける。
すると彼女は、前にずんずん出てジェノスを部屋から押し出し、ドアを後ろ手にバタンとしめた。これも見たことのない荒っぽさだ。
「……寝てたの?」
不意に聞かれて、気まずくなった。
「は、はい、すみません」
朝、だらけるなと言われたので、てっきり怒られると思ったが、なぜか先生は急に我に帰ったように目を細めた。そして眉をひそめて口元に指をあて、なにか考え込む感じになった。
「そうすると……今夜は眠れないわね、朝まで……」
また目が不安げにぎょろぎょろしだし、急に食い入るように弟子を見た。背は相手より上なので、見下ろす逆三白の目が妖怪じみて恐ろしかった。いや魔女だからこれでいいのか。
などとアホを思う暇はなかった。いきなりドスのきいた声を地鳴りのようにとどろかせたからだ。
「起きてるわね、朝まで! わ、わたしが、わたしが! 眠っている、あいだにいいい!!」
ジェノスはあわてて弁解するように、
「ね、寝ますよ! このくらいで眠れないとか、ありません!」
「ほ、ほんとうに……?」
ぐったり安堵したように言うので、ほっとして続ける。
「はい、いつもどおりに眠れます。だいじょうぶです」
柄にもない気遣いの苦笑に、師匠はやっと納得したようだったが、やはり顔色は悪いままだ。
「私はすぐ寝るけど、あなたも食事したらすぐ寝なさい」
「はい」
返事を聞くと、師匠はくるりと背を向けて部屋に入り、ばたんとドアがしまった。いったい、なんなんだ。
その晩、案の定眠れずに寝返りばかり打っていたが、いきなりドアを激しく叩かれた。もちろんそんなことするのは一人しかいない。
「そのへんを散歩してくるけど、」
隙間から顔の右半分を出して言うが、相変わらず顔色は悪く、目つきもすわっていて落ち着かない。
「くれぐれも、私の部屋には近づかないように。いいわね?」
最後の「いいわね」の「ね」で目が見開いて口元がくくっと吊りあがり、妖怪じみてかなり怖い顔だったが、ジェノスはウザいだけだった。「はい」と返事すると、くるりと背を向けて行ってしまい、この良くできた素直な弟子はすぐに机に向かうと、両手の間に念をこめて、もくもくと小さな雲を作った。雲の中に光があらわれ、雲いっぱいに広がると、先生の後ろ姿が映し出された。すでに外を歩いている。見ていると、西の渓谷に向かっているらしい。それならすぐには戻るまい。辺りは真っ暗のはずだが、前方と足元は魔法で透視しているのだろう。こっちもやっているから、相手がよく見える。
ジェノスは頭上に雲を浮かし、ちょい自分の前へ持ってくると、そのまま薄緑の縦じまパジャマにスリッパの格好で廊下に出た。雲は目先に浮かんだままついてくるので、先生の様子を常に監視できる。
もちろん行く先は先生の部屋だ。だいたい、帰宅してからの彼女は、あまりに怪しすぎる。部屋でどたばたしてたし、なにかないはずがない。そう思っても、もちろん心配してではなく、なんかおもろそうだからだ。だがジェノスのように下世話な好奇心でなく、たんに師匠を心から尊敬している弟子の鑑であっても、こういう場合は、なにがあったか知りたくなるんじゃなかろうか。あれだけうるさく部屋に来るな近づくなと言うからには、なにかを隠しているに決まってる。
ジェノスはわくわくしながら部屋のドアにつくと、ポケットから万能トカゲを取り出し、鍵穴にすべりこませた。この全長五センチほどの小さなトカゲは、こんな名前だが別に万能でもなんでもなく、細い隙間に入ると額にある第三の目が光り、そこから発する魔力で近接するものを動かす。主に泥棒がドアの鍵をあけるのに使う犯罪道具である。なんでこんなものを持っているのかといえば、魔法雑誌の記事で見て、自分でこさえたのである。べつに窃盗犯志望ではないが、いつか役に立つはずだと、ほんの一週間前に自分の部屋で野生のトカゲを縮めて秘密裏に作ったのだが、こうも早く出番が来るとは、トカゲ自身も思わなかったろう。
「カチャリ」と鈍い音がして、ドアはたやすくあいた。雲の中の先生は、相変わらずとぼとぼと暗い山道を歩いている。そんなに部屋を見られたくないのなら、こんな低レベルな技はきかないようにと、鍵を魔法でガッチリとガードするはずだが、それすら忘れて行ったらしい。よほどの放心状態である。魔女の大先生にあるまじき態度、彼女をそこまでおとしめるほどの秘密とは。
これは期待できそうだと、口元をニタアと吊り上げる。ジェノスは、世にもまれなおもろい事実が判明すると確信した。
だが部屋は、前に入ったときとなんら変わらなかった。壁際に無機質な机とベッドがぞんざいに並び、その殺風景な空間に、向かいの窓にかかるさらさらしたレースのカーテンが、かろうじておしゃれ感を出している。一見、なんも面白みのない住居だ。
