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第一話「一円を笑う者は、一円に泣きますっ」



 一円玉を拾うのに、あんなに真剣な顔をする女子を、俺は初めて見た。


 昼休みの廊下。

 購買へ向かう生徒たちの流れの中で、金星七瀬かねほしななせだけが、ぴたりと足を止めた。


 彼女の視線の先には、床に落ちた一円玉があった。



「……一円を笑う者は、一円に泣きますっ」


 誰に言うでもなくそう呟くと、金星さんは一円玉をそっと拾い上げた。


 そのまま自分の財布に入れるのかと思ったが、どうやら違うようだ。


 鞄から付箋を取り出し、細い字で「落とし物」と書き、

 そしてその上に一円玉をのせ、廊下の窓辺に静かに置いた。


 たった一円。


 けれど、その横顔があまりにも真面目だったから、

 俺、田上優たがみゆうは、つい笑うタイミングを失ってしまった。





 金星さんは、クラスでちょっと有名だ。


 成績がいいからでも、顔が可愛いからでもない。

 いや、どっちも間違いなくそうなのだけれど。


 それ以上に有名な理由がある。


 彼女は、節約に命をかけているのだ。


 そう言われるようになったのは、たぶん高校二年の春。

 クラス会の行き先を決めていた時からである。


「焼肉食べ放題でよくなーい?」


 誰かがそう言った瞬間、教室はほとんど決まりかけた空気になった。 


 「駅前のお店で良い?」「もう一個上のコースでも良くない?」「ソフドリ飲み放題は付けようよ〜」

 そんな声で教室がにぎやかになるのを、俺は黙って眺めていた。


 どうせ俺に決定権などあるまいし。


 その時、金星さんだけが小さく手を挙げた。


「あの……私、行けません」


「えー、なんで?」


「三千五百円は、高いので」


 その一言で、教室の空気が固まった。


 俺はその時初めて、金星さんの声をちゃんと聞いた気がする。


 教室の後ろの方で、誰かが「金星さんらしい」と呟くと、それから、少しだけ笑いが起きた。


 金星さんは怒るでもなく、恥ずかしがるでもなく、静かに手を下ろした。


 なぜだろう。

 俺はその顔を見て、胸の奥が少しだけざわついた。


 三千五百円。


 俺にとっては、少し高いけど出せないほどではない金額だ。けれど金星さんにとっては、みんなの前で「行けません」と言わなければならないくらいの金額なわけで。


 その理由を、俺はその時初めて考えた。





 それから何日かして、俺は放課後の教室に残っていた。


 理由は単純だ。クラス会の会計表をまとめる係を押しつけられたから。

 いや、押しつけられたというと言い方が悪いな。

 「田上ならやってくれそう」誰かがそう言って、俺も「まあいいよ」と答えた。それだけのことだ。


 プリントを集め、金額を確認し、余った小銭を封筒に入れる。気づけば、教室には俺一人だけ。


「…はー疲れた」


 そう呟いて、俺は職員室に封筒を届けた、その帰り。

 喉が渇いて、俺は自販機の前で足を止めた。


 「炭酸でも買おうか」


 ポケットに手を入れた瞬間、


「あ、あれ?」


 財布が、ない。

 教室の机の中か、鞄の奥か。

 はたまた家に忘れたのか?


 とにかく今、俺のポケットにはスマホしか入っていない。


「……まじか」


 百六十円の炭酸を前に、俺はしばらく立ち尽くした。

 まぁ、しょうがないよな。諦めよう。



 すると、その時、

 横から、すっと細い腕が伸びてきた。


 長いまつ毛。

 整った横顔。

 肩を流れる、まっすぐな黒髪。


 それらが一瞬だけ、俺の視界を横切った。


 "ピッ。"


 電子音が鳴って、俺が押そうとしていた炭酸のボタンが光る。


 金星さんだった。


「どうぞ」


「え、いや、待って。なんで」


「田上くん、それを飲みたそうな顔をしていたので」


「いや、でも、金星さんが?」


 思わずそう言ってしまってから、しまったと思った。


 三千五百円の焼肉を高いと言った金星さんが?

 一円玉をあんなに大事そうに拾っていた金星さんが?


 ……そりゃあ、驚かない方が無理だろ。



 金星さんは、首をかしげる。


「頑張った人に使うお金は、無駄じゃありませんっ」


「……」


 見てたのか。

 どうせ、誰も気づいていないと思っていた。


「…ありがとう。今度返す」


「ふふっ」


  金星さんは、手を口元に当てて笑った。

 そして急に真面目な顔に戻ると、


「田上くん」


「ん?」


「ちなみにっ、それは校内で買うと百六十円ですが、」


 金星さんは、ピシリと自販機を指さした。


「駅前のスーパーなら九十八円です。急ぎでなければ、そちらの方が六十二円お得です!」


「今それ言う?」


「今だから言いました」


 優しいのか、厳しいのか。ケチなのか、ちゃんとしているのか。

 この人のことが、俺には全然わからない。


「というか金星さん、なんでこんな時間に学校いるの?」


 そう聞いた瞬間、金星さんの肩がビクッと跳ねた。


「あっ、それは…秘密です」


「……なるほど」



 その時。

 金星さんの鞄の中から、くしゃり、と小さな音がして、彼女は慌ててハッと鞄を抱きしめた。


「今の音、なに?」


「な…何でもありません!!」


 そう言う金星さんの鞄が、もう一度ゴソッと動いた。


 そして、かすかに鳴き声がした。



「……にゃあ〜オ」


 ……にゃあ〜お?…


 俺は缶を持ったまま、固まった。

 金星さんは目をそらした。なんだこの気まずい空気は。


「金星さん?」


「…はいッ」


「それ、秘密にしていいタイプのやつじゃなくない?」


「……わ、わかりました。明日、お昼に屋上、来てください」



 金星さんはわからない。

 でも、わからないからこそ、この頃から俺は、彼女のことが気になってしまったんだと思う。



 とりあえず俺は、明日の昼に屋上へ行く。


 わかってる!わかってるけど!

 女の子から屋上に呼び出されたという事実だけ、今は受け取っておこう。









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