第六十二話:ハワードの誘惑
その日、聖蘭病院医院長こと、折原誠一郎にとって一生に一度あるかどうかというビジネスチャンスがやって来た。
いま手にしている書類に提示された金額は聖蘭病院をより大きく、最新医療施設に改装するには充分過ぎるものだった。しかもその条件は彼にとってこの上ないもので……
「以下、三名を私達ハワードに頂けないでしょうか?」
セディが持ってきたリストの中には龍、啓吾、紗枝の名前が書かれていた。誠一郎としては喜んで引き抜いて下さい、と言いたいところだったが、三人の名声を利用しないわけにはいかない。
しかし、彼はすぐに飛び付くのもどうかと思ったのか一旦引いておき、そこからさらに好待遇を引き出してやろうと賭けに出てみることにした。
もちろん、失敗してもそれなりの大金は手に入るので全く問題ない。それにハワードが欲しいカードは全部こちらにあるのだから賭けてみる価値はある。
「ミス・セディ、彼等の成長のためには確かにハワードに引き取って頂いた方が宜しいでしょうし、これほどの好待遇は医者にとってはこの上ない幸せでしょう。
ですが龍の親代わりとして言わせてもらいますと、龍は何よりも患者を優先しますのでまずここから離れないでしょう。御恥ずかしながらうちにはあれほどの名医はいませんので」
この場にもし龍や啓吾がいたら、間違いなく暫く入院していたに違いないほどの言葉を誠一郎は発していた。
しかし、啓吾と紗枝の顔が浮かべば誠一郎の口は止まる。
「それと篠塚先生と菅原先生はその……」
「分かっております。ドクター啓吾はシュバルツ博士の養子ですよね?」
「は、はぁ……」
誠一郎はハンカチで汗を拭きながら答えた。
それもそのはずで世界的権威であるシュバルツとハワードは対立する病院に所属しており、現在聖蘭病院はシュバルツから技術面の援助も受けているのだ。
それをハワードとの繋がりで無くしてしまうリスクは出来れば避けたいところだ。
しかし、セディは優美な笑みを浮かべ、それも含めて説得にかかってきた。
「確かにハワードとしてはライバルの病院から優秀な医者を引き抜くわけですから、当然荒波が立つのは避けられないかと思います。
それでもドクター啓吾の腕が必要なのです。もちろん、ドクター紗枝も同じような境遇だと思いますが……」
「はい、おっしゃる通りでして……」
誠一郎はさらに流れて来る汗をハンカチで拭く。二人のバックにある権力は誠一郎が小さくなるには十分なもの。
この交渉が破綻した時のための保険をかけないほど誠一郎は大博打に出ることは出来なかった。
そして、その保険とハワードとの駆け引きはまた言葉になった。
「それとこれは私どもの都合なのですが、三人の名医を抜かれてしまうとうちの質が落ちまして……」
「その件に関しましてはこちらを……」
セディが新たに差し出した書類を読んでいくと、驚きのあまり誠一郎の目は飛び出した!
「こっ、これは!?」
「はい、先程の書類はあくまでも一つのプラン。この交渉が締結した後にはそれだけの寄付金と人材を提供させていただきます。聖蘭病院としてはけっして不都合ではないかと思われますが?」
ニッコリとセディに微笑まれ誠一郎はだらし無い顔になったが、すぐにハッとして生真面目な表情に戻った。
「……確かに有り難いお話ですが、まずは本人達の意志確認もしてみないと」
「そうですわね、ですがそれはあくまでも三人のドクター達のもの。私達は未来も見据えておりまして、ドクター龍の弟、秀の才能も高く買っております」
「秀のですか?」
意外なところで秀の名前が出て来て誠一郎はきょとんとした。確かに秀は医学部だと聞いてはいるが……
「はい、日本の名門と言われる聖蘭大学に試験免除で入学を認められたほど頭脳明晰な青年だと聞いております」
「はぁ、確かに秀も兄に似ておりますので優秀ですが……」
誠一郎はそうだったのかと初めて知った。確かに頭脳明晰だとは聞いてはいたが、そこまでだとは知らなかったのである。
言われてみれば頭の回転が速く、よく口の回る青年だと思っていたが……
「ええ、ですからもしこの話を飲んでいただければ秀をこちらで預かり、やがてはハワードの重役を彼に与えようかと思います。親戚である医院長もハワードとのパイプを持つことはよろしいのではないかと」