が、初めて見るものがあった。部屋の隅にでんと置いてある、一メートル四方ほどの大きさの黒い金庫である。いつもは押入れにでもしまってあるのを、さっき帰宅したときにあわてて引き出したのか、うっすらかぶっているほこりを払ってもいない。
どうやらこれが秘密の鍵だと知り、寄っていってしゃがみ、ダイヤルに手を当てる。ただの金庫なら、ダイヤルをまわした時間に戻す「逆行魔法」を使えば、番号をあわせるのは簡単だ。しかし、これは偉大なティロットン先生の金庫である。部屋のドアはあいたが、これが、そう簡単にあくわけが――カチッ。
あいた。
扉の角をつまんで引っ張ると、イーッと嫌な音をたててひらく。
中が見えた。
一瞬、目を疑った。
なにこれ。
いささか拍子抜けである。が、それでも不可解には違いないので、手を伸ばして引き出し、しげしげと見た。
それは人形だった。黄色っぽいクリーム色の生地に綿を詰めた長さ五センチ、幅二、三センチほどの胴体に、それより一回り小さい頭を乗せ、さらに両側と下には、同じものをそれぞれ二つずつつないだ手足をつけて、人型を作っている。だから人形というよりはぬいぐるみなのだが、そうは呼びたくないほどに見た目が簡素で、何かを作る途中ですらない、店で売っていそうな、製作用の素体にしか見えない。片手で楽に持てるほどの大きさで、動かすと頭がゆれて、ぶっといソーセージのような腕と両足がぶらつく。
なぜこんなものをわざわざ金庫に、という疑問もあったが、いちばん奇怪だったのは、その顔と胴体、手足の先に、それぞれくすんだ白い札が一枚ずつ貼ってあることだ。顔が隠れるくらいの大きさで、どれも古びて端の一部がめくれてたりして、使いまわしている感じ。顔の奴を少しめくると、黒丸の目と、カーブした笑う口が、インクでいい加減に描いてあるのがわかった。素人なら「なにこれキモい」で終わりだろうが、魔術に通じていれば、これはなにかを封印しているとわかる。
そのとき、後ろでコトッと音がした。はっと見れば、あいたドアの向こうに、彼女が地球の破滅を見たようなすさまじい形相でこっちを見つめ、石のようにたたずんでいる。雲を見ると、変わらず山奥を歩く後ろ姿が映っているので、魔法返しをされたのだ。この人なら、このくらい難なくできる。今までのボケきった様子から大丈夫だろうと思っていたが、そうでもなかったようだ。
しかしジェノスは、悪さを見られても特にあわてることもなく、雲を消して向き直ると、むしろ余裕の笑みで恩師を見返した。相手は今すぐぽろっと落ちても不思議はないほどに目をぎょろぎょろにむき出し、怒りなのか恐怖なのか、それとも悲しいのか、とにかく異常な焦燥に、ガクガク歯噛みして震えている。
そのありさまを見て、ジェノスはふと気づいた。笑いがたちまち、ニーッと大きく膨れあがる。
「先生……」
弟子は、これ以上ないほどに邪悪な笑みを浮かべ、しかし無感情に言った。
「あんた……死んでるね?」
五、
「それ、よこしなさい」
ティロットンは声を震わせドス低く脅すように言ったが、弟子はへらへらしたまま手に持つものを振り上げた。
「これのこと? どう見てもなにかを封印してあるよね、この札で……」とつかんで軽く引っ張ると、先生は恐怖の叫びをあげた。
「やっやめなさいっ! それに触らないで!」
「やっぱ、はがすとまずいんだぁ、ふうん」と、まだ紙の端を指先でぺらぺらめくるので、相手はついにキレかかった。
「あ、あんたねえ、人を苦しめて楽しいの?!」
「うん、楽しい」と無邪気に笑う。「特に先生だと、反応がおもろくて、いじめがいがあるんだよねえ」
ティロットンはぞっとしたが、ビビってる場合ではない。それに奴のこれは、ある程度知っていたことだ。
「とにかく、なにも言わずにその人形をわたしなさい」と手を出す。「わたせば、なんでも願いをかなえてあげる。すぐに卒業させてもいいわ」
「まぁ、魔法はあらかた覚えたし、もうこのへんでオサラバしてもいいかな、とは思ってたんだけどぉ」と、あごに指をあて天井を見て考えるので、師匠は目が輝いた。
「い、いいわよ、卒業証書あげる! だからそれを――!」といきなり寄ってくるので、人形をさっと後ろに引っ込めて身を引く。
「おーっと、そう簡単には渡せないね」
そして、すぐ出られるようドアのあたりまで下がり、
「事情くらい説明してよ。いちおう弟子なんだからさ」
「言ったでしょ、実験に参加したのよ。眠っているあいだに、魔力を増幅させる新薬を投与されてね」と暗い目で足元を見る。「で、そのう、大失敗して――」
「死んじゃった、と」
