第六章 もう結構です
翌朝、王宮の大広間には、関係者全員が集められていた。
王アルベルト三世は玉座に座り、その左右には王妃エレオノーラと王太子が控えていた。長机には宰相ベルナール、法務卿セドリック、王室歴史官マティアス、大神官オルド、軍務卿、外務卿、財務卿が並んでいる。
末席では、書記官リオが新しい記録板を用意していた。
前の板は文字で埋まり、裏面まで使い切っていた。
記録された内容の大半は、何も決まらなかったという記録だった。
大広間の中央には、将軍ガルド・バルツが立っている。
彼はいつも通り、まっすぐな姿勢で王を見上げていた。
国王の決断を聞くため、広間の外には貴族や軍人が詰めかけている。さらに王宮前広場には市民が集まり、王が約束を守るか破るか、その結果を待っていた。
賭けの受付は、近衛兵によって閉鎖された。
ただし、近衛兵の何人かもすでに賭けていた。
王は大きく息を吸った。
一晩中考えた。
妻を与えることはできない。
約束を破れば信用を失う。
曖昧にすれば嘲笑される。
法を曲げれば王権が揺らぐ。
金では解決できない。
外国は見ている。
国民は賭けている。
これほど多くの事情を同時に考えたのは、即位以来初めてだった。
王は玉座から立ち上がった。
「ガルド・バルツ」
「はい」
「そなたの武功は、この国の歴史に永く刻まれるであろう」
マティアスがうれしそうにうなずいた。
「すでに草稿を――」
「今は黙っておれ」
王は続けた。
「そなたがいなければ、余も、王妃も、王太子も、そしてこの王国も存在しなかった」
「恐れ入ります」
「ゆえに余は、そなたの望みに最大限報いたいと考えた」
バルツは黙って聞いていた。
ベルナールは王の横顔を見つめていた。
昨夜、王は誰にも決断の内容を話さなかった。宰相にさえ、「明日、余が申す」としか言わなかったのである。
セドリックは法典を抱えていた。
王が法に触れる発言をした瞬間、止めるつもりだった。
オルドは祈っていた。
何を祈っているかは、本人にも分からなかった。
王はバルツをまっすぐ見た。
「しかし、王妃は与えられぬ」
広間が静まり返った。
バルツは表情を変えなかった。
王はさらに言葉を重ねる。
「エレオノーラは余の妻であり、この国の王妃である。恩賞として扱うことも、余の一存でその婚姻を解くこともできぬ」
「はい」
「それゆえ――」
「陛下」
バルツが言葉を挟んだ。
王は眉を上げた。
公の場で王の言葉を遮る者は少ない。
バルツは、その少ない例外をあえておこなった。
「何だ」
「もう結構です」
王はしばらく黙った。
「何がだ」
「お后様をいただく話です」
広間の空気が止まった。
ベルナールがゆっくり顔を上げる。
セドリックの手から法典が滑り落ちた。
財務卿は、聞き間違いか確かめるように耳へ手を当てた。
王は玉座の前で固まった。
「……もう一度申せ」
「要求を取り下げます」
バルツは深く頭を下げた。
「そこまで大事になるとは思っていませんでした」
誰も言葉を発しなかった。
数日にわたり、王国最高の頭脳が法律を調べ、歴史を掘り返し、神の意思を問い、外国の反応を分析し、国庫を計算し尽くした。
その結論が、本人の「もう結構です」だった。
王は震える声で尋ねた。
「なぜ今になって取り下げる」
バルツは会議の出席者たちを見渡した。
「皆さん、疲れているようでしたので」
ベルナールの目の下には隈がある。
セドリックの法衣には、昨夜こぼした墨の跡が残っている。
財務卿は計算尺を握ったまま眠りかけていた。
マティアスだけは元気だったが、それは年代記を語れる機会が増えたためである。
「昨日、皆さんが朝から何も食べていないと知りました」
バルツは申し訳なさそうに続ける。
「自分はお后様が好きです。ですが、皆さんに食事を抜いていただくほどではありません」
王は目を閉じた。
数日の会議。
国際問題。
軍の士気。
王権の信用。
宗教的誓約。
王位継承。
それらすべてが、食事より軽かった。
ベルナールは顔を覆った。
財務卿は、食事代なら国庫への負担も軽い、と心の中で計算した。
リオが恐る恐る尋ねる。
「失礼ながら、本当にそれでよろしいのですか」
「はい」
バルツはうなずいた。
「断られるなら仕方ありません。それに、お后様を困らせたいわけではありません」
エレオノーラが初めて口を開いた。
「そうでしたか」
「はい」
「では、この件は終わりですね」
「はい」
王妃の一言で、数日に及んだ国家的危機は終わった。
ベルナールは長い紙を見た。
政治的信用。
恩賞令。
婚姻法。
王命法。
宗教的誓約。
軍の士気。
外交問題。
財政問題。
市民の賭博。
紙いっぱいに並んだ問題は、すべて不要になった。
彼は紙を静かに巻いた。
「陛下。問題は解決いたしました」
王は玉座へ座り直した。
「余には、解決したという実感がない」
「私にもございません」
セドリックが法典を拾い上げる。
「法的には、恩賞請求権の放棄として処理できます」
王がにらむ。
「もう法の話はするな」
マティアスが手を挙げた。
「この出来事は、王国史上きわめて珍しい前例として――」
「記録するな」
「すでに書き始めております」
「燃やせ」
リオが記録板を抱えた。
「公式記録はどういたしますか」
王はしばらく考えた。
「バルツ将軍は、王国への忠誠から恩賞を辞退した、と書け」
バルツが首をかしげた。
「お后様はいまでも好きですが」
「その部分は書かぬ」
王は立ち上がった。
広間の扉が開かれ、外で待っていた者たちへ決着が伝えられた。
王妃は王宮に残る。
王は約束を完全には守らなかったが、バルツが自発的に要求を取り下げたため、表面上は誰の信用も傷つかない。
広場では、賭けの判定をめぐって新たな口論が起きた。
「王が断った」に賭けた者と、「将軍が諦めた」に賭けた者が、自分の勝ちだと主張したためである。
王宮は、その問題には関与しないことにした。
数日後、王国では別の凱旋式が行われた。
バルツの副将が、逃亡していた敵国の宰相を捕らえて帰還したのである。
前回ほどではないものの、十分に大きな武功だった。
王宮前広場には再び群衆が集まり、重臣たちも整列していた。
アルベルト三世は副将の前に立った。
「そなたの働き、まことに見事であった」
ベルナールが、わずかに身構えた。
王は胸を張った。
「その功績に報いるため――」
セドリックが法典を開いた。
オルドが祈り始めた。
マティアスが新しい年代記を用意した。
リオは記録板の上で筆を止めた。
王は満面の笑みで宣言した。
「望みは何でも申せ!」
宮廷全体が凍りついた。
エレオノーラは静かに扇を開いた。
ベルナールは目を閉じた。
そしてバルツだけが、副将の肩をたたいて言った。
「よかったな」
誰もよいとは思っていなかった。




