悪天
わたしの三者面談は穏やかに終わった。
今のところ何か考えているかと聞かれたので、「島の中学に進んで、三年の間に将来のことを考えたいと思っています」と答えた。
「本人の希望の通りに進めばいいと考えています。できる範囲で協力します」とジネさんも言って、その後は宿題の進み具合を確認し、二学期の予定を説明して終わり。
先生に挨拶をして教室外に出ると、入り口で待っていた拓海の母親に挨拶をして入れ替わる。帰り道の途中で雨が降ってきた。
運転席の祖母が眉を寄せた。雨つぶが大きくなってくる。
「今日、雨予報だっけ? 洗濯やりなおしかな。海、どうしようかなあ」
わたしは今朝庭に干してきた洗濯物のことを考えて肩を落とした。海に行けばどうせ濡れるのだから泳ぐにはあまり問題ないけれど、洗濯をやりなおす分だけ時間を取られる。あとで困るのはわかっているのだから、やりかけの算数の宿題と、気の進まない読書感想文を進めてしまった方がいいかもしれない。
うむむ、と悩んでいると祖母が言った。
「今日は、海はやめておいた方がいいようだよ。空がよくない」
そう言われて車の窓の外を見あげると、さっきよりも明らかに暗くなっている。
「できるだけ早く帰った方がよさそうだ」
ジネさんが少し強めにアクセルを踏んだ。山道を登り、家まで下る間に雨は本降りになっていた。
すっかり濡れてしまった洗濯物を取り込むとわたしもびしょ濡れになった。洗濯物と一緒に自分が来ていた服も洗濯機に放り込んで洗いなおす。もう一度干し直すのはやめて、乾燥までやってしまうことにする。海に行くのもあきらめて、昼ご飯を食べてから部屋で宿題の続きをすることにした。
算数の宿題をやっている間に、雨が止んだ。外海側にはまだ雲が厚く垂れこめているのに、山側は晴れているのか、日が射して明るい。変な天気だ。
なんだか落ち着かなくて、読書感想文のための本にはちっとも集中できない。
少しだけ風が出てきた。
窓から外を見る。
海面に小さく白波が立っている。わたしの心の中みたいだ。
ちっとも進まない読書感想文にため息をついて、階下に行き、乾燥が終わった洗濯物をたたむ。
あたりは静かなのに空気がピリピリしているような気がした。
木々の間を吹き抜ける風の音が耳に残る。波は荒くないはずなのに海岸に寄せる波が石を転がす音も聞こえる。
サンルームにあるジネさんのラジオから、大気が不安定になっていると告げる声が聞こえた。
雨が降っているわけではないけれど、雨戸を閉めるとか、地下室に行くとかした方がいいのかもしれない。でも、何で?
二階に戻ってもう一度読書感想文の本を開いてみるけれど、文字は一つも頭に入ってこなかった。あきらめて本を閉じて海を見る。
海側では相変わらず雲が厚く空を覆っているのに、山側では夕日が差しているらしい。沖合の真っ暗な海面と手前で夕日を受けて赤く光る林の木々は、二つに破いた嵐と夕焼けの絵を無理やりくっつけたようで、全く調和がとれていなかった。
落ちつかない気持ちのまま外を見る。
分厚い雲の一点が更に厚みを増したように見えた。
目をこらす。見間違いじゃない。雲が、降りてくる。空から沖合の海上へ、捻りを伴ってゆっくりと降りてくる雲に唖然としていると、海面からも雲に向かって黒い靄のように影がたち昇った。
何、これ!?
心臓がドキドキする。わたしは部屋を飛び出し、階下に向かって大声をあげた。
「ジネさん! 空がおかしい!!」
ジネさんが普段のゆっくりした動きからは考えられないほど大急ぎで階段を登ってきた。窓の外を見る。
「海上竜巻だ……」
そうつぶやいて胸を押さえる。眉が寄って辛そうな表情になった。
まるで手をつなぐように、空から降りてきた雲と海から立ち上る靄が繋がる。
「地下に行った方がいいと思う?」
「長続きするものじゃないしあれは遠いから、ここはたぶん大丈夫だけど……」
そう言って海上を凝視する。わたしも海に視線を戻した。
竜巻の根元近くに小さな灰色の影がある。
船だ!