「その前に、あわてたマリーが――友達ね、科学省の――その、彼女が、念のために呼んどいた魔道士に頼んで、私の体に魔法をかけたの。薬の作用で腐敗が猛スピードで進んだそうだけど、現状維持と回復の魔法を何度も重ねて、やっと元通りの肉体にしてくれたわけ。
私はなにも知らずに目覚めて、『実験はなんとか上手くいった』とか騙されて。しばらくはなんでもなかったけど、その薬はことのほか強力だったみたいで。いきなりガーッと腐敗状態に戻っちゃって」
「へえええー、どんな? どんな?」
好奇心いっぱいに聞くので、けげんな顔になる先生。
「な、なんでもないわよ、たんに腐ったってだけよ」と、口惜しそうに横目を暗い壁のほうへ走らせる。「体は上っ面が戻ってただけで、実際はとうに命が尽きていたわけよ。まったく、こんな不幸な人間、ほかにいないわ」
「それ見てみたいなぁ」
「えっ」
嫌な予感がして見ると、弟子は今にもよだれたらしそうな顔でこっちを見つめている。
「先生の腐敗状態。さぞおもろいんだろうなぁ……」
「なにバカ言ってるの! いいから、それをおよこし!」と、キレた悪役令嬢みたくなって手を出す。「その封印で、かろうじて今の状態をたもって――はっ」
ジェノスのにやにや顔に気づき、ぞっとして後ずさる。
「ふうん、すると……この札がないと、先生、腐っちゃうんだね……」
「そっ、そうよ! わかったら、はやく!」と今度は両手。「師匠が困ってるのよ! 弟子なら助けなさいよ!」
「なんで――あんたなんか助けなきゃなんないのさ」
急に冷たく言われ、絶句するティロットン。が、このままでいるわけにはいかない。あわててまくしたてる。
「い、今までいろいろ教えてあげたでしょう? そりゃ修行は厳しかったわよ、でもそれはあなたが憎くてやってたんじゃない! あなたの成長がうれしくて、それでつい――」
視線がまるで変わらないので、さらにあわてた。だが、しゃべるほどに相手は汚いものでも見るような目つきになった。
「わ、わかったわ、厳しすぎたことは謝ります! ごめんなさいっ!」と頭を下げる。とにかく必死だ。なりふりかまっていられない。「罰金でもなんでも払うし、そ、そうだ、奴隷になってもいいわ! あなたの身の回りのお世話でも、なんでもする! だ、だから」
「先生、私、修行のことで恨んでなんかいないよ」
きょとんとする女に、目を細めるジェノス。
「忘れた? まあささいなことだし、忘れるよねえ、そりゃ……」
「あ、まさか」と目を丸くする。「踏みつけたご飯を食べさせたこと? あ、あれは――」
「ピンポーン! よく覚えてたねえ!」
指さして、口がニタアと笑うが、目はぜんぜん笑っていない。にしても、この時代にピンポーンはねえよな。
「あのことは死ぬまで忘れないよ。あの屈辱を何倍にもして返してやる」
「待って、ちがうのよ! あれは、あなたのためを思って――」
「そうだよねえ、私の生意気な鼻っ柱を折って、社会に適応する良い子にしたろうと、親切でやっただけだよねえ」
目が邪悪に光るジェノス。口だけが変わらずニヤけている。
「そのよけいなお世話のために、あんたは私の繊細な心を深く傷つけ、完膚なきまでにぶっ潰した。さぞ満足したろ、サド先生!」
「お願い、どうか話を――」
「でも、一番許せないのは――」
ジェノスの眼光が、いきなり黄金色を放ったように、ティロットンには見えた。
「お父さんとお母さんを、毒親呼ばわりしたことさ!!」
「だっ、だって、あれは」と必死に言い返す。「仕方ないでしょ! 誰がどう見てもまともじゃないんだから! どこの世界に、人を殺した娘をべたほめする親がいますか!」
「へえー、息子ならいいんだ」
「ふざけないで! 私はねえ、あなたのことを案じているから――」
「あーあ」と、わざとでかいため息でしゃ断。細い目をあさってのほうに向けて、「束縛と教育を都合しだいで使い分ける。教師にはよくある手だよ。その自覚は微塵もなさそうだが。お母さんがこいつを見たら、きっとかわいそうな奴だと上から哀れむだろうな。天下のミケーネ母さんなら……」
「ちょ、ちょっと待って」
いきなりぎょっとして指さす。
「い、いま、ミケーネって言ったわね?!」
「うん」
少女は究極のドヤ顔で誇らしげに言った。
「史上最悪の極悪魔女、ミケーネ。私の母さんだよ」
ティロットンは凍りついた。
ミケーネは今から百年前、魔女がまだ人々から恐れられていた時代にヨーロッパじゅうを荒らしまわった、伝説の凶悪魔女である。今でこそ魔女は一般事業に大人しくたずさわる、オカルト関係の少し変わった職業、という地位を得ているが、かつては魔女狩りが行われたように、とんでもなく反社会的・冒涜的イメージの存在であり、基本は「悪」であった。今の彼らは、暴力団が犯罪をやめて普通の仕事をしているようなものだ。
