9-2 爪痕
病室のガラス窓からは、いつものガヤガヤが聞こえてくる時間帯━
和真は相変わらず白いベッドの上にいる。
リクライニングで上半身を起こし、読書をしていた。
まだ身体に痛みが多少残っているものの、日常生活を送ることができるくらいには回復している。クリストフ曰く、「東条の自然治癒力は平均を凌駕している。これなら明日には退院できるだろう」と。ちなみにユリィも明日に退院が決まっているらしい。
━早くユリィに会いたいな。教室に行きたいな。
明日退院できたとしても3日の謹慎期間がある。ユリィと会えるのはどんなに早くても土曜日だろう。
スマートフォンを確認すると、月曜日の16時35分。メッセージを受信した旨の通知が画面に表示されていた。
秋野紅葉からだった。
「秋野先輩?」
何かあったのかと思いつつ、チャットアプリを開き、紅葉の名前をタップ。
送られてきた文面は、以下の通りだった。
【ミーティングのお知らせ】
5月31日(土) 10時より、理事棟の会議室Aでミーティングを行います。
①魔法関係組織および暁星学院の社会的地位について
②山梨の医薬品工場の正体と某プロジェクト
③ユリィ・フロストについて
以上の内容について、共有・議論する会です。
PS.
和真君の大好きなユリィにやっと会えるから楽しみにしててね♪
「……」
一通り文章を読み上げた和真は、一旦深呼吸した。5秒かけて息を吸い、同じくらい息を吐いた。
最後の一文を読んだ瞬間、心臓が高鳴ったのだ。
和真にとって、ユリィと会えるという内容が最重要であることは違いない。しかし同時に、学院の動向に対して無関係ではいられない。もとより覚悟の上だが。
━ユリィと、会える……触れたい……手を繋ぎたい……。
「━っていかんいかん!ユリィの答えを聞いてないのに欲を押し付けちゃダメだダメだ!」
慌ててぶんぶん首を振る。頬が熱い気がする。
━それに、遊びじゃないんだ、これは。
自身の欲を振り払うように言い聞かせる。
国武院での出来事。
ニュースで知った情報。
政府の思惑。
魔法の社会的立場。
ユリィの出自と家族。
極光魔法。
これらの点が全て、線で繋がるのかもしれない。
知らなければいけない、ユリィと一緒に歩むと決めたのなら。
和真はしばらくメールの文面を何周も目で追いかけた。眼球を左右交互に繰り返し動かした。
そして一旦、再び深呼吸。
スマートフォンを枕元に置き、読書を再開した。読んでいる本は、入院中に兼孝から借りたものである。哲学的な内容で、「人類のあり方」について、大真面目に理想論を掲げている。そしてその理想論に近づくためのプロセスについて、机上の空論をつらつらと高らかに主張している。
兼孝の意図━なぜ兼孝がこれを薦めたのか、和真には全く見当がつかなかった。
一文一文を丁寧に咀嚼していると、扉が開く音がした。程なくしてカーテンから現れたのは、女子生徒━
西山遥。
和真は西山に気づくと、少し身構えた。
「西山さん?どうしたの、何か用かな?」
一悶着あった相手なので、かなり気まずい。
それもあるが、何やら様子がおかしい。
普段は手入れされている栗色の髪が整っていない。目には生気が見られない。
━なんか、嫌な予感がする……。
西山はゆっくりと、和真のいるベッドに近づく。
「ねえ和真君、どうしたら私と付き合ってくれるの?」
西山はようやく口を開いた。
「え?」
訳もわからず、そんな声しか出なかった。
靴の音が部屋に響くごとに気温が下がる感覚。和真の呼吸は次第に浅くなる。
━……!逃げなきゃ━
そう思って身体をベッドから離れようとしたが、遅かった。
立ち上がりを支えるための右手を、西山にガシッと掴まれていた。
「ねえ和真君、私、どうしたらいい?」
今にも泣きそうな消え入る声で、西山は訊ねた。
和真は西山の手を振り解こうとするが━
━まだ身体が万全じゃないせいで力が出ない、それに、なんか西山さんの力が強い……!
日常生活に支障をきたさないと言っても、最大パフォーマンスを発揮できるわけではない。
「逃げないで、和真君。《エンハンスド》で腕力を強化してるから」
「それならまずその手を離してほしいな」
和真は恐怖を押し殺しつつ、西山を説得する。
西山はベッドに乗り上がる。馬乗りになり、和真の左手を掴んだ。もう逃げる事はできない。
背中にゾクッと冷たいものが走る。
「な、何をするの、やめてよ西山さん!」
「和真君、言ったよね?『好きな人がいるから、向き合えない』って。じゃあ━」
身体に柔らかいものが当たる。
「ひっ……!」
和真の顔に、西山の顔が近づく。シャンプーと汗の混じった香ばしい匂いが鼻を突く。心臓の鼓動が鮮明に聞こえる。
「好きな人がいなかったら、私に向き合ってくれるよね?」
文字通り目の鼻の先の西山が囁いた。お互いの鼻が当たりそうなほどの至近距離。
「それはどういう意味━」
和真が言い切る前に、口を塞がれた。
和真は咄嗟に目を閉じた。唇が、何か柔らかいものに当たっている。口の中に西山の呼気が入ってくる。
━だめ、何も、考えられない……!
一瞬、何が起こっているか、理解できなかった。
和真は意を決して目を開いた。
目を閉じた西山。
生まれて初めての接吻。
時々ザラザラした何かが唇を撫で回してくる。
永遠に続くような感覚。
西山は気が済んだのか、顔を離した。その表情は悦楽に浸っていた。
「どうだった?和真君?」
西山の問いに、和真は何も答えられなかった。
気付けば、頬に涙が伝っていた。
「西山さん、なんで……」
和真は涙声を絞り出した。
「……どうして、泣くの?」
西山も涙声で訊ねた。
「ここまでやっても、受け入れてくれないの?」
西山はショックのあまり、掴んでいた和真の手を離した。
「やっぱり、あの女がいけないんだ……」
そう言い残し、ベッドから降りた。
西山はまっすぐ病室から出て行った。
「あの女」という憎しみのこもった言い方━
来た時とは打って変わって、はっきりと、迷いのない足取り━
━ユリィが、危ない!
しかし、分かっていても、どうすればいいか、全く分からない。
『何かあったら枕元のボタンを押したまえ』
クリストフの言葉を思い出し、枕元のボタンを押した。
『どうした、東条?』
数回の発信音。しばらくすると、無線からクリストフの声。
和真はどうにか事の経緯を話そうとするが━
「ユリィが、ユリィが!」
『どうした、落ち着け。フロスト嬢がどうした━……わかった、すぐに向かう!』




