第5話 気づかれないまま、守っていたもの
夜明け前、リリアはふと目を覚ました。
理由はわからない。
夢を見ていたわけでも、物音がしたわけでもない。ただ、胸の奥が静かにざわついたのだ。
外はまだ暗い。
窓の向こうに、かすかな星の名残が見える。
(……何か、変)
そう思った瞬間、自分で自分を笑いそうになった。
ここ数日、変わったことだらけだ。肩書きを失い、居場所を失い、何もしない時間を過ごしている。今さら「変」も何もない。
寝台から起き上がり、外套を羽織る。
理由はない。ただ、外に出たかった。
村は眠っていた。
家々の窓は暗く、聞こえるのは虫の声と、遠くの森のざわめきだけだ。
空気が、澄んでいる。
王都よりもずっと、重たいものがない。
村の外れまで歩いたとき、ふと足が止まった。
胸の奥のざわつきが、少し強くなる。
(……森?)
闇の向こう。
木々の間に、微かな違和感があった。音でも、匂いでもない。言葉にできない「歪み」のようなもの。
リリアは、無意識に一歩踏み出していた。
(ダメ)
自分に言い聞かせる。
もう、聖女ではない。異変を感じ取る義務も、対処する責任もない。
それでも足は、止まらなかった。
森の手前で、冷たい風が吹く。
鳥の気配が消え、虫の声も遠のく。
――王都の外で、こんな空気を感じたことがある。
魔物が現れる前。
結界の綻びが生じたとき。
心臓が、少しだけ早く打つ。
(……まさか)
森の奥から、低い唸り声が聞こえた。
闇の中で、赤い光が一つ、また一つと瞬く。
魔物だった。
大型ではない。けれど、村を襲うには十分すぎる数。
リリアは、その場に立ち尽くした。
(私は……)
祈る?
――誰の許可を得て?
叫ぶ?
――間に合う?
逃げる?
――村はどうなる?
頭の中で選択肢が巡るが、どれも現実味がなかった。
体が、先に答えを出す。
リリアは、そっと目を閉じた。
祈りの言葉は、口にしない。
聖女の定型句も、神への感謝も。
ただ、胸の奥に手を当てる。
昔から、祈りの前に必ずしていた仕草。
(……静かに)
願いとも違う。
命令でもない。
ただ、「ここは危険ではない」と、世界に伝える感覚。
空気が、ゆっくりと変わった。
冷たさが薄れ、張り詰めていた糸が、ほどけていく。
森の奥で、唸り声が止まる。
赤い光が、ひとつ、またひとつと消えていった。
――まるで、最初から存在しなかったかのように。
リリアは、その場に崩れ落ちた。
息が、少し乱れている。
(……今のは)
何をしたのか、説明できない。
魔物を倒した感触も、力を使った実感もない。
ただ、「来なかった」。
それだけだ。
しばらくして、鳥の声が戻ってきた。
夜明けが近づいている証拠。
リリアは立ち上がり、森に背を向けた。
誰にも気づかれていないうちに、村へ戻る。
朝、村はいつも通りだった。
「おはよう」
「今日は天気がいいな」
挨拶が交わされ、家畜が鳴き、畑に人が向かう。
昨夜、魔物が村のすぐ近くまで来ていたなど、誰も知らない。
朝食の席で、村長が言った。
「不思議なもんだ。最近、この辺りは魔物の気配が薄い」
「そうなんですか?」
声が、少しだけ掠れた。
「ああ。辺境じゃ珍しい。ありがたいことだ」
ありがたい。
その言葉が、胸に落ちる。
(……私は、また)
役に立ってしまった。
聖女としてではないつもりでも、結果は同じだ。
けれど誰も、感謝しない。
誰も、期待しない。
誰も、彼女を必要だと断言しない。
それが、こんなにも楽だなんて。
昼前、レオンが村を巡回しているのを見かけた。
昨夜のことなど、知る由もない顔だ。
「何かあったか?」
「……いいえ。何も」
嘘ではなかった。
“何も起きなかった”のだから。
レオンは頷き、それ以上踏み込まなかった。
理由を聞かない。その距離感が、ありがたい。
その日の午後、リリアは畑仕事を少しだけ手伝った。
教わりながら、土を均し、苗を植える。
「慣れてないな」
「……はい」
「まあ、すぐ慣れる」
それだけの会話。
できないことを、できないまま受け入れてもらえる。
夕方、畑の作物が、昨日より瑞々しく見えた。
土が、妙に柔らかい。
(……気のせい)
何度目かの言い訳を、心の中で繰り返す。
夜、再び寝台に横になる。
今日は、少し疲れていた。体を動かしたからだろう。
目を閉じる前、ふと考える。
もし王都にいたら、昨夜の異変は報告事項だった。
結界の異常、魔物の接近、対応の記録。
評価され、比較され、次の判断材料にされる。
でも、ここでは――何も起きなかった。
それでいい。
それがいい。
リリアは、静かに眠りについた。
自分がまた、誰にも知られないまま村を守ったことを、
まだ、深く考えないようにしながら。




