序文
夏の蒸し暑い空気が部屋に充満している。嫌悪感のある鉄の臭いにむせ返り、気持ち悪い汗の滲んだ掌で顔を覆った。息が荒くなるのに呼吸している感覚もなく、ただ目の前の光景に愕然として瞬きもできない。口も閉ざせず、生暖かい呼気が吐き出される度に意識が飛びそうになった。
力なく座り込む華奢な少女。流れるような黒い長髪が顔を覆って垂れ下がり、血の気のない白い肌は薄暗い室内に浮き上がって見えた。
膝から崩れそうになるのを耐えながら彼女の元に歩み寄って右手を取る。精巧なマネキンの手を持っているようで、まるで生きた人間のものとは思えない。しかしその指がピクリと動いて、まだ生きていると知らせた。もうじき意識も無くなるのだろうか……そう思うと言葉も出てこなくて、両手で彼女の手を握った。彼女の髪の隙間から涙を溜めた瞳と目が合う。
「ああ……君か……」
吐息と勘違いしてしまうほどのか細い声が聞こえた。すかさず耳を口元に寄せて聞き逃すまいとする。すると彼女も懸命にこちらへ口を向けて続けた。
「形見と思って、これを……」
震えながら左手を伸ばした。その手をとると、白色の勾玉のネックレスを握っていた。そのネックレスを受け取ったとたんに自分の手から彼女の手が滑り落ち、指一本も動かなくなった。
「全て忘れて……私のことは……全て……」
悲しい言葉だった。そんなことができるわけないと彼女の目を見つめ直したとき、口が小さく動き、何かを呟いた。それをなんとか聞き取り、もうこと切れた手を握ってただ名前を呼んであげることしかできなかった。
「一春……一春……っ」
意識が、視界が深い闇に落ちていく。この世のものではないかのように、悪い夢だったのかのように。