中世のキリスト教全盛期には、一般人の貧困層や落ちこぼれのうち生来魔力を持った者たちが、同じく魔法を使うプロに弟子入りすることで、女なら魔女、男は魔法使いや魔道士になり、修行によって増長させた魔力を使って仕事を行っていたが、宗教的に忌み嫌われる闇の力を使うせいで世間から信用されないので、もっぱらマフィアや盗賊団などの、裏家業の汚れ仕事を担っていた。だが魔女狩りでキリスト教の権威が失墜してからは、徐々に魔女や魔道士が一般の職業と同等にみなされるようになり、こんにちのような国に認められた魔法使いの協会まで出来るほどになった。
しかし、そうなる何十年も前の時代、破壊と殺人に特化し、目をつけられたら即地獄行きだと、もっとも恐れられた魔女の大親分がいた。
大魔女ミケーネは、娘のジェノスがつぐ豊富な空色の髪をした、鋭利な刃物を思わせる面長の顔の、常にきつい眼光を放ついちおうは美女のたぐいの女性だったが、貧困からやむを得ずというのが多い中で、彼女だけは自ら進んで魔女になり、趣味と実益を兼ねて、本当に好き好んで人を殺しては金をもらっていた。主に儀式で呪い殺すのだが、わざわざ出かけていって、魔法でターゲットを直接殺害したりもした。そのうち殺人しか仕事が来なくなった。あとは建造物の破壊とか、雇いの魔法使いによるガードが固くて一般魔女には無理な、権威のある宗教的施設の焼き討ちや、政府の要人暗殺などである。
ミケーネの魔術の腕は最強クラスで、彼女を暗殺しようとした凄腕の魔女や魔道士は、ことごとく返り討ちにあった。また軍事施設の爆破を他国から要請され、いそいそと「出稼ぎ」に行ったこともある。ちなみに彼女の旦那も、子殺しや裏切りを平気でする悪名高い魔道士だった。
そんな両親から生まれ育てられた娘が、殺人魔女になるのも当然である。人の死や苦しみ、不幸を心から楽しむジェノスは、明らかに母親の血を引いていた。この極度のサドっぷりは魔女というよりほとんど死神だが、死神だって本来は職業だから、それより酷いといえる。
極悪魔女ミケーネは何十年にもわたり欧州を股にかけて暴れまくったが、前述のようにキリスト教が廃れて魔女から怖さが抜け、一般職として認知されるようになると、「もう私の時代ではない」と、あっさり隠居してしまった。まるでマフィアのボスの晩年である。
その隠れ家のありかは、現在も誰も知らない、娘のジェノスすら知らない。魔女は魔力でほとんど不老不死の寿命を持つうえ、いつまでも若くいられるので、おそらく今も地球のどこかで、そのとがった顔の美女のまま、つつましく暮らしていることだろう。
こんな最悪の魔女が親になれば、子供の殺人をほめるような異常教育をほどこしても不思議はない。というか、しないほうがおかしい。
ティロットンは、ただでさえ蒼ざめた顔が完全にまっしろになった。まさかこいつが、あの恐ろしいミケーネの娘だったとは! むろん自分が大魔女として認知されるころには、奴のことははるか遠い伝説でしかなく、ただその数々の悪評を耳にしたのみである。が、それは実は遠くはなかった。こんなに近く、すぐそばにそれは「いた」のである。
知らずに弟子にした自分の落ち度だと、今さら後悔しても遅い。こいつの身元を徹底的に調べるべきだったのだ。知っていれば、弟子になぞ絶対にしなかった。
もうだめだ。足がよろけた。完全に絶望し打ちのめされ、呆然と自分のスリッパを見つめる。
「すっ、すいませんでしたああ――っ!!」
いきなりトチ狂ったように叫び、床に伏せって震えながら土下座しまくる。もはや大魔女の威厳はおろか、教育者のかけらもない。
「私がわるうございましたあああ――! どっどうか、おゆるしおおおお――! じぇのすさまあああ――!」
当然、軽蔑しきった目で鼻を鳴らす弟子。
「なんだよ、てめえの保身のためなら、師匠のプライドも平気で捨てるのかよ。最低だな、あんた」と、人形を目の前に持ってくる。「こんな虫けらにゃ、遠慮は無用だねえ、くっくっく……」
含み笑いに思わず顔をあげると、弟子の指が、人形の顔に貼られた白い札の端をつかんでいる。恐怖におののき、「ぎゃあああ! やめろおおお!」とゴキブリのごとく這ってきたが、到達寸前、ジェノスはぱっと札をはがした。とたん、相手はいきなり「うっ」と目をむいてびくんと立ち上がり、次の瞬間、口からおびただしい血と臓物をげぼげぼ吐きだした。
「げえええええええ~!!」
