一話一節『怪奇! 百目が通る! ヒュールルンルン!』
ここに山がある。
山である。という以外に特別な解説がしようがないぐらいの山だ。
季節は秋。赤や黄の落ち葉が幾重にも重なって絨毯を作り、踏めばカサリと乾いた音を立てる。リスが枝を渡り、小鳥がチチ、と鳴き交わす。麓の子供が栗拾いに来るような、そういう山だ。
その山道を、一人の少女が走ってくる。
歳の頃は十代半ばに差し掛かったぐらい。白と赤のツートンカラーブラウスに白いショール、赤いプリーツスカート。街へお使いに出た娘らしい出で立ちだ。薄赤色のハーフアップを振り乱し、胸には紙袋を抱えている。袋の中で、何か硬いものがコトコトと揺れた。
逃げているのだ。脇腹を押さえ、涙で視界を滲ませながら。もう後ろを振り返る余裕もない。それでも足は止まらない。止めたら終わりだと、身体の方が知っている。
「ハァ、ハァ……!! ッ!!」
彼女が逃げるモノは、すぐ後ろ、ほんの数歩の距離にいた。
「ギュルゥゥゥウゥ」
動物の鳴き声ではない。濡れた布を絞るような、喉に泥が詰まったような、耳にまとわりつく音だ。
――モヤだ。黒いモヤ。
煙のように揺らめきながら、しかし風に流されることもなく、一塊のまま地を這っている。そのモヤの中に、赤い目が無数にある。瞬きもせず、ただ一点、少女の背中だけを見つめている。
ソレが通り過ぎた後の落ち葉は、赤から茶へ、茶から黒へと、萎れるように色を失っていた。
魔王の城も毒の沼もない、ごく普通の山である。だからこそ彼女はここを通り、だからこそソレも待ち構えていたのやもしれない。
一言で片付けるなら、不運だったのだ。
そして、その不運は連鎖する。
「きゃっ!?」
落ち葉の下に隠れていた木の根に、靴の爪先が引っかかる。
少女は派手に転んだ。抱えていた紙袋が腕からすっぽ抜け、数メートル先でカランとガラスの音を鳴らしてバウンドする。
「――ッ、ぅ!!」
膝は赤く擦りむけ、細かな砂利がめり込んでいた。じわりと滲んだ血が、落ち葉の上にぽたりと落ちる。
「ギュルゥォォュァ」
ソレの声は相変わらず判別できない。だが、イントネーションは笑っているようである。
「誰か、誰かー!」
『かー……かー……』
返ってくるのは、自分の声の山彦だけだ。
リスも小鳥も、いつの間にかいなくなっていた。山は、ただ静かだった。
――その静けさの奥で、木々の間に、金色の何かが一度だけ瞬いた。少女は、それに気づかない。
ソレは急がない。獲物をいたぶるように、ゆっくりと形を変えていく。
モヤが粘土のように捏ねられ、縦に伸びる。首のない黒い胴ができあがり、そこから先の尖った腕と足が、枝が生えるように突き出した。目は、身体中にある。胴にも、腕にも、足の先にまで。
「ギュッグッギュ」
人型をとったためか、その笑い声は人のそれに近づいていた。得体の知れないものが、人の真似をしている。それが何よりも恐ろしかった。
少女は膝を諦め、腕で這う。爪の間に土が入り込み、顔は泥と涙でぐしゃぐしゃだ。それでも、頭にあるのはただ一つ。
『死にたくない。あれを届けたい』
ようやく紙袋に指が届く。袋の口から、栓をされた小瓶の首が覗いていた。割れては、いない。
安堵する暇もなく、彼女はそれを身体の下に潜り込ませる。
「ソレハ」「――ッ!?」
初めて、ソレが聞き取れる言葉を発した。人語だ。
身体をひっくり返すと、ソレはもう二歩ほどの距離にいた。見上げるほどの背丈。黒い胴の表面は絶えず波打ち、そこに埋まった無数の目が、木漏れ日を受けて濡れたように光っている。
