3
時は宋。
清河県の西門邸の門前では、本来ならば英雄譚が始まるはずであった。
兄
武大郎
を毒殺された弟――
武松
が仇討ちに来る。
正義と暴力。
怒りと復讐。
義と血。
だが。
現実に起きたのは――
完全なる私刑であった。
⸻
「のだのだのだっ♡」
鈍い音が響く。
ぼこっ
がすっ
めきっ
使用人たちは最初、見ていた。
次に、固まった。
最後に――
視線を逸らした。
なぜなら。
西門慶レイ(193cm)が殴っていたからである。
しかも楽しそうに。
「のだっ♡」
拳が落ちる。
「のだっ♡」
膝が入る。
「のだっ♡」
蹴りが刺さる。
武松は確かに強かった。
だが。
相手は違った。
ただの豪商ではない。
ただの遊蕩児でもない。
ただの変態でもない。
賄賂・資産・私兵・役人・女・地縁・血縁・豪族関係すべてを握っている地方支配者
それが西門慶レイである。
「のだぁぁぁっ♡」
拳がもう一度落ちた。
骨が鳴った。
使用人が震えながら囁く。
「……まだやるのか」
番頭が答える。
「やる」
そして実際にやった。
さらにやった。
さらにさらにやった。
ついには下男が顔を覆った。
「旦那様……」
レイは笑顔で言った。
「のだ?」
そしてもう一発。
どすっ
武松は動かなくなった。
沈黙。
庭の池の鯉が跳ねた。
「うむ」
レイは満足した。
「良い運動だったのだぁ」
最低である。
⸻
「運ぶのだぁ」
使用人たちは従った。
担ぐ。
引きずる。
血が石畳に線を引く。
誰も止めない。
止められない。
止める理由もない。
なぜなら。
止める側が全員、西門家から金を受け取っているからである。
役所に着いた。
門が開く。
役人が出てくる。
そして――
表情が変わる。
「あっ」
西門慶レイであった。
態度が変わる。
背筋が伸びる。
笑顔になる。
「西門大官人!」
レイは武松を指差した。
「のだぁあああああ!!」
元気いっぱいである。
「ご主人様ぁ!聞いてなのだぁ!」
役人は頷いた。
「はいはい」
「こいつ官殺ししてたのだぁ!」
役人は頷いた。
「そうですか」
「おまけに兄殺しという最低っぷりなのだぁ!」
役人は頷いた。
「それはいけませんね」
事実確認は一切ない。
証拠もない。
証人もない。
必要もない。
なぜなら。
西門家の贈り物があるからである。
絹。
酒。
香。
薬材。
金。
そして女。
地方役人に必要なものがすべて供給されている。
逆らう理由がない。
逆らう制度もない。
逆らう未来もない。
レイはさらに続けた。
「さ!」
手を叩く。
「好きなように刑罰を決めて決めてなのだぁ!」
役人が咳払いする。
形式だけ整える。
「証人は?」
レイが胸を張る。
「吾輩なのだっ♡」
終了である。
完全終了である。
⸻
役所の書吏が小声で言った。
「……兄殺し?」
別の書吏が答えた。
「武大郎の件だろ」
「それって」
「西門家だろ」
沈黙。
そして視線が交差する。
次の瞬間。
何も言わなかった。
紙に書いた。
武松、兄殺しの罪あり
歴史が改ざんされた瞬間であった。
⸻
その間。
レイは退屈していた。
袖をほじる。
確認する。
品質は普通。
「のだ」
壁に擦り付けた。
そして言った。
「公平なのだぁ」
役人が頷く。
「公平です」
書吏が頷く。
「公平です」
門番が頷く。
「公平です」
全員が頷いた。
誰一人信じていない。
だが全員が頷いた。
レイは満足した。
そして微笑んだ。
「……不公平など……ありませんのだっ♡」
清河県の空は青かった。
市場は動いていた。
舟は川を進み。
商人は計算し。
女たちは洗濯し。
子供は遊び。
そしてそのすぐ隣で。
一人の男の運命が
完全に
静かに
そして取り返しのつかない形で
書き換えられていたのであった。




