9.さよならシッポちゃん
九月に入り、夏は終わろうとしていた。けれども、暑さは続いていて、夜になっても気温は下がらない。ちっとも涼しくならないせいか、シッポちゃんは殆どの時間を横になったまま過ごしている。
「手伝ってくれる?」
私は母親にお願いした。ケージから出したシッポちゃんを捕まえてもらう。頭を少し上げてもらいスポイトを握りしめた私は狙いを定める。
「はい、あ~んして」
赤ちゃんに言うようにシッポちゃんに言う。けれども、赤ちゃんと違いシッポちゃんは口は開けない。むしろ、顔を背ける。噛まれないように注意しながら口を開き、スポイトでピュッと流動食を流し込む。
嫌がっている様子はない。嫌がっているならば、抗生物質を飲ませたときのように吐き出すはず。咽ることはあっても、素直に飲んでいる。けれども、十分な量を飲むわけではない。スポイトで五、六回ほど飲ませたら、暴れだして飲もうとはしない。とてもお腹が一杯になる量じゃない。でも、私も母親もそれ以上シッポちゃんに食べさせない。
「カリカリを食べてくれると良いんだけど」
私が母親に言うと、母親も疲れた表情を見せる。
「今朝、お父さんに手伝ってもらって口の中に入れてみたけど、飲み込めなかったのよね。結局、無理やり取り出しちゃったのよ」
シッポちゃんは私にすり寄ってくる。フローリングの床で滑るのか、フラフラとしながら近づいてくる。撫でられるととてもうれしそうな表情を見せる。だが、鳴くことは無い。舌を抜かれたかのように声を出さない。
「やっぱり、この子は飼われていたのかねぇ」
人懐っこいシッポちゃんの姿を見て母親は言う。その言葉には、何ら根拠はない。けれども、説得力はある。シッポちゃんが人に飼われていたであろう理由はいくつも考えられる。
まず、捨てられていた神社に餌が置かれていたこと。安っぽい餌や残飯ではない。そこそこの金額がするであろう猫缶が置かれていたのは不自然だ。勝手に捨てられた神社の関係者がそこまでするとは思えないし、近所の住人が勝手に猫缶を置くのも考えづらい。自分勝手にシッポちゃんを捨てた飼い主が、自分勝手に餌を置いていたのではないか。そんな推測が出来る。
次に、耳にダニがいなかったこと。それに、数回出したうんちから寄生虫が見つかることもなかった。本当の野良猫ならば、ダニや寄生虫がいるのが普通だ。それなのに、六~七年も生きている猫が何もない。と言うのも不自然だ。
そもそも、神社に猫は住んでいなかった。たまたま通りかかる一週間前には間違いなくいなかった。その猫が突然現れるのも不自然だ。更に言うならば、平均的な野良猫の寿命より明らかに長生きをしているのも不自然である。
考えれば考えるほど、シッポちゃんが口内炎や歯周病を悪化させて、異臭を放つようになったから捨てられたとしか思えなかった。だからこそ、何とかしたかった。治療して捨てた飼い主を見返してやりたかった。元気になって一緒におもちゃで遊びたかった。お腹を撫でてあげてニャアと鳴く声を聞きたかった。
だが、それは現実的に不可能だとわかっていた。実際には自分で食事も満足に取れない。口を開けることすら大変そうなシッポちゃんが長生きするのは無理だとわかった。完璧な治療を行うことは家では絶望的だった。
「自分勝手だったのかな」
「どうかしらね」
「責任を持って最後まで面倒を見なきゃ駄目なのかな。病院に連れて行って治療しないと駄目なのかな」
「でも、それは難しいわよね」
毎日のように動物病院で点滴を打ってもらえば、多少は元気になるだろう。しかし、それは現実的ではない。私には会社があるし、両親も持病があり、動物病院に毎日通うことは出来ない。
もし、一週間だけ通えば完治する。元気になることが出来る。そう保証されているならば通えたかもしれない。しかし、現実は不透明で、きっと治らないであろう病気をいつまで続くかわからないまま通院することは精神的にも辛すぎる。自分勝手で言い訳ばかりと思いながらも、自然の成り行きに任せることしか出来なかった。
「どうすれば良かったんだろう。やっぱり拾うべきじゃなかったのかな」
「そうね。拾わなければ何も起きなかったわね」
違う!
