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第一章 君を護ると誓ったあの日から

晩秋の雨が、大虞国だいぐこくの都、洛陽城らくようじょうに敷き詰められた銀杏の葉を激しく叩いていた。


苔むした重厚な高壁から、わずかに突き出た枯れ枝。

そこに数羽のカラスが止まり、耳障りな濁声でカァカァと鳴き立てている。


早朝から、じつに不愉快な目覚まし時計だった。


しかし、そのカラスよりもさらに人の神経を逆撫でするものがある。

それは、事あるごとに大声を張り上げる、品性の欠片もない獄卒たちの怒鳴り声だ。


「おい、いつまで寝てやがる! 起きろ!」


囚人、謝問しゃもんがまだ夢のなかで心地よく微睡まどろみに浸っていたその時。

無防備な尻に、容赦のない蹴りが叩き込まれた。


だが、謝問の図太さは筋金入りだった。

蹴られた尻を気だるげに掻くと、まるで死んだ魚のような目で、ふてぶてしく瞼を閉じる。

腕を枕代わりに頭の後ろで組み、獄卒など端から相手にする気はないと言わんばかりに寝返りを打った。


その時だ。

背後から、先ほどの獄卒とは明らかに違う、低く冷徹な声が響いた。


「……お前が、淮南郡王わいなんぐんおうの若君――謝問か」


その一言が放たれた瞬間、おぞましいほどの殺気が牢内に立ち込めた。

謝問の目が鋭く見開かれる。

振り返った彼の瞳は、底知れぬ深い淵のように、声の主をじっと見据えた。


牢の入り口に立っていたのは、青袍の官服を身にまとった四十前後の中年男。

見たこともない、見知らぬ男だった。


「そうだとしたら、何だ?」


謝問は男を一度だけ一瞥すると、まるで興味がないとばかりに再び目を閉じ、怠そうに言葉を返した。


そのまま再び眠りにつこうとした、その時。

ガシャン、と重々しい鉄格子の鍵が開く音が、静寂を破った。


「罪人・謝問」


男は感情の籠もらない声で言い放った。


「立て。私に付いてこい」


――◇◇◇――


雨が上がり、初陽が差し込む早朝。

一年以上も闇に囚われていた謝問にとって、本来なら柔らかいはずの陽光すら、ひどく眩しく目を刺した。


目の前を歩く中年男が何者なのか、そして自分をどこへ連れて行こうとしているのか、謝問にはさっぱり分からなかった。


時は十一月の初頭。

吹き付ける秋風は肌を刺すように冷たい。

謝問の身体を包んでいるのは、薄汚れた薄手の錦の長衣ローブ一枚きりだった。

しかし、彼は寒さなど微塵も感じていなかった。

むしろ、貪るように新鮮な空気を肺に満たし、久しぶりに手に入れた自由の余韻に浸っていた。


二人が無言のまま洛陽の城門を抜け、しばらく進んだ頃。

いい加減、疑問を抑えきれなくなった謝問が口を開いた。


「おい、俺をどこへ連れて行く気だ?」


「今日からお前は自由だ」


中年男は振り返りもせず、淡々と答える。


「どういう意味だ?」

謝問は眉をひそめた。

「あんたは一体誰だ? なぜ俺を助けた?」


「私が誰かは重要ではない。お前はただ、私の代わりに一つのことを成し遂げればいい――」


男は謝問の問いに答える気はさらさらないようで、前を向いたまま、独り言のようにつぶやき続ける。


謝問がさらに問い詰めようとした、その時。

背後から地響きのような馬蹄の音が迫ってきた。

見れば、禁軍(皇帝直属の親衛隊)の装備を固めた一隊が、もの凄い勢いでこちらへ向かってくるではないか。


「ちっ、追手か! 走れ!」


謝問が状況を理解するより早く、中年男はその腕を強く引っ張り、路傍の鬱蒼とした林の中へと滑り込んだ。


「追手だって!?」

謝問の脳内で警報がけたたましく鳴り響く。

「おい、説明しろ! これは一体どういう状況なんだ!?」


「深く詮索するな! 走れ!」

男は息を荒くしながら叫んだ。

広化寺こうかじへ行け! そこで『さく』という男を探し、彼を守るんだ。……絶対に洛陽へは戻るな!」


会話の間にも、追手の気配は確実に近づいていた。

無数の馬蹄が地面を削る音が、すぐ耳元で鳴り響いているかのように錯覚する。


これ以上の問答は不可能だった。

突如、謝問の足元が大きく滑る。地面が途切れていた。

視界に飛び込んできたのは、草木に隠れた狭く険しい山割れ目だった。


「危ねぇ……!」

謝問は崖っぷちで寸でのところで踏みとどまり、身体のバランスを保った。


しかし、安堵したのも束の間。

背後から伸びてきた力強い両手が、容赦なく彼の背中を突き飛ばした。


「うわっ……!?」


悲鳴を上げる暇さえなかった。

谢问はなす術もなく、泥まみれになりながら谷底へと転がり落ちていった。

幸いにも、谷底には雑木や茂みが鬱蒼と生い茂っていたため、骨折こそ免れたものの、全身の皮膚が擦り切れ、無数の生傷が走った。


「痛てて……何しやがるクソオヤジ……!」


ボロボロになりながら這い起き、頭上に向かって悪態を吐こうとした瞬間。

すぐ上で、激しい金属のぶつかり合う音が炸裂した。


(嘘だろ……あのオヤジ、たった一人で禁軍の群れに挑む気か!?)