汚らしいうめきを発し、まっかな血でつやつやときらめく胃や腸をずるずる吐き続け、血溜まりに浸かる恩師を見て、感嘆の声をもらす弟子。
「うわぁ、すっげえ」
「げげっ、ぜ、ぜのずう……」と膝をつきながらも、手を突き出して必死に教え子の名を呼ぶ。「ぶ、ぶだ(札)、もどじで……ど、どうが……」
助ける気は毛頭なかったが、戻すとどうなるか知りたいので、また貼りなおしてみた。すると、なんと映像の逆戻しみたいに、吐いた臓物が口に吸い込まれてごくんごくん飲み込み、元に戻った。口元から血をたらしてぜえぜえ言う先生を見て、これ以上ないほどに目をきらきら輝かす鬼畜弟子。
「うわー、なにこれー! おもろー!」
今のが腐敗の状態らしいのだが、腐っているというよりは、ただの人体破裂である。だがジェノスにはそんなことはどうでもよかった。ただ面白ければそれでよかった。気づけば恨みも消えていたくらいである。
子供のころに動物や人を殺していたときも、憎くてやったことは一度もない。彼女にとって殺しはわくわくする娯楽であり、人の苦痛と悲しみは秋風のようにさわやかな悦びであった。
そんなわけで、今度は人形の腹の札に手が行く。「だめえええ!!」と飛びかかったのをさっと後ろにのき、ぺりっとはがす。たちまち先生のシャツの腹部がぐぐっと山のように持ち上がり、ビリリッ! と裂けて、中から口のときと同じく、まっかな内臓がどばどば流れ出した。「ぐへええええ!!」と膝をついてのけぞり、口から血をたらして苦しむさまを、けらけら笑って堪能するジェノス。腹のかっと大きくあいた裂け目から、ぬるぬるの大腸や小腸が二種の蛇の大群の絡まるようにずるりずるりすべりだしては、床にたまっていく。のけぞる血まみれの女に、血の海で腸がぎらついてとぐろを巻いているさまは、ほとんど地獄絵図である。
だが、腐っても大魔女と言おうか、ティロットンの理性のタガは、このとき完全に外れ、とつじょ己の中の野獣が目を覚ました。いきなりがばと這いつくばり、激痛に狂う身を両手で引きずって、トカゲのように弟子のところへぺたぺた寄ってきた。
「じぇのずううう!!」
顔をあげ、ゲロ吐くような声で叫ぶ。血まみれで髪があごの下までべたりと張り付き、見た目は心霊スポットに現れた幽霊そのものだ。実際、死んでいるから、ゾンビと一緒ではある。
「ぞれ、よごぜえええ!! にんぎやううう!! よごぜえええ――!!」
「おっとっと」
ジェノスは楽しそうに後ろに下がり、そのままドアから廊下に出た。バタバタ這ってくる亡霊に人形を向け、「ほーれ」と顔の札をはがす。たちまち「ぐぎゃああああ!!」と口から残りの臓物を吐きちらして悶絶する先生。胃や心臓まであらかた吐き出しても死ねず、ただ死の苦痛にもだえまくる。が、それでも根性でずるずる這ってくる。
「ぜっ……ぜの……!」
「おおー、さすがは先生だねえ。じゃあ、これは?」
にやにやして人形の右腕の札を取る。
「ひぎゃああああ!!」
叫びとともに先生の右腕が裂けて血が派手に吹きだし、腕の骨すら何本か飛び出して床にぽろっと落ちた。激痛に腕を押さえて丸くなる。
「ひいいいい!! ひぎいいいい!!」
歯噛みして泣きまくる悲惨な姿も、ジェノスにはうれしいおかずでしかない。「イイよおー、イイよおー!」と赤ら顔で変態のようにニヤつき、今度は左足の札。ぺりっ。
「ぎゃはあああ――っ!!」
絶叫しのけぞり、左の太ももが大きく裂けて血がだらだら、これも同じく骨がずぼっ、ずぼずぼっ、と飛び出して床に撒き散らされる。無様にひっくり返って全身を引きつらせ、裂けた左足は特に激しく痺れて、もがくように指が閉じてはひらく形のいいつま先まで、感電したようにびくびく痙攣する。ジェノスは顔がほころんだ。すごくイイ眺めだと思った。
全部はがしたろうかと思ったがやめて、札を元通りに貼りなおした。戻った先生は、横向きに倒れて、しばらく転がっていた。内臓も裂け目もきれいに消えてはいるが、多少の血は残り、それはコップの水をぶちまけたように冷たい石の床に広がって、その上に寝転んでいるので、発見された惨殺死体みたいである。口からもしたたり、あごまでたらたらと濡らして、吸血鬼のようにも見える。人の血を吸うような妖魔は、見ているほうなのだが。
「……先生、」
妖魔がぽつりと言った。
「死ぬほど苦しいときってふつう、『お母さん』って叫ぶもんだけど……言わなかったね」
「お……ママは……」
暗く押し殺すようにつぶやく先生。横になったまま床をじっと見つめ、恨みがましく続ける。
「呼んだって来ないわ。そうよ、来やしない……。わ、私がどんなに苦しもうが……あ、あの人は、どうせ……ふふふふふ」
自嘲の笑いが静かに響き、ジェノスは真顔だった。先生は観念したように目を閉じた。
