第1話 魔術を極めた老魔導師、少女に生まれ変わる
俺の名はアルディス・レグナード。この世界に伝わる魔術を極めた、八十二歳の魔術師だ。
術式構築、召喚魔法、属性魔術、結界術に錬金術。興味を持ったものを片端から習得し、失われた秘術を再現しているうちに、いつしか《万象の魔導師》などと呼ばれるようになっていた。魔術の腕を競う相手も、今ではほとんどいない。
国は何度か救ってきた。研究材料の採れる山を魔物に占拠されては困るし、戦争で大図書館が焼ければ、貴重な魔導書まで失われてしまう。そんな理由で動いていたら、英雄として尊敬されるようになった。
だが、俺には英雄願望なんて大層なものはない。勲章を受け取りに行く暇があるなら、研究室で新しい術式を試していたかった。
そんな俺も、そろそろ寿命らしい。
研究机に広げた文字がかすみ、羽根ペンを握る指から力が抜けていく。自分の身体だ。残された時間が、あと数時間もないことくらい分かる。治癒魔術で傷や病は治せても、寿命そのものを覆す方法には、ついに届かなかった。
「あと百年あれば、もっと魔術を調べられたのになぁ」
机には大量の魔導書と、書きかけの研究記録が積まれていた。世に知られる魔術をすべて修めたところで、研究が終わるわけではない。一つの疑問が解ければ、次の疑問が三つ生まれる。だから俺は、八十二歳になっても魔術に夢中だった。
炎の生み方も、空間のつなぎ方も知っている。だが、そもそも魔力とは何なのか。なぜ人は術式を通して世界に干渉できるのか。その根源を、俺はまだ見ていない。
明日はこの続きを、と考えたところで、指から羽根ペンが滑り落ちた。拾おうとした腕は動かず、代わりに穏やかな眠気が広がっていく。最期まで研究の心配とは、我ながら筋金入りだ。
もしも二度目の人生があるのなら、次は魔術をもっと楽しみたい。
そんな願いを抱きながら、俺は静かに目を閉じた。
※ ※ ※
「おい、そろそろ起きたらどうだ、ルミナ。もう昼前だぞ」
聞き覚えのない声に、俺の意識は浮上した。まぶた越しに光を感じ、ゆっくりと目を開ける。そうか、寝ていたのか……ならば、また魔術の研究に取り掛かるとするか。
そう思って身を起こしたところで、違和感に気づいた。背中を支えているのは研究室の硬い椅子ではなく、柔らかな寝具だ。胸の苦しさも、指先の冷えもなく、身体が妙に軽かった。
寝台の脇には、いかにも厳格そうな男が立っていた。身なりは整っているが、上着の袖口には繕った跡がある。背後の家具も造りこそ立派なものの、塗装の剥げや細かな傷が目についた。見覚えのない部屋だった。
「ルミナ、聞いているのか? 朝食にも来ないから、召使いに様子を聞いたんだ。具合でも悪いのか?」
「ルミナ? それは俺のことか?」
問い返した自分の声に、思わず口を閉じた。老人のかすれた声ではない。幼く澄んだ、ずいぶんと高い声だった。男は不思議そうに眉を寄せてから、小さく息を吐いた。
「お前以外に誰がいる。七歳になったというのに、まだ寝ぼけているのか?」
七歳。その言葉に、俺は自分の身体へ視線を落とした。皺だらけだった手は小さく滑らかで、指を握っても関節が痛まない。腕も足も、幼い子供のものになっている。
若返ったのか。いや、それなら別の名前で呼ばれる理由が分からない。俺が手のひらを見つめていると、男が顔をのぞき込んできた。
「どうした。父親の顔まで忘れたような顔をして。変な夢でも見ていたのか、ルミナ」
「……いえ、ちょっと寝ぼけていた――寝ぼけていました」
いきなり死んだはずの老人だと名乗るわけにもいかず、俺は慌てて答えた。男はまだ少し気にしている様子だったが、やがて掛け布団から出ていた俺の足へ目をやった。
「冷えるぞ。着替えを手伝うよう伝えておくから、支度ができたら食堂へ来なさい」
口調は厳しいが、どうやら心配してくれていたらしい。男が部屋を出るのを見送ってから、俺は寝台を降りた。床までの距離が思ったより遠く、足が届くまで少々手間取った。
壁際の姿見をのぞき込み、俺はその場で固まった。
鏡の中にいたのは、長い髪を寝癖で乱した、小さな少女だった。丸みの残る頬に、大きな目。寝巻きの襟元には可愛らしい飾りが縫いつけられている。右手を上げれば、少女も同じように手を上げた。
「……女の子?」
若返っただけでも十分驚きなのに、性別まで変わっている。頬をつまんでみると、きちんと痛かった。鏡の少女も眉をひそめている。どうやら見間違いではないらしい。
「転生……か?」
魂が新たな肉体に宿る可能性は、研究の過程で考えたことがある。だが、まさか自分が経験するとは思わなかった。しかも、八十二歳の男から七歳の少女とは、変化にも限度というものがあるだろう。
この子として過ごした記憶はない。ここがどこなのかも分からない。
……まあ、考えても仕方ない。
それより魔力だ。
俺は鏡の前で目を閉じ、身体の内側へ意識を向けた。
腹の奥に、小さな熱がある。それを指先へ導いた瞬間、思わず息をのんだ。魔力が驚くほど素直に流れていく。前世では回路の衰えに合わせて調整が必要だったのに、今は滞りも痛みもない。
まだ成長の余地をたっぷりと残した、若い魔力回路。その感触を確かめるうちに、戸惑いを押しのけるように喜びが込み上げてきた。
「……これは素晴らしい。これなら、最初から鍛え直せる」
少女になった理由は分からない。長い髪も面倒そうだ。
だが、それより今は魔術だった。
俺は人差し指を立て、七つの術式を組み上げた。出力を抑え、互いに干渉しないよう配置を整える。そこへ魔力を流し込むと、小さな指先に七属性の光が同時に灯った。
色鮮やかな光が、思い描いたとおりに輪を描く。羽根ペンさえ握れなくなっていた手で、また魔術を使っている。その光景に、俺はたまらず笑みをこぼした。
「今度は百年くらい研究できるといいんだが」
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