ゲンダイニホン
昔、ある少年は、母から繰り返し同じおとぎ話を聞かされていた。
「ソリノルクニルハリュリタルズトラカル」
――その国には、豊かな自然があるのだとか。
「ソリノルクラニリハリャリクルステラモルミリナルヤトラカル」
――その国では、幾度となく厄災が起ころうとも、人々が力を合わせて生きているのだとか。
「ソリノルクラニリハルマリフルグクルテルミリシャタトラカル」
――その国は、魔法を持たずとも、未知なる技術によって発展しているのだとか。
その国に関する噂は、確かに聞いたことがあった。ただ、そんなものはただの幻想。母が幼い我が子を喜ばせるために作った、おとぎ話の中だけの国。そう思っていた。
しかし、幻想は時として、現実よりも確かな姿で目の前に現れる。
────────────────────────
ここは皆さんご存じ、地球。そして、ここは太平洋と日本海に挟まれた東洋の島国・日本。
この日、その日本で、一つの命が産声を上げようとしていた。
「元気な男の子が生まれましたよ!」
目覚めて最初に聞いた言葉が、それだった。もっとも、そのときの俺には、何を言われているのかまったく理解できなかった。聞いたことのない言語だった。誰かが声を発している。そこに意味がある。その程度のことは分かる。だが、その意味を読み取ることができない。
目を開けようとした。しかし、視界は白くぼやけ、周囲の様子をうまく捉えられない。光がまぶしい。身体が重い。いや、重いというよりも、思ったとおりに動かせない。首を持ち上げようとしても、まるで力が入らなかった。
何だ、これは。そもそも、ここはどこだ。
目覚めた場所にも、まったく見覚えがない。白く無機質な空間だった。床も壁も奇妙なほど清潔で、周囲には用途の分からない道具がいくつも置かれている。人間も大勢いた。だが、その全員が見慣れない服で身体を覆い、口元まで布で隠していた。
何かの儀式だろうか。それとも、俺は何者かに捕らえられたのか。
その中で、ただ一人。少し離れた場所に横たわる女性だけが、こちらを見て穏やかに笑っていた。疲れ切った様子ではある。額には汗が浮かび、呼吸も乱れている。それでも彼女は、俺を見ると涙を流しながら笑った。
誰だ、この女は。ここはどこだ。こいつらは、俺に何をするつもりだ。
頭の中で状況を整理しようとした、そのときだった。突然、何者かに身体をつかまれた。抵抗しようとした。だが、腕を振り払うどころか、指一本まともに動かせない。そのまま持ち上げられ、透明な箱のようなものへ寝かされた。身体に触れられる。冷たい何かを当てられ、細いものを取り付けられた。
何をする。やめろ。
そう叫んだつもりだった。
「オギャー! オギャー!」
実際に口から出たのは、甲高く情けない泣き声だった。自分自身が一番驚いた。
何だ、今の声は。
もう一度、言葉を発しようとする。
「お、ぎゃ……あぁ……!」
駄目だ。舌が動かない。喉も思いどおりにならない。声らしい声すら出せない。
しばらく身体を調べられた後、俺は透明な箱から出され、先ほどの女性のそばへ戻された。そこで偶然、近くに置かれていた金属製の道具に、自分の姿らしきものが映り込んだ。
小さな頭。丸い頬。短い手足。柔らかそうな、頼りない身体。
そこに映っていたのは、どう見ても赤ん坊だった。
一瞬、別の何かが映っている可能性も考えた。しかし、周囲にいる人間たちも同じ面に映っている。俺が動けば、映っている赤ん坊もわずかに動いた。
間違いない。これは、俺だ。
どうやら俺は、赤ん坊として生まれ変わったらしい。その事実は理解できた。理解はした。だが、受け入れたわけではない。
なぜ俺が赤ん坊になっている。そもそも、赤ん坊になる前の俺は何者だった。
記憶を探る。だが、何も出てこない。
自分の名前。家族の顔。暮らしていた場所。何をして生きていたのか。
何一つとして思い出せなかった。ただ、前世における教養だけは残っている。過去の出来事だけが、きれいに抜け落ちている。まるで、誰かが俺という人間から、経験だけを意図的に切り取ったかのように。
俺は、先ほどからこちらを見つめている女性に尋ねた。
「コリコルヒコルデロリゼルナフラカル」
――ここはどこで、俺はなぜここにいるのでしょうか。
そう言ったつもりだった。だが、この身体では発音すらまともにできない。実際に出たのは、
「あぅ……うぁ……」
という意味不明な声だった。
女性は目を見開いた。そしてすぐに、涙をこぼしながら俺を抱き上げた。
「生まれてきてくれて、ありがとう……!」
やはり、言葉の意味は分からない。だが、その声音に込められた感情だけは伝わってきた。女性は俺に頬ずりすると、壊れ物に触れるように、何度も優しく頭を撫でた。