「そうよ、毒親だったわ……パパもママも……。愛されてたなんて、みんな嘘……。わ、私は……私なんか……うううう」
両手で顔をぐっとおさえ、泣きじゃくる涙が血にまじって流れる。さっきから家じゅうに満ちている濃厚な鉄のにおいに、とつぜん海の潮のかおりが絡んで、廊下にぱっと大きな花が咲いたようだった。
ジェノスは目を見ひらいた。先生が、すごくきれいなのだ。こんなに宝石のようにきらきらした、美しい先生は見たことがなかった。突っ立ったまま、感動に震えさえした。自然と口元がゆるんでくる。
「先生」
なにか優しい言い方で聞いた。
「ぜんぶ吐いて、すっきりした?」
「……そうね」
ぽつり言うと、自分で起き上がって部屋に戻った。ばたんとベッドに倒れる音がすると、ジェノスは弟子らしくモップを持ってきて床の血を拭いた。上機嫌なので、魔法も使わなかった。
そのまま廊下じゅうを掃除した。部屋からの高いびきと鼻歌のデュエットが、月がたかむくまで続いた。
先生はもう、以前の彼女ではない。
あとでわかったことだが、人体破裂の発作が起きたとき、先生の師匠が呼ばれ、あの人形を持ってきた。彼女の体に魔法をかけて腐敗前の状態に戻し、腐敗を起こす悪い気をすべて人形に吸わせて、体のもっとも壊れる部分すべてに封印の札を貼った。もはやゾンビなのは仕方がないが、これが効いているうちは、少なくとも発作は起きない。ただし万全ではないため、忘れたころにいきなり起きる可能性はあるという。
そう説明されて、ティロットンは絶望のどん底に落ちた。つまり、いつまた臓物を吐きまくるかわからない、そういう日々をこの先ずっとすごしていかねばならない、ということだ。死んでいるから寿命もなく、肉体のある限り、ほぼ永久に恐怖の中で暮らすしかない。これが地獄でなくてなんなのだ。いったい自分が、なぜこんな仕打ちを受けねばならないのか。
理不尽にもほどがあったが、なってしまったものは仕方ない。魔法でなんとかできないかやってみたが、死んだ体には、もはや魔力はろくに残っていなかった。大魔女ティロットンは、完全にこの世から消えたのである。
ジェノスは無理やり卒業させてもらったが、しばらく滞在した。人形がこの手にある限り、先生の生殺与奪の権は自分のもの。自分は安楽椅子でゆったりし、先生はメイドのようにあごでこき使い、気が向いたら人形の札をはがし、内臓を吐かせてはけらけら楽しんだ。人形は服のうちポケットにしまい、魔法をかけて眠っているあいだに誰かが手を触れたら感電するようにした。なんだかんだで、きつい修行を二年もさせられたことに不満がなかったわけではなく、かつてないほどのざまあ気分で王侯貴族の暮らしを満喫したのである。
もちろん、しいたげられ、いじめ抜かれる先生の憎悪は、日を追うごとにつもりにつもっていった。
そうして数日がたった朝。
目覚めると、いつものようにメイドが来ないので手を叩いたが、来ない。痛くなるほどやっても聞こえてないのか無反応なので、むっとして廊下に出た。と、外でドドーンと木が倒れる音がした。それも一本や二本ではなく連続で、まるで将棋かドミノ倒しのようにたやすく、しかし大地をゆるがす轟音が何度もとどろく。
ドドーン。ドドドーン。
なんだこれ。
こんなの、魔法でも使わなきゃ、まず――
あっと思い、外に飛び出したジェノスの目に映ったのは、家の向かいの森にむけて右手を差し出すティロットンのきゃしゃな背中だった。もう着ないと思われた濃紫の上着にスカート姿で、完全に魔女ルック。そして手から放つ光で、大木を次々に倒している。
後ろに気づいて振り向き、横目でにやりと笑いかけた。あふれる自信と威厳。燃える太陽のような存在感。完全に以前の先生だ。
「あらおはよう、ジェノス」
快活な声が、朝の空気を震わせて響く。大魔女ティロットン、とつじょの復活である。
「そ、それ、ないと洪水のとき、困るって――」
あまりのことに口をぱくぱくさせて指さす弟子に、ゆっくりと向き直る先生。
「木のこと? ああ、前に言ったわね、確か」なんでもないような笑みで言う。「いいのよ、すぐ戻すから。今してるのは肩慣らし。久しぶりだけど、ほんと順調だわ」
しかし、ジェノスは力なく指をおろした。なぜなら、そういうことを言う場合、ふつうは肩くらい回しそうなものだが、今の先生は、彼女にビシッとこっちに指を突きつけ、狩人の笑いを笑っているからだ。いつでもぶっぱなすスタンバイ。銃で脅してるのと同じである。
あきらめたように口元をゆるますジェノス。
「なあんだ、魔力は戻ったんだ」
「そう。次に、私がなにをするか、わかる?」