誠一郎は宝船を見た気がした。頭の中で彼の未来予想図が完成する。
「分かりました、この件は前向きに検討させていただきます!」
この上ない満面の笑みを誠一郎は浮かべるのだった。
それからセディが退出した後、誠一郎はすぐに龍を医院長室に呼び出した。
一体、今回は何の用なんだと呼出しを無視してやりたいのだが、この上ない笑顔を浮かべて迎えてくれる誠一郎に龍は初めて引きそうになった。
しかし、声にも態度にも出ないのはさすが龍というべきか……
「医院長、御呼びでしょうか」
「ああ、かけてくれたまえ。今日は重要な話になる」
「すみませんがまだ勤務中なので手短にお願いします」
重要な、という時はたいてい龍にとっては価値のない話だ。後一分で退出してやろうと龍は結論を出す。
しかし、それが不可能となる日がついにやって来たのである。
「今日は秀の未来の結婚相手の話を持ってきた」
「……医院長、申し訳ありませんが秀はまだ医者になっていません。どこの令嬢を勧められてもあいつは断りますよ。それでは失礼します」
龍は一礼してすぐに退出しようとしたが、誠一郎はニヤリと笑って龍に尋ねた。
「うちの沙南が相手でもかね?」
足を止められる。龍は珍しく真剣な表情を誠一郎に向けた。
「どういうことか説明していただきましょうか?」
「ならばかけなさい。秀と沙南の未来については天宮家の現家長である君にも深く関わるだろうからね」
現というところにピクリと龍は反応した。どうやら誠一郎は自分をどうにかして追い出そうとしているのかと予測を立て、黒革のソファーに堂々と腰掛けた。
「龍、君はアメリカのハワード財団を当然知っていると思うが……いや、さすがに知らないか?」
誠一郎はあくまでも龍より上位に立とうとするが、気が立っている龍は簡潔に言い放った。
「医療やIT業界にちょっかいを出してるだけじゃなく、日本のホテル業界じゃ五つ星にハワードの影ありだ。さらに国外の紛争にまで首を突っ込んでる辺りは気に入らないが、そのハワード財団が秀と沙南ちゃんの婚約に何か関係でも?」
誠一郎は自分以上の知識を持つ龍の返答にそれ以上つっこめなかった。天宮家の面々に知識で挑もうなど無駄な労力を費やすだけだ。
「……うっ、うむ。その通りだがハワードから秀を将来ハワードの重役に迎えたいと言って来た。
そこでよりこの病院の発展を願うなら、秀と沙南を結婚させれば天宮家と折原家の双方が納得出来、今のような科の対立もなくなる。おまけにハワードのバックアップも受けられるのだよ」
「……それで俺が納得するとでも?」
龍がたった一言発しただけで誠一郎は震え上がった。龍には全く自覚がないが、纏う雰囲気が恐ろしく苛立っている。
しかし、それでも誠一郎は龍を説得しなければならなかった。
「龍、君は世界を舞台に力を発揮する環境をハワードが」
「ハワードが用意する環境など医者としての本分を果たせる気がしません。ハワード側から何を言われたのか知りたくもありませんが、俺の件も秀の件も断って下さい。
それにハワードが絡まなければ秀に価値がないとしか考えられないようなら、秀の保護者として沙南ちゃんと結婚させるわけにはいきません」
龍はスッと立ち上がる。もうこれ以上話す言葉などない。
「だが龍っ! 秀の意見も聞かずに君が決める権利など!」
「あいつは権力が絡んだ結婚など俺以上に嫌う性格だ。特におじさん、あなたのためにあいつがそんな話に食いつくと思いますか?」
「うっ……!!」
まずない。天宮秀とはそういう人間なのだ。
「では、失礼致します」
龍は頭を下げる事なく、いつになく乱暴に扉を閉めて医院長室から出ていった。
さあ、セディが動き出しました。
「ハワード」というアメリカの権力者が今回は相手みたいですが、やはり龍はお誘いには乗らないようです。
ですが、医院長室からすぐに退出する龍が秀と沙南の結婚話を出されてまた静かに苛立ってます(笑)
龍さんって本当沙南ちゃんの恋愛話になると相手が誰であろうと絶対認めません!
だけど自分とセットにされると赤くなるんですよね(笑)
本当くっつく可能性は一番高いカップルなんだけどなぁ……(末っ子組はまた別ですからね)