第七十二話:ヒマワリ畑
明け方、柳は久しぶりに天界の夢を見ていた。
天宮の朝、南天空太子の寝室へと繋がる廊下に柳泉は足を踏み入れることが出来なかった。きっと今朝は主の寵愛を受けているのだろう、妖姫がいるはずだと……
毎朝起こしに来るようにと言われて南天空太子の寝室に行けば、綺麗な寝顔をして自分に起こされるのを待っている主。
秀と名を呼ぶまでは梃子でも動かない主に毎朝困らされて、名を呼んで揺さ振ればそのままベッドの中に引っ張られて抱きしめられる。
真っ赤になって寝ぼけているのかと問えばあと五分と言われてさらに自分を包み込んでしまう。
こちらのことなどお構いなしの主に毎朝振り回されるが、目覚めたあとに向けられる穏やかな表情に柳泉は主を直視できずとも朝の挨拶を告げるのだ。
しかし、もう二度とそんな朝は迎えることが出来ない。そう思い柳泉は踵を返してその場から去ろうとしたとき、秀の寝室から出て来たのだろう、妖姫が柳泉に声を掛けて来た。
「柳泉」
「妖姫様……」
柳泉は朝の挨拶を妖姫に告げる。必死に崩れそうになる自分の心に鞭を打ち、声は平静を保ち続けた。
そして南天空太子の寵愛を受けて機嫌が良いのだろう、妖姫はクスクスと笑う。
「ふふふ、柳泉、あなたは南天空太子様に抱かれたことはあるの?」
「……あるわけがございません。南天空太子様は私の主ですから」
柳泉は俯いて答えた。それは嘘偽りのないことだが心が痛い。
いっそのこと口づけられたことがあると言えたらどんなに楽だろうと思うが、従者としての使命と天空族と夜天族の関係を考えると言えないのだ。
長く続いた二つの民族の戦い、それを永劫起こさないきっかけになるだろう南天空太子と妖姫の関係。妖姫にそう告げられてから柳泉は主の傍から極力離れるようになっていたのである。
その真偽を直接主に聞ければ良かったものの、それがもし否と主が答えたとき、再び戦となる危険性を考えられない従者では柳泉はなかった。
妖姫は夜天族の中でもそれだけ力を持つ姫。柳泉の恋心一つで戦を起こすわけにはいかない。
その答えに満足したのだろうか、妖姫はうっとりした表情を浮かべた。
「そう? あまりにも情熱的な愛し方をなさるのであなたが従者としてお相手を務めているのかと思ったのよ?」
柳泉はぐっと耐えた。それは主を侮辱されているのと同じことでもあるが、ここで怒りをあらわにするわけにはいかない。
「妖姫様、申し訳ございませんがそろそろ私も南天空太子様の執務の準備がありますので失礼致します」
一刻も早くこの場から抜け出そうと柳泉は執務室へ向かおうとするが、妖姫は柳泉をまだ解放しなかった。
「お待ちなさい柳泉、あなたは従者ならば分かるわね。愛し合う二人の邪魔をしてはならないことなど」
「……はい」
「ならば主の妻になるものからの命令よ。南天空太子様の元から去りなさい。あなたほどの従者なら夜天族でも重宝されるから」
「……私は夜天族に仕えろということでしょうか」
「そうよ。それにあなたを気に入ってる王子がいるの。夜叉王子を知ってるでしょう?」
知っている。何人もの妻を持つ夜天族の王の子息。柳泉の兄である啓星が毛嫌いするほどの色欲をもつという王子だ。
「ですが私は……」
「確かにずっと天空族に仕え続けて来たあなたにとって主を変えることは酷でしょうけどあなただって女ですもの、幸せになる権利もありましょう?」
幸せ。言葉でいうことは簡単でも形にすることが難しいと主が教えてくれた言葉。
しかし、ずっと従者として願っていたのもまた主の幸せなのだ。
柳の夢の場面は変わった。妖姫と話した時間からどれだけ進んだのだろう、目の前には兄の啓吾と同じ顔をした啓星が真摯な顔で尋ねてくる。
「柳泉、どういうことだ?」
「申し上げたとおりです兄上。私は夜叉王子の妻として夜天族に嫁ぎます」
「ならぬ! よりによってあんなクズに嫁がせるものか!」
「ですが、私が夜天族に嫁げば天空族との戦争は永劫起こさせはしない! それにこれはもう決めたことです!」
頑として聞かない柳泉にひどく哀しさと心配が混ざったような表情を浮かべて柳泉の両肩にそっと手を置き、その顔を覗き込む。
「柳泉……秀になんと言うのだ。あの男はお前を従者としてだけではなく」
「もう遅いのです……南天空太子様には奥方様がいらっしゃいます」
「秀!!」
怒りに満ちた啓星は今にも斬るといわんばかりに青い衣を翻して南天空太子のもとに行こうとしたが、柳泉はその腕を掴んで止めた。
「兄上、私のことは気になさらないで下さい。南天空太子様が妖姫様を選ばれたのは天空族にとって」
「ふざけるな! 我が妹を泣かせるためにお前を秀の従者にした覚えなどない! それに柳泉! お前の心はどうなる!? それこそ夜の闇に飲み込まれるつもりか!」
「それでも秀様には幸せになってもらいたいの!!」
堰をきったかのように柳泉は泣き叫んだ!
