第五十二話:夏休みはすぐそこに
沙南はガスを止めて時計を見上げる。そろそろ天宮家は夕食の時間だ。
昨晩はバイトでそのまま昼まで大学の講義を受けて、家に戻って来るなり眠り込んでいる次男坊殿を起こしに彼女は階段を上がる。
そして、ノックして部屋の中に入れば相変わらず綺麗な顔には違いないが、眉を顰め心地よい眠りとは遠い寝顔が見える。
これ夢見が悪そうだな、と思い沙南は秀を揺さぶった。
「秀さんご飯よ! 秀さんっ!」
翔なら遠慮なく掛け布団を引っぺがしてやるところだが、天宮兄弟一心地好い目覚めを重視する秀にはそれが出来ない。
まぁ、やってもいいが、その日彼に関わるものがこの上なく不憫になるのでやらない方がいい、と沙南は結論付けている。それほど秀を起こすことには危険が伴うのだ。
すると夢から現実に引き戻されて、秀はのっそりと起き上がった。すぐに意識がはっきりしないのは彼が若干低血圧なためだ。
「……おはようございます」
「おはよう」
寝起きは至って普通。起きて最初に見た顔が沙南ならば、いきなり刺々しい言葉は出てこないようである。
もちろん、沙南に暴言など吐いた日には秀がこの世の中で唯一頭が上がらない龍や紗枝からお叱りを受けるため、とてもじゃないが言えない訳で……
「悪い夢でも見てたの?」
「確かに夢見は最悪です」
「どんな夢?」
「……自分なのに自分じゃないなんて気持ち悪いにもほどがありますね」
「じゃあ、天界の夢ね」
余計な説明などしなくても沙南が理解してくれることが有り難い。やっぱり敵わないな、と秀は思う。
よりによって秀の脳裏に焼き付いたのは、柳泉という柳と同じ顔をした少女の泣き顔だ。彼女が泣いたところを見たことがない分だけ心持ちも悪くなる。自分が泣かせた……、そう思えてならないのだ。
しかし、沙南は秀の夢の内容には踏み込まず、ニコッと笑って告げる。
「じゃあ、今日は秀さんに一番おっきいハンバーグよそったげようかな。沙南スペシャルだから絶対美味しいもの」
「ありがとうございます。翔君に文句言われそうですね」
「大丈夫よ。ちゃんとおかわりも用意してるんだしね。さっ、皆待ってるから下りましょ」
嫌なことがあっても沙南の気遣いは実に極自然なことで心が穏やかになる。昔から沙南のこういうところには感謝の気持ちでいっぱいだ。
しかし、これほど魅力的な女性からの熱烈なアプローチに気付かない上に、彼女を捕まえておく素振りすら見せない龍に秀は疑問だらけになるのだった。
「あっ! ようやく下りて来た」
「おはよう、秀兄さん!」
翔と純はテーブルの上に皿やコップを並べて一刻も早く夕食にありつきたい様子だった。沙南スペシャルの料理の数々を前にしては当然の反応ではあるけれど。
「おはようございます。あれ? 兄さんはまた呼出しですか?」
本日は常勤だったはずの龍が夕食時にリビングにいないということは、大抵病院に呼び出されているからだ。その質問に深い溜息をついて沙南は答えた。
「みたい。患者さんが急変して他の先生じゃ対処出来ないからって」
「啓吾さんは今日、夜勤じゃなかったんですか?」
「その啓吾さんが救命に緊急オペで借り出されちゃったから、龍さんが行くしかなくなっちゃったみたい。折角、龍さんの好物も作ったのに……」
それはきっと龍兄さんの方が落ち込んでるだろうな、と純は心の中で呟いた。
「ですが、新しく何人か入ったんじゃなかったんですか?」
「うちの父が入れた外科医だもの、龍さんや啓吾さんより腕は下なんでしょ」
「それは当然としても、もう少し何とかならないんですか?」
「なってほしいけど父の事だもの、病院の質より自分の利益を考えて入れた人材なら龍さんが楽になるようなことはまずしないでしょうね。はぁ〜、このままじゃまた龍さんとデート出来なくなっちゃう……」
がっくりと肩を落とす沙南に、これはまずいと翔と純はそれぞれ慰めの言葉をかけた。
「沙南ちゃん大丈夫だって! 龍兄貴、浮気してるわけじゃないんだし!」
「それに龍兄さんならきっと埋め合わせしてくれるよ!」