無謀な蛮勇か、あるいは退路を断った決死の覚悟か。


肉を切り裂き、骨を砕く凄惨な争撃の音は、驚くほどあっけなく静まり返った。

代わりに、頭上から響いてきたのは、傲慢な禁軍将校の冷徹な声だった。


『――もう一人いるはずだ! 隈なく捜せ!』


謝問は低木の下に身を潜め、指一本動かさずに息を殺した。


分かっている。

重装備を固めた十数名の禁軍の精鋭を相手に、丸腰の自分が飛び出したところで、犬死にするだけだ。

今はただ、静かに時を待つしかない。


一刻(約十五分)ほどが経っただろうか。

周囲を捜索し終え、収穫なしと判断した禁軍たちが、ようやく撤収していった。

静まり返った林には、ただ寂寞とした冷たい風の音だけが残されている。

完全に気配が消えたことを確認し、謝問は慎重に、這いずるようにして地上へと登り直した。


……中年男は、すぐ近くで血の海に沈んでいた。

胸にはいくつもの無残な風穴が開き、ピクリとも動かない。すでに息絶えていた。


謝問は男の傍らに膝をつき、その衣服を探った。

身元が分かるようなものを探したが、出てきたのは古びた一枚の『令牌(通行証)』だけだった。

それ以上の手がかりは、何一つない。


「広化寺……、朔……」


手の中の令牌を見つめながら、茫然と呟く。


どこの誰かも知らない男。

そして、その男が命懸けで守れと言った、会ったこともない人物。

しかし、見ず知らずの自分を牢から救い出し、命をくれた恩は本物だ。受けて立たないわけにはいかない。


謝問は長く、重い溜息を吐くと、男の遺体をその場に埋葬した。

盛り土の前に立ち、静かに両手を合わせて、深く一礼する。


颯々(さつさつ)と吹き抜ける秋风が、枯れ葉を巻き上げ、謝問の衣の裾を揺らした。

この時の彼はまだ知る由もなかった。

この名もなき男の死が、静かな湖面に投げ込まれた一石の如く、彼の定められた人生を根底から覆すことになるなどとは。

そして、この小さな波紋がやがて巨大な激流となり、彼自身を含むすべてを、陰謀渦巻く渦中へと巻き込んでいく大嵐になるなど、想像すらしていなかった。


――◇◇◇――


林を抜け、南へ数里ほど歩くと、小さな村が見えてきた。

田畑の間に四五軒の農家が点在し、村の中央を澄んだ小川がさらさらと流れている。


謝問は衣服を脱ぎ捨てると、川へと飛び込み、溜まりに溜まった汚れを豪快に洗い流した。

こびりついた泥と血痕をすべて擦り落とす。

その後、親切な村人から小綺麗な古着を借り受け、護身用にと一本のナイフを譲り受けた。

ついでにナイフでむさ苦しい無精髭を剃り落とし、乱れた髪を丁寧に整え、きっちりと一つに結い上げる。


身支度を終え、川の静かな水面に我が身を映してみれば――。


そこには、端正な眉に涼やかな目元をした、なかなかの美男子が佇んでいた。

長年の投獄生活による栄養失調のせいで頬は少し痩せこけているが、眉宇に宿る超然とした、どこか浮世離れした気品は、彼の記憶にある全盛期の姿そのままだ。


「よし、悪くない」


謝問は気持ちを切り替え、村人たちに「広化寺」への道を尋ねた。

しかし、その名を聞いた瞬間、村人たちは一様に奇妙な、あるいは怪訝な目を彼に向けた。

『そんなところに、一体何をしに行くんだ?』と言わんばかりの顔だ。


その理由を、謝問は広化寺の前に辿り着いた瞬間に思い知ることになる。


「……なるほど、な」


そこにあったのは、およそまともな寺院と呼べる代物ではなかった。

崩れ落ちた外壁。

かろうじて形を保っているのは、埃と蜘蛛の巣にまみれた、今にも崩壊しそうな古びたお堂が一つだけ。


――本当に、こんな場所に、俺が命懸けで守るべき人間がいるのだろうか?

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