第17話:髪が伸びる人形(後編)
「口元さん!」
九条が叫ぶ。
声は虚しくこだまするだけだ。
裂は人形の山に埋もれて見えない。
黒い髪が、彼女を完全に繭のように包み込んでいた。
漆黒の球体。その中心で、彼女は消化されようとしているのか。
髪の毛一本一本が、彼女の霊力を吸い取ろうと蠢いている。
『……食ベル……食ベル……一緒ニナロウ……』
巨大な人形の集合体が、勝利を確信したように蠢く。
無数の人形の手が、繭を撫で回している。
その感触は、愛おしむようでもあり、貪るようでもあった。
しかし。
その時。
「……鬱陶しいわね」
繭の中から、不機嫌そうな声がした。
くぐもっているが、明らかな殺気を含んだ声だ。
地獄の底から響くようなドスの効いた声。
「髪の手入れもしてないくせに、私に触るんじゃないわよ! 枝毛だらけじゃない! キューティクルが死んでるわよ!」
ズバァァァァン!!
内側から爆発したように、繭が弾け飛んだ。
人形たちが吹き飛び、空中に舞う。
裂だ。
彼女は自分の黒髪を荒々しく振り乱し、回転しながら周囲の人形を切り刻んでいた。
その目は、獲物を狩る獣のように鋭い。
怒髪天を衝くとはこのことか。
「湊くん! 火はある!?」
「え!? ライターならありますけど!」
「貸しなさい!」
裂は九条からジッポーライターを受け取った。
そして、蓋を開け、火をつけたまま、それを自分の鋏の刃に擦り付けた。
ガリガリッ!
火花が散る。
オイルの匂いが広がる。
「消毒よ! 汚物は消毒!」
彼女は鋏にまとわりついた髪油(何十年分の汚れを含んだ油だ)に着火した。
ボッ!!
巨大な鋏が、紅蓮の炎に包まれる。
揺らめく炎が、裂の顔を朱に染める。
マスクの下の傷跡が、炎に照らされて妖しく浮かび上がる。
その姿は、歌舞伎の見得を切るような迫力があった。
いや、歌舞伎よりも激しい。地獄絵図の中の鬼女のようだ。
炎の魔剣ならぬ、炎の裁ち鋏。
刃の温度は数百度に達している。空気が陽炎のように揺らめいた。
人形たちが本能的に後退する。炎は、木と布と髪の天敵だ。
「燃え尽きなさい! 縮毛矯正よ! 強めのヤツかけるわよ!」
裂が炎の鋏を振るう。
空気を切り裂く風圧が、炎をさらに煽る。
乾燥しきった古い人形たちに、火は瞬く間に燃え移った。
髪の毛という最高の燃料を得て、炎は爆発的に広がる。
化学繊維の着物が溶け、黒煙が立ち昇る。
『ギャアアアア! 熱イ! 熱イ!』
『助ケテ! 燃エル!』
断末魔の悲鳴。
タンパク質が焦げる独特の異臭が立ち込める。
BBQの匂いとは似ても似つかない、死の臭いだ。
「髪は女の命だけどね、傷んだ髪は切るしかないのよ! 未練ごと燃やしてあげるわ! スッキリしなさい!!」
業火の中で、裂が舞う。
その姿は、炎の精霊か、あるいは地獄の処刑人か。
炎の照り返しで、彼女のマスクの下の傷が妖しく輝いて見えた。
次々と焼却されていく人形たち。
物理攻撃(斬撃)+属性攻撃(炎)。
単純だが、最強の組み合わせだ。
炎は髪を伝い、人形の本体へと回る。
顔の塗料が熱で溶け出し、まるで血の涙を流しているように見える。
プラスチックの目が白濁し、破裂する。
呪いの依代が次々と物理法則に従って炭化していく様は、ある種のカタルシスすら感じさせた。
「熱い」という叫び声も、やがて「パチパチ」という薪が爆ぜる音に変わっていく。
数千体の人形の怨念は、物理的な熱量によって浄化(焼却)されていった。
想いの強さも、物理的なカロリーの前には無力だった。
黒い集合体は崩れ落ち、ただの灰へと変わっていく。
数分後。
そこには真っ黒い炭の山だけが残っていた。
風が吹くと、白い灰が舞い上がる。
雪のように、静かに降り積もる死の灰。
「……ふぅ。暑かった。サウナより汗かいたわ」
裂が額の汗を拭う。
コートの裾が少し焦げている。顔には煤がついていた。
メイクが少し崩れているのを気にしている。
「……放火ですよ、口元さん。山火事になったらどうするんですか。消防法違反で捕まりますよ」
九条が消火器(パトカーに積んであった)を持って駆け寄る。
「野焼きよ。害虫駆除。ちゃんと鎮火したからいいでしょ。自然に還るわよ」
彼女は焦げたコートを気にしながら言った。
「あーあ、帰ったらトリートメントしなきゃ。熱で髪がパサパサになっちゃった。キューティクルが死んだわ。私の美髪が台無しよ」
自分の髪を気にする彼女。
その足元には、数千体の人形の「墓標」があったが、彼女は振り返りもしなかった。
彼女にとって、彼らはもう「終わった物語」なのだ。
……ただ、帰り道。
「ちゃんと供養してあげなさいよ。役所に連絡して、近くの寺に頼みなさい。燃えカスでも成仏はできるから」
裂が小声で言った。九条以外には聞こえないくらいの声で。
優しさを見せたくないのは、彼女なりの美学なのだろう。
最強の怪異にとって、数は脅威ではない。
日々のメンテナンス不足こそが、彼女にとっての最大の敵なのだ。