何より沙南ちゃんが嫁に来なかったら絶対兄貴は一生独身になる、と翔が付け加えれば、そうだよね、と純も頷く。それには秀も同意見なので苦笑した。
「兄さんは本当に医者の鑑ですからねぇ」
「だけど、沙南ちゃんがいなくなったら病人になる気がするけどな」
「まさか、そこまで龍さんは不規則な生活週間は送らないでしょ!」
沙南は笑い飛ばしたが、あながち冗談ではないと弟達は本気で思っていた。
なんせ、龍は家事全般は壊滅的に出来ない医者なのだから……
そして、噂の医者は病院に着くなり素早く処置を終え、ようやく医局でインスタントコーヒーに有り付いていた。
本来なら沙南スペシャルの数々を堪能出来ていたというのに……、と内心でグダを巻いているところへオペを終えた啓吾も医局へ戻ってきた。
「なんだ、また呼び出されてたのか」
「ああ、おかげで泊まり込み決定だよ」
「そりゃおつかれさん」
「お互いにな」
啓吾は椅子に腰掛けて机の上に足を投げ出した。
「新しく三人入って少しは楽になるかと思ったが……」
「楽にはなっても呼び出しはなくならないんだよな……」
ならばいっそのこと泊まり込みにしてくれ、と二人は文句を付けたいところだが、患者には罪のない話だと納得するしかない。
「でもよ、研修医より仕事の出来ない医者ってどうなんだ? しかも三人」
「さぁね。論文ばかり書いて実践を忘れた医院長と同じだから仕方ないね」
「さっき脱臼患者が運ばれて来ても処置一つまともに出来なかったもんな」
「で、いま医局にいないって事は……」
「救命に捕獲されてる。あそこの医者も看護士達も逞しい上におっかないだろ? 外科にいる以上、救命の知識も叩き込ませていただきます、ってさ」
「そうやって救命医に取られた先生が何人もいたもんなぁ」
龍はその数々の医者達を思い出しながら苦笑した。
沙南の父である医院長の誠一郎が外科、小児科、救命を何とか自分の元に取り込もうとたまに臨時で他の医師達を投入するのだが、大抵救命で洗礼を受けさせられ、その医師は立派な救命医になるなり退職に追い込まれるなりとその野望はいつも潰されている。
ならばいっそ救命が失くなれば、と誠一郎は考えたこともあるが、そんな事をすれば天宮兄弟がどれだけ反発してくるかいやでも分かるため、誠一郎は不毛な努力を繰り返しているのである。
「だけど、ここだけは休みたいね」
「ああ、夏休みか」
今週末、龍は三連休になっている。いくら医者といってもそこまで人数の少なくない聖蘭病院は夏休みというものが存在していたのだ。
「ちゃんとたまには家族サービスしないと大暴れする悪童達がいるからね」
「確かにあいつらは騒ぐだろうな。それに沙南お嬢さんもだろ?」
啓吾はニヤリと意地悪な笑みを浮かべれば、龍はがっくりと脱力した。朱くなるなり慌てるなりの反応を期待していたが、それはあまりにも意外なものだったので啓吾は目を丸くした。
「ん? どうしたんだ?」
「確かにそろそろうちの姫様はお怒りになるんでね……」
デートの断りを立て続けにしてる警戒信号は、弟達の反応と沙南の落ち込みが怒りに変わり始める瞬間をいかに見極めるかが鍵だ。
今月に入ってすでに四回目、これで三連休まで潰れたらどうなるのかと考えただけで恐ろしい……
「……早くくっつけばいいのに」
「家族愛と恋愛は別だろ?」
どのみちくっつくなら変わらないんじゃ……、と啓吾は相変わらずな堅物の肩にボンと手を置いた。
さてさて、新しく外科に三人も医者が投入されたにも関わらず、龍も啓吾もお忙しい様子です。
外科医が沢山いるのに何で?と思われそうですが、会議や健康診断に行ったり、医学生の指導に借り出されたりとこの病院の医師達は結構大変だったりします。(救命にもヘルプで呼び出されてますからね)
なので誠一郎医院長の不毛な策も彼等にとっては利用価値の高いものです(笑)
そして二章になって龍は相変わらずかと思われつつも、今月に入って沙南とのデートを四回も断ってさすがにまずいかなぁと自覚している模様。
本当、愛想尽かされてロクな生活が送れなくなっても知りませんよ(笑)