私は叫びだしたかった。シッポちゃんを拾わなければ、確かにこの苦しみは発生していない。けど、シッポちゃんは救われたのだろうか。飼い主に捨てられた状態で野垂れ死んで良かったのだろうか。
偽善? そうかもしれない。でも、私は少しでも助けたかったのだ。
「まだまだ元気そうで良かった」
翌日、会社から帰ってきた私が玄関を開けると、横になっていたシッポちゃんはパッと起き上がる。招き猫の姿勢になったシッポちゃんに「こんばんは」と挨拶をする。
二階の自室で着替えてからリビングに戻ってくると、両親は夕食を食べ終わっていた。少しは待っていてくれてもいいのに。そう思わなくもないが、私の帰宅時間がバラバラ過ぎるのが悪い。
テレビを見ている父親の横でユーチューブを見ながらご飯が出てくるのを待つ。良いの良いの。この家の家計を支えているのは私だから。
「昼間はちょっと遊んでくれたんだけどね」
母親が食器を置きながら話しかけてきた。
「やっぱり調子が悪いの?」
「そうね。ちゃんと歩けないし、御飯もちっとも食べれないからねぇ」
「じゃあ、ご飯を食べ終わったら、手伝ってくれる?」
「そうね。たまには、面倒を見てあげないといけないしねぇ」
母親はお盆に食べ終わった食器を乗せてキッチンに戻っていく。食洗機があるとは言え、家事は沢山ある。のんびりとしているわけではない。一人でやった方が良いのだろうか。
考えていると、テレビを見ているはずの父親の視線を感じた。チラチラと私の様子を伺っている。もし、命令口調で言えば父親も手伝ってくれるとは思う。でも、折角の母親の申し出を断る気にはなれない。気づかないフリをする。
慌ただしく食べ終えた私はシッポちゃんのところに向かう。ケージを開けて食事をしてもらおうと思った。母親が来る前に、口周りや汚れている部分を拭き取りたかった。ウェットティッシュに手を伸ばし、一枚取り出してからケージを開く。
シッポちゃんは帰宅時と違い横になっていた。眠っているかのように丸くなっていた。使い古されたバスタオルの上に、心地よさそうにニャンモナイトになっている。静かに何かを待ち続けるかのように動かない……。
全く動いていなかった。それまでは、横になっていた時も、お腹が上下していた。呼吸をしていた。けれども、今は完全に停止している。
手を握ってみた。勿論、反応はない。猫の体温はこれくらいのはずない。というほど、冷たくなっている。
目を閉じようとした。まぶたを指で閉じようとするが動かない。無理やり続ければ閉じたかもしれない。しかし、見開いた目は虚ろで、苦しげな様子はまったくない。私は頭を撫でるだけにして鼻をすする。
「お母さん! シッポちゃんが……」
私はリビングに向かって大声を出す。すると、両親は何事かと言わんばかりに玄関まで来てくれた。状況が理解できていない表情だった。でも、何が起こったのかは、シッポちゃんを見ずともすぐに理解した。ただ、覚悟していたものが訪れただけだと理解していたようだった。
三人でシッポちゃんの体を撫でてあげた。もう、鳴くことも甘えてくることもない。大人しくて甘えん坊だったシッポちゃんは、ここに抜け殻だけ残している。動かないまま私たちのことを見つめている。鳴き声どころか物音一つ立てずに、シッポちゃんは天国へと旅立っていたのだ。