「ソレハ ダイジナ モノカ」
無数の目がギョロギョロと動き、少女の顔を、手を、胸に抱いた紙袋を観察する。
少女は微かな希望を抱き、コクリとうなずいた。
「は、はい。だ、大事なものです……祖母への霊酒です」
「レイシュ トハ ナンダ」
「お、お薬となるお酒です。お、お願いします……! 見逃してください!」
ソレは、身体中の目を一点――少女の目に向ける。数十の視線が一斉に突き刺さり、少女の顔から血の気が引いていく。
「今、あげられるものでしたら何でも差し上げます……髪の毛でも、持っているお金でも……血の半分でも……」
唇が震え、一度は言葉が喉で詰まる。それでも、少女はハッキリと声に出した。
「あるいは……腕一本でも。命と、このお酒を見逃していただけるなら……」
涙声でそう言い切ると、少女は目を閉じ首を下げる。紙袋を抱く腕に、ぎゅっと力がこもった。
『腕』と聞いて、ソレは『ギュルル』と喉を鳴らすように笑う。
「ウデ デハ タリヌ カラダヲ ヨコセ ハラワタヲ クライ カワヲ カブッテヤル」
「――ッ!?」
もしかしたら。
そんな思いは、あっさりと打ち砕かれた。
ソレは、目だけでもわかるぐらい、歪に『嗤って』いた。
「アンシン シロ オマエト ソノ サケハ タスケテヤル ワレトイウ ソンザイニ カワルダケダ」
胴の天辺、普通ならば首のある部分から、赤い触手が無数に伸びる。剥き出しの血管のような色の触手だ。
その先端には口があった。粘ついたよだれを糸のように垂らし、ぎっしりと並んだ牙を剥く。よだれが落ちた落ち葉が、ジュッと音を立てて黒く焦げた。
「嫌……イヤ!!」
「オマエハ ワレト イッタイカ スルノダ ソノアトデ ソボトカ イウノモ クラッテヤル――ッ!!」
牙を剥いた無数の口が、少女の腹を食い破らんと迫る。
「イヤァァァ!! 助けて!! お母さん!!」
最後まで紙袋は離さず、少女は身体を丸め、紙袋ごと腹を抱え込む。
ぎゅっと閉じた瞼の裏に、床に伏せる祖母の顔が浮かんだ。
その時だ――
ビュン!!
陽光を弾いて煌めく金色の金属片が、少女の頭上をかすめて飛んできた。
ソレは触手の一本を鞭のようにしならせ、弾く。
バシィィン!
金属片がくるくると回転しながら宙を舞う。
ソレの無数の目が、一瞬だけ、その金色を追った。
そして、そのタイミングを待っている者がいた。
「バリア」
気負いも、詠唱らしい溜めもない。しかし、死刑宣告でもするかのような、冷たく、腹の底に響く声。
瞬間、金属片からキィィィィンという空を裂くような音が走り、周囲の木の葉がざわりと一斉に揺れた。
緑色に光る壁――向こう側が透けて見えるほどの、薄っぺらい何かが、ソレと少女の間を隔てていた。
壁の表面からは薄緑色の粒子が蛍のように舞い、白い煙がゆらゆらと立ち昇る。伸びていた触手の口は、その壁に阻まれ、牙をカチカチと空しく鳴らしていた。
「ご注意ください。その壁は物理バリアですので、脆いです」
先程とは正反対の柔らかい声に、少女は振り向く。
後方、十歩ほど後ろ。落ち葉を踏む音ひとつ立てず、いつの間にか、そこに一人の二十歳程の女性が立っていた。
ベージュ色の髪をゆるく後ろで三つ編みにし、金糸の刺繍とスリットが入った白いポンチョを羽織っている。木漏れ日がその輪郭を淡く縁取り、柔らかな微笑みを湛えた顔は、少女の目には、まるで女神か聖女のように映った。
─────────
続く……




