(11)
妖怪騒ぎから、一週間後――。
「おはようございまーす。って、あれ? 今日は子草さん、いないのか」
呪術祠祭課の扉を開けた葉月は、キョロキョロとあたりを見回した。
だいたいが床で寝ている子草だったが、たまには家に帰る日がある。きっと昨日はその日だったのだろう。
持ってきた荷物を机に置き、部屋の窓を開ける。
スーッと息を吸いこむと、これまでより少し乾いた空気が肺の中に流れ込んできた。その空気に秋の気配を感じながら、大きく伸びをする。
「うーん、気持ちいい」
その時、部屋に明るい声が響いた。
「葉月、久しぶり。元気だった?」
……あれ? もしかして、この声は――。
クルリと振り返れば、そこには爽やか笑顔の陽明が立っていた。
「あっ、課長、お久しぶりです。通州から帰ってたんですか?」
「うん、昨日ね。それよりも、葉月が山で遭難したって聞いて心臓が止まるかと思ったよ。大丈夫だった?」
「ええ。色々ありましたけどね。とりあえず、大丈夫です」
苦笑いしながら陽明の顔をじっくり見る。
土木作業で日に焼けたのだろう。小麦色に焼けた顔は精悍さを増し、下顎に生えたひげがワイルドさを加えている。
「……って、課長、ひげ!!」
「ああ、これ? どうせ内城に出仕しないからって、ちょっと伸ばしてたんだけど、変かな」
「い……いえ、変じゃないと思います」
……というか、イケメンっぷり、上がってます。甘い雰囲気と顎ひげのバランス絶妙すぎます。でも、ワイルド系の免疫なんてゼロどころか、マイナスなので近づけません。
ズルズルと後ずさった葉月に、陽明が「んっ?」と首を傾げる。
「ひげは嫌い?」
「いえ、いいと思います」
「その割には逃げるね」
「ひげ男子の免疫はないんで」
「子草も生やしてたけど?」
「それは、そうですけど……」
あれははっきり言ってただの無精ひげだった。生やし方の問題なのだろうか。イケメンのひげは、なんというか近寄りがたいものがある。
警戒心全開で後退していく葉月の様子にクスクスと笑うと、陽明は葉月とは反対のほうへ向かった。
開け放たれた窓から外を眺める。
「それにしても、やっぱり呪術祠祭課はいいねー。ここに来ると帰って来たなーって思うよ」
相手の顔が見えなくなったことに安堵して、同じように空を見る。
「お疲れ様です。そういえば、課長って何週間通州に行ってたんですっけ」
「二週間ちょっとかな。今回はけっこう長かったね。この前まで暑い暑いと言っていたのに、帰ってきたら夏が終わってたよ」
「たしかに。空も段々秋の空に変わってきましたもんね。今日の雲なんて夏と秋が混在しているみたいだし」
陽明が驚いた顔で振り返った。
「夏と秋が混在? 雲でそんなことがわかるの?」
「ええ、あそこに見えるモクモクと上に沸き上がる雲。あれが夏の雲。その横にある刷毛で掃いたような薄い雲が、秋によく見られる雲です」
「雲のでき方で季節の移ろいがわかるってこと? なるほどねー」
日焼けしてチャラさに拍車がかかったと思ったけど、やっぱりエリート官吏は伊達じゃない。少しの説明で、未知のことも正確に理解してくるのだから。
それにしても、イケメンがワイルド系になって帰ってきた。これは大変なことになりそうだ。ラブレターの量が倍増するんじゃないだろうか。
……とりあえず、こっちに被害が来ないように、しばらくは静かーに目立たないよーにしていよう。
そんなことを考えながらほうきを手に取り掃除を始める。さすがに一週間来ないとホコリがたまる。サッササッサと手際よくほうきを動かしていく。
そして、部屋を半分くらい掃いたところで、空を眺めていた陽明が話しかけてきた。
「ねえ、葉月。空ってさ、不思議だよね」
「不思議……ですか?」
「うん。すぐに手が届きそうだったり、果てしなく遠かったり。いったい空の際ってどこにあるんだろうね」
「……空の際?」
「どれくらいの距離があるか想像したことある?」
……空の際? それって、宇宙も含まれるのかな。だったら――。
葉月は手にしたほうきを、窓の外に向かってまっすぐに伸ばした。
「無限……かな」
「無限?」
「うーん。正確にはわかりません。でも、無限という言葉が一番近い気がします」
「じゃあさ、天が動くのはどうやって説明する?」
「天が動く? えっと、天は動きませんけど……」
……というよりも動いているのはこの地球だ。よく言うじゃないか、それでも地球は回っているって。
そこまで考えて、ハッとする。
……もしかして、この国には地球が回っているという常識はない……のか⁉︎
「えぇぇーっと……」
しどろもどろになった葉月に、陽明は喉を震わせて笑いだした。
「もういいよ、葉月。天は動いていないんだね。無限の物が動くはずがない。動くのは必ず有限の物。つまり――」
「いえ、違います! 動いているのは天です。回っているのは私の頭です。そんな常識もわからないなんて、クルクルパーですいません」
……そして、なんだか嫌な予感がするので、これ以上の会話は遠慮しておきます。グッバイ、アディオス、チャオチャオチャオ。
内城で空読みをすることになった葉月だったが、この世界の常識を変えるつもりはない。
新たな事実を発見するのは、常にこの世界の人間であるべきで、異世界人がそこまで介入してはいけないと思うからだ。
だから、余計なことは言わないようにしようと思っていたのに――。
……課長に会うのが久しぶりだったから、完全に油断してたよーーー!
そういえば、この男、無駄に賢いし、腹黒いし、笑顔の裏で何を考えているかわからないし……、とにかく油断大敵要注意人物だった。
葉月は慌てて掃除用具を片付け、代わりに気象観測用のデータを手に取った。クルリと振り返り、敬礼する警官のようにビシッと左手を上げる。
「じゃあ、定時観測に行ってきます!」
それだけ言うと、葉月は勢いよく扉を開けて、部屋を出た。
*
葉月が去った部屋の中で、陽明はクツクツと喉を震わせて笑っていた。
「天は動かない……か。やっぱり、葉月って面白いなぁ」
この国の常識を軽やかに塗り替えてみせる彼女の発言は、彼にとってワクワクするものだった。
彼の枯渇しそうな知識欲をこれでもかと刺激して来る面白い存在……いや、興味深い存在といったほうがいいかもしれない。
とにかく、今までそんな女性にあったことはない。いや、男性を含めたって、そうそう出会えないだろう。
ひとしきり笑うと、彼女が去っていった扉を見つめる。
「ますます気に入っちゃったな。ちょっと本気出してみようかな」
陽明は誰に言うでもなく呟いた。
≪光輪 了≫
明日、書籍版が発売されます。
特典情報については、活動報告をご覧ください