妙な感覚だった。俺はこの女性を知らない。彼女の名前も、俺との関係も分からない。それなのに、その腕の中にいると、不思議と安心した。
少なくとも、ここで使われている言語は、俺の知るものとはまったく違うらしい。自分が以前暮らしていた国とは、遠く離れた異国なのだろうか。
そう考えていたとき、廊下の方から慌ただしい足音が聞こえた。扉が勢いよく開く。一人の男性が、部屋の中へ飛び込んできた。
「美穂! やっと生まれたのか!」
男は汗だくで、肩を大きく上下させていた。ここまで走ってきたのだろう。しかし、息を整えることもなく、一直線にこちらへ近づいてきた。
顔が近い。あまりにも近すぎる。こちらをのぞき込み、気味が悪いほど口元を緩ませている。率直に言って、不快だった。
そこで俺は、この身体に許された数少ない抵抗手段を使うことにした。
赤ん坊最強の技「泣き叫ぶ」。
「オギャー! オギャー!」
全力で泣き叫ぶ。男は驚いて動きを止めた。
成功した。
そう思ったのも束の間、今度は男の目から涙があふれ始めた。
なぜお前まで泣く。この男にはプライドというものがないのだろうか。正気を疑わざるを得ない。
周囲の反応を見る限り、どうやらこの男と、俺を抱いている女性が、今の俺の両親らしい。
見知らぬ国。意味の分からん言葉。あるはずなのに、なぜかない記憶。そして、距離感のおかしい父親。
これはもう、泣くしかない。
「オギャー! オギャー!」
俺の二度目らしい人生は、こうして始まった。
────────────────────────
それから数日後。俺は初めて、あの白い建物の外へ連れ出された。
その瞬間、目の前に広がった光景に、俺は言葉を失った。
見たことのないものが辺りを照らし、見たことのない服を人々が身にまとい、見たことのない材質が地面を埋め尽くし、見たことのないものが地を駆けていた。
そして、何よりもうるさい。鉄の箱が低い音を響かせる。人々の声が四方から飛び交う。どこからともなく音楽が流れ、突然、甲高い音まで鳴り響く。あまりにも多くの音が、休むことなく押し寄せてきた。
とても耐えられそうにない。恐怖すら感じ始めた、そのときだった。
俺を抱いていた母親が、優しく頭を撫でてくれた。ゆっくりと、何度も。その手のぬくもりに触れると、なぜか呼吸が落ち着いていった。
母は強し。どうやら、それはこの国でも変わらないらしい。何もかもに違和感しかない状況で、彼女だけが俺に安心を与えてくれた。
一方、父親はというと、隣から俺の顔をずっと見つめていた。やはり気持ちが悪い。
そう思っていたはずなのだが、母親の腕の中がよほど心地よかったらしい。気づけば俺は眠っていた。
次に目を覚ましたときには、これから我が家になるらしい場所へ到着していた。窓の外はすでに暗くなっている。
ぼんやりと目を開ける。すると、視界いっぱいに父親の顔が現れた。
近い。またお前か。
どうやら、俺を脅かして遊ぶつもりだったらしい。実にくだらない。外で見た異様な光景に比べれば、こんなものは驚くに値しない。
しかし、ここで何の反応も示さなければ、この男は今後も同じことを繰り返すかもしれない。それは困る。
俺は再び、赤ん坊にのみ許された最強の技「泣き叫ぶ」を発動した。
「オギャー! オギャー!」
母親がすぐに駆けつけた。父親はその場で、たっぷりと叱られた。何を言われているのかは分からない。だが、母親の険しい表情と、父親が小さくなっている様子を見れば、状況は簡単に理解できた。
実に滑稽だった。愉快な見世物を眺めているうちに、思わず笑い声が漏れた。
「あぅ、あはっ」
しかし、それが良くなかった。母親が俺の顔を見て笑い始める。父親もつられるように笑った。
せっかくの見世物が終わってしまった。もう少し眺めていたかったのに。
家の中も、俺の中に残る「一般的な家」の知識とは、大きく異なっていた。見た目そのものは質素で、どこか落ち着いた雰囲気がある。しかし、置かれている物は、用途の分からないものばかりだった。
天井には、まぶしい何か。壁際には、両親の絵らしきものや、よく分からん紙がたくさんあった。
どこかで、このような国の話を聞いたことがある。
一瞬、そんな感覚が頭をよぎった。しかし、何を聞いたのか。誰から聞いたのか。その記憶へ手を伸ばそうとすると、霧をつかむように、あるはずの記憶が指の間からこぼれ落ちていく。
気のせいだろうか。
分からない。
ここはどこなのか。この国は何なのか。俺は、いったい誰なのか。
分からないことばかりだった。
ただ、一つだけ確かなことがある。
ここは、俺が知っている世界ではない。
そして俺は、この奇妙な国で、赤ん坊として生きていかなければならないらしい。