「大先生は素晴らしい人格者だし」目があさってを向き、とぼけた顔で言う弟子。「なにもしないで、行かせてくれそうだけどなぁ」
「残念だけど」とニヤニヤする。「私は毒親育ちのゴミだからね。あんたには、たっぷりお返ししないと気がすまないわ。あ、下手なことは考えないで。人形はポケットでしょ? 出すまえに、あんたの腕をもぎ取るから」
「早撃ちの腕は、そっちが上か」
目をとじて卑屈に笑う少女。
「こんどはあんたが、私をいじめ抜いて楽しむわけだ」
そして目を細めて見つめ、ぽつり。
「よかったね」
「ええ、うれしいわ」
「あんたじゃない」
「えっ」
「今のは、私に言ったんだよ」
急に笑いが消えたティロットンに、ジェノスは夢見るように言った。
「お母さん、よく言ってたんだ。『ジェノシーほど運のいい子はいないわね』って。お父さんも、ちょっとしたことで『おっジェノシーは運がいいね。お前は幸運の星のもとに生まれた子だよ』って、いつもいつも言ってくれた」
「やめてよ! そんな話、聞きたくない!」
自分のことを思い出してつい怒鳴ったが、弟子は気にせず続ける。
「だからね、私は運がいいの。この世でいちばん、誰よりも幸運なんだ。どんなに窮地に陥っても、私だけは必ず助かるようになってるの」
「だ、黙んなさいよおお! さっきから、なにが言いたいのよおお!」
急に不安がどっと押し寄せ、指はそのままだが、震えながらヒステリックに叫ぶティロットン。だが叫ぶほどに相手は落ち着き、口元に余裕の笑みを浮かべるだけだ。
「ポケットに手なんか入れないよ、その必要ない。私ね、先生をめっちゃいたぶってるときに、すごく楽しかったの。だからね、先生と心中することに決めたんだ」
「はあ?! いったいなに言って――」
一瞬、驚いたが、たちまち顔が崩れた。
「ははははは!」
腹抱えるほど笑っても、さすがはプロ、指の照準は外さない。
「なあんだ、自暴自棄になってたのねえ」と左の指で涙をぬぐう。「あることないこと言うから、つい本気にしちゃったわ」
そして、苦いものでも食ったような嫌そうな顔に戻る。
「まったく、どこまで邪悪なガキなのかしら。こんなにも人を惑わせて、あんたってほんと生まれついての悪魔のペテン師だわ。でも、悪あがきはそこまで」
突きつけた指先が光りだす。
「さて、どうしてくれよう。とりあえず、右足でもぶった切ってやろうかな♪」
だが、それでも相手の笑みが崩れないので不審になった。が、気にしてはいけない。どうせハッタリだ。そうだ、こんな奴に遠慮するな! 私を散々いたぶって赤恥をかかせたこいつだ! いまこそ地獄へ突き落とし、虫けらのように踏みにじって、みじめに泣かせるのだ!
「このクソガキいいい!! 死ねええええ――!!」
だが、悪態とともに放った白い光の矢は、ターゲットを大きくそれ、雲のほうへ消えた。なぜなら撃つと同時に、右腕に鋭い痛みが走ったからだ。二の腕の表面が大きく裂け、爆発したように血が吹き出し、鮮やかなシャワーになって草むらにザーッと降りそそいだ。
「ぎゃああああ――!!」
ひっくり返って、血まみれの腕をおさえる先生に、ゆっくりと近づく弟子。
「な、なんで……?!」
涙目であえぐ女を、ジェノスは半笑いで見下ろして言った。
「私、人形を縮めて、右腕の中に埋め込んだんだ。だから札をはがすのも戻すのも、頭で念じるだけで、ひょいひょい出来る。ポケットに手なんか入れる必要もない」
「な、なんでっ、そ、そんなことを……」
疑問符だらけの女に、妙に優しげに目を細めて言うジェノス。
「わたし言ったでしょ、先生と心中するって。先生が大魔女に戻ろうが、関係ない。私とあなたは、これで一心同体。私はいつでもどこでも、好きなときにあんたに血反吐をはかすことが出来る。いや待てよ、あんたが魔法を使えるほうが、利用価値があっていいかな」
「そ、そんな……」
絶望に丸くなる背を、しゃがんでぽんぽんと叩く。
「まあそういうことだから、これからよろしくね、せんせ♪」
横目できっとにらむので、さっと飛びのく。
「おっと、下手なことすると、また内臓げろげろだよ?」と右腕を立てる。「まあ早撃ちの腕は、こっちのが上だったね」
ああ神様……。
ティロットンは全てを呪った。
なぜこんな奴が、こうもついてるんですか。私はなぜ、こんなにも不幸で、不運で、死という永遠の安らぎからも見放されて……。いったい、こんな理不尽なことがあっていいのですか。
ああ神様、いったい私がなにをしたのです。私ばかりが、こんなにも罰されるわけを、お教えください……。
――いや、ちょい待て。
急に理性が動く。
――魔法が戻ったんなら、それで発作をなんとか出来るのでは……!