「……たとえ、従者としてお仕えすることが出来なくなっても……望みは主の幸せ。
秀様が教えてくれた言葉だからこそ……叶えてほしいのです……」
夢の世界が歪んでいく。柳は現実に引き戻される……
「あっ!」
はっとして柳は起きた。目からは涙が絶えず流れて来て止まらない。
柳泉の気持ちは自分が思っていたものよりずっと重たくて、こんなに南天空太子のことを思っていたのかと痛感させられた。
「苦しい……」
まだ恋の苦しさを知らない柳にとって、この気持ちはどうすれば収まってくれるのか分からない。
いつも秀から与えられるのは、自分をドキドキさせることばかりで胸が締め付けられることなんてなかったから……
「どうすればいいの……」
その時、窓がコツコツと叩かれる。カーテンに映るシルエットはいま彼女が心を痛めている人物と同じもの。
なんてタイミングで現れるのだろうと胸を押さえながらカーテンを開ければそこには綺麗な笑顔を浮かべている秀が立っていた。そのあまりの綺麗さに一瞬見惚れるが、はっとして柳は急いでベランダの窓を開けた。
「秀さん……!」
「しーっ! まだ朝早いので小さい声で話してくださいね」
人差し指を口に当てて秀はひどく楽しそうに言う。いま啓吾に騒がれては皆の睡眠の邪魔なのでと続けて。
「あの、秀さん、朝からどうされたんですか?」
「夜ばいならぬ朝ばいにきたんですよ。そしたら感じたとおり」
繊細な指が目元に触れる。
「君は泣いていた」
いつもの柳ならもっと慌てるなり真っ赤になるなりの反応を見せてくれただろうが、秀の手が頬に触れた瞬間また涙が溢れてくる。
それはとても熱くて幾筋も流れてきて……
「秀さん……」
「はい」
「柳泉の夢を見ました。柳泉の心がとても重たくて……苦しいです……でも、私はどうしたらいいのか分からなくて……」
夢の中の話なのに……と柳は秀の胸に頭を預けた。その頭を優しく撫でてやる。
自分の夢の中に出て来た柳泉でさえあれほど苦しそうな涙を流していたのだ。その思いをダイレクトに感じ取ってしまったのだろう、柳の辛さは自分が感じたもの以上だなんて想像しなくとも分かる。
もともと人一倍やさしい心の持ち主なのだから……
すると突然頭を撫でていた秀の手がするりと肩に回る。
「……柳さん」
「はい……」
「行きますよ」
「えっ?」
突如ふわりと抱えられて朝の世界に飛び出した。まばゆい海が目に飛び込んで来たかと思うといきなり落下してまた海が目の前に現れて。
朝独特の冷たい風が身に当たって来ても、それすら心地良いと柳は感じた。別荘を飛び出して一体どこにいくのだろうと思えばその答えはすぐ傍にあった。
「あっ」
「綺麗ですね、来て良かった」
二人の目の前にあるのはヒマワリ畑で、柳が見たいといっていた光景だった。朝の光を浴びるヒマワリがまたうまく言葉に出来ないほど幻想的で、ついてくるのはどうしても一般的な言葉ばかりで……
「綺麗……」
「はい、別荘の近くだったからどうしても見せたかったんです」
次のデートにと言ってた場所を秀は覚えていてくれたのだ。からかわれてばかりだといっても、こういった優しさが秀の魅力なんだと思う。
自然と柳の表情に穏やかさが戻っていく。
「……ありがとうございます、秀さん」
向けられた笑顔に秀は心が揺れた気がした。自分が柳泉に抱いていた感情とはそれはまた違うもののような気がしたが、今は素直に柳の言葉を受け取る。
「柳さん」
「はい」
「次はどこでデートしましょうか?」
ようやく柳は顔を朱くした。
うわあ〜天空記が恋愛小説になった話になっちゃったよ……
あくまでも現代アクションファンタジーなのに……
とりあえず、緒俐が描く恋愛なんてからかうか苦しむかのどちらかでしょうねぇ(特に秀はそうなんだろうなあ)
ですが柳ちゃんに今回の夢を見せておくことで妖姫に関することは少しお分かりいただけたかなぁと思います。
天空族と夜天族という天界の民族が争っていてようやく戦が終わった後、南天空太子を好きになった妖姫が民族間の掛橋となるためという名目で天宮を訪れているとのことで……
柳泉は南天空太子の従者ですからね、ちょっとしたことが民族間の争いになると分かっているので下手に動けません。
そしてその気持ちを感じ取ってしまった柳ちゃん(そりゃ柳泉は過去の自分ですから)初めて恋の苦しさを知ったのが夢の中。
それをどうすればいいのか分からないなんて設定にしてしまって良かったんだろうか……
さらに秀もようやく心の変化に気付いて来た様子??