竜巻は海水を吸い上げながらなおも太さを増していく。暑い雲の中で稲妻が閃いた。
近い。このままだと危険だ。
恐怖にぞわりと鳥肌が立ち、鼓動が一段と早くなった。
逃げて!
そう思いながらも無駄だとわかる。この距離であの大きさなら、十人乗りくらいの漁船か、ダイビングの船か。大気が不安定になっているというニュースがあったのに、雨が上がって風もそれほど強くはなかったから出航したのか、それとも遠出していて、ニュースを聞いて帰る途中だったのか。
竜巻が太さを増していく。わたしたちはただ見つめるしかできなかった。船は精一杯竜巻から遠ざかろうとしたのだろうが、強大な風の力の前には子どものおもちゃも同然だ。引きつけられて船尾が持ちあがり、ほぼ垂直になる。そして、空中に巻き込まれこそしなかったけれど、そのまま船首から海中に突っ込んだ。浮き上がってきたものの、ひっくり返っている。
転覆だ。
わたしは声も出せないまま胸の前で手を組み合わせた。乗っていた人が無事でありますようにと祈る。
ジネさんが階下の無線機に急いだ。海難事故は海上保安庁に連絡しなければならない。
いったい何人乗っていたのだろう。
竜巻はゆっくりと動いて行く。暗雲の中で閃光が走り、雷鳴が低く届く。自然の猛威の前に人間ができることなんてたかが知れている。
わたしは恐怖に震え、ただ拳を固めてひたすら見守っていた。
やがて竜巻は、ふいっと、まるで子どもがおもちゃに飽きて興味を失ったかのように突然消えた。さっきまで強大な力を持って黒い渦を巻いていた柱がふんわりと空に解けて消える。
何が起きたのかわからず、パチパチと目を瞬かせてみても、そこには何もない。
あの船が沈没したこともすべてが夢だったみたいに風がやみ、海が凪いで、暗く垂れこめていた雲まで消えていく。それと同時に夕日も沈み、あたりが夜になっていく。
わたしは納得がいかないまま階下に降りた。
「ジネさん、竜巻、いきなり消えた……」
声をかけたものの階下にジネさんの姿はなく、「救助に参加します。絶対に海に行かないように」と走り書きがされたメモがテーブルに残されていた。「絶対に」の文字の下には二重線。愛用の軽トラックもない。島にいる数少ない医療従事者なのだから、救助された人が運び込まれたときに備えて病院に待機するのだろう。
わたしは部屋に戻った。窓から見ている間にも海はどんどん暗くなっていく。祖母の通報を受けて港から地元の漁船が出港したらしく、転覆した船のほうに向かって進んで行く。いったん見失ってしまったら真っ暗な海では見つけるのも大変だ。イカ釣り用の漁船も煌々と明かりをつけて現場に向かう。今は夏で、水温は高いけれど、海の事故はいつだって一秒一秒が命に係わる。
それだけじゃない。島に向かって流れる海流につかまれば、船が近づけなくなるため、救助の難易度が跳ねあがる。めったに海難事故など起きないけれど、地元の人間はみんな、事故の時は船が沖合にいる間に救助するか、これ以上島に近づかないようにさらに沖へと船を牽引しなくてはならないと知っている。
救難ヘリが飛んできて、ライトで海面を照らし始めた。見慣れない形のライトを積んだ白っぽい船が来たところを見ると海上保安庁の巡視船も到着したようだ。
わたしはそっと息を吐いて、乗っていた人たちが無事でありますようにと祈る。
残されたメモの「絶対に海に行かないように」という文字が目の前にちらついた。
わたしが、行けば。
わたしなら。
もしかしたらあの船には、まだ生きている人がいるのかもしれない。
もしかしたら波にさらわれて島の方に流された人がいるかもしれない。
もしかしたら、もしかして、助けられたかもしれない人が今死にかけていたら――。
頭を振って思考を追い払う。
その結果、どうなると思うの? 人と違うことが知られたら、どうなるの?
「絶対に」
頭に浮かんだその言葉を消すように、わたしはいきおいよく部屋のカーテンを閉めた。
まだまだ先は長そうです。ありがとうございます。がんばります(*^^*)