ぱああーっと希望がわいてきたのを、いきなり脇から潰された。
「ああそうそう、調べたんだけど、この人形の吸ってる気って、邪悪さじゃ最強クラスだから、いくら先生の魔法でも発作を抑えることは出来ないみたいよ。そもそも先生の先生が作ったんでしょ、これ。弟子のあんたが、どうこうしようったって無理じゃん」
またガクーンと落ち込み、口元にひねくれた笑いすら浮かんだ。
――ひひひひ、もうダメだあたし。いっそ消して。殺してくれないなら、消し去って。それも無理なら、狂わせて。
――狂いたい。ああ狂いたい。もう、なーんもわかんなくなって、楽になりたい――。
だが、それもかなわないと、どこかで知っていた。幽霊が発狂したなんて、聞いたことがない。
「まあ、どうせもう死人なんだし、気にしないでいいんじゃないの。ふあ~」あくびするジェノス。「わたし朝ごはん、まだだった。休んだら作ってね」
そして地に伏す先生を残して歩き出す。その足取り軽い小柄な背に恨みがどっと出たが、いま何かしても、どうせ臓物を吐かされるのがオチである。
が、相手は急に立ち止まり、背を向けたまま言った。
「私がここを出て行けばさ、もう脅される恐怖からは、逃れられるから」
ずっといると思ったので、多少は安心した。が。
「でもまあ、人形がなくてもいつ起きるかわかんないから、あんま変わんないかな」
ダメじゃん。札がはがれなくても、発作が勝手に起きる可能性があるのでは、不安が続くから、あまり意味がない。
ただ先生の師匠が言うには、それで勝手におきてしまっても、しばらくすると内臓はまた勝手に自分から戻るので、心配はないそうだ。残る問題は、発作が起きるときの恐怖と苦痛だけである。
だが、せっかく魔法が使えるのだ。効かないといっても、少しは和らげる手が見つかるかもしれない。
そう思うと、心にかすかな光がさした。
――そうだ、希望を捨てるな。
――ティロットン、がんばれ。
あれと思った。
(親は、なにもしてくれなかったのに)(これは、誰の声なんだろう……)
たちまち頭に浮かんできたのは、懐かしい人たちの姿だった。
そうだ、これは師匠や弟子たち、そして友達、その他大勢の、私を好きと言ってくれた協力者の人たちの声だ。かつてまわりにいたみんなが、私にがんばれと言っているのだ。そりゃ親よりははるかに弱い、切れそうにはかない細糸のようなそれだけれども、それでも、すがれるのなら、なんだろうが、必死にすがる。ないよりは何百倍もマシだ。
私には、なにもないと思っていた。だから、その心にぽっかりあいた巨大な穴を埋めるため、あれだけ必死になって頑張り、魔女の頂点にまで上り詰めたともいえる。
だが本当は、なにもないわけではなかった。私を助けてくれる、本当に大勢の人たちがいたのだ。たとえ親の愛とは比べものにならぬほどに小さくてショボかろうとも、それらは私の生きる真っ暗な道を、持ち寄ったそのささやかなあかりで、ひっそりと、ともしてくれていたのである。
感謝の念が怒涛のようにわき、熱い涙があふれた。
ここまでひどい仕打ちを受けなければ、こんな大事なことにずっと気づかなかったかもしれない。皮肉なことに、性悪ジェノスの虐待が、私をある意味救ったのだ。といって、感謝など微塵も出来ないが。どうせまた、しばらくはやられるわけだし。
なぜならジェノスは振り向き、こう言ったのである。
「あと少し、ここにいるから。よろしくね、腐乱先生」
そして、清純派ヒロインかお前は、というような、さわやかな笑みを浮かべた。それは朝つゆの光のように、みずみずしい笑顔であった。
(補足)
かつてナハトット・クリスタ国の首都において、とつじょ人前で内臓を吐きまくるというすさまじい狂態をさらし、人々を恐怖におちいらせた、あのおぞましい妖怪が、じつは高名なティロットン先生である、と一部の者に知れたことがある。それは現場に居合わせたとか、他聞からの憶測なのだが、彼らは、そのティロットンという名前から、Rotton(腐った)という語を取って、いつしか彼女を「腐乱先生」と呼ぶようになった。
が、これはあくまで、ごく一部の者によるマイナーな呼び名である。一般には、彼女がいつ肉体が破壊されるかわからないゾンビである、という事実は知られていない。
だからティロットンは、今も魔女の最上位の地位を保ってはいるのだが、それはいつ人前で死者であるとバレるかわからないという、不安と恐怖に彩られた綱渡りの状態である。またこの秘密は、ある性悪の元弟子に利用される原因にもなっている。
その元弟子である、あの悪名高い殺人魔女ジェノスが、かつてアランポラン公国で死刑をまぬがれたのは、この「腐乱先生」の手助けによるものだ、と一部で噂されている。だがジェノスもティロットンも、その後は行方不になっており、真相は藪の中である。
ただ、アランポラン公国の山奥で、ときおり野犬の遠吠えとともに女の絶叫が響き、木々の間に鉄と潮のかおりがたちこめたことがある、という付近の住民の証言が残っている。最初にそれをかいだ木こりは、思わず地に伏せ、それのするほうへ向けて、一心に祈りをささげたという。彼はその山の奥深い方角から、あまりにも神々しく、はかなく、そして美しい、聖者のオーラを感じたのである。




