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清流の蛇姫  作者: 海山 紺
第五章
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第34話 恋慕の情、戦火に消ゆ

 彼にしては珍しく、真面目に叱責するような沈着とした声音だった。


「……伊織」

「さっきゆったはずやで。この戦いに負けることは許さへんって」


 早く立って。


 副長たる伊織の厳命にはっとして、桜夜は悲涙を拭いすぐに体勢を整えた。伊織も〈黒翼〉を交差させて受け止めた〈緑爪〉を押し返し、桜夜の隣に立つ。


「ほう。紅葉を討ったか。他の幹部たちもみな血の池に伏すとは」

「仲間いっぱい殺られてるっていうのに、ずいぶん余裕そうやな」

「俺と〈緑爪〉、それからあの黒龍がいればお前らを一掃できる」

「できるもんならやってみい!」


 伊織が地を蹴ると同時に、桜夜も牙を剥こうとする。だが、悶え苦しむ咆哮をあげながら蓮夜は空を翔け、業火を吐く。罪業の火炎は沈丁花の兵士と仲間たちを呑みこみ、瞬く間に灰燼と化した。


「っ――!」


 あまりにも重い罪業を蓮夜にも背負わせてしまった。これ以上、彼を苦しめるわけにはいかない。


 ――早く蓮夜を止めないと!


 だが伊織も放っておくわけには。

 彼のほうを振り返ると、〈木〉と〈風〉の神威がぶつかり合い、鎬を削っていた。


「ここはいいから、桜夜ちゃんは蓮夜くん止めに行って! ボクのことは気にせんでいい!」

「だがっ――」

「この俺を相手に無駄口を叩ける余裕があるとはな。お前の相手は後でしてやる」


 嵐慶の正確かつ重い太刀筋が〈黒翼〉を通じて全身を震わせ、体勢を崩してしまう。嵐慶はその隙を見逃さずに神技を放った。


「〈黄茅白葦(こうぼうはくい)〉」


 龍の爪牙の如き尖鋭な茅と葦が無数に飛び散り、伊織の全身を穿つ。いたるところで鮮血が繁吹き、伊織は頽れた。


「伊織!」

「他人の心配をしている場合か」


 瞬きの間に嵐慶は桜夜の前に接近し、〈緑爪〉を肉薄させる。辛うじて一太刀を受け止め、桜夜は歯を食いしばった。


「〈滝つ瀬・鯉遊泳〉」


 急流に乗って一度嵐慶から距離を取り、縦横無尽に〈水牙〉を振り薙ぐ。


「〈打水〉!」

「〈荊棘叢裏(けいきょくそうり)〉」


 嵐慶が〈緑爪〉を地面に突き刺すと、穂先を起点として無数の荊が生えて盾を成す。

 群集した荊に衝突するや否や〈打水〉はあっさりと散開した。そのうえ鞭のように荊がしなり出し、桜夜を襲い始めた。


 一本断ち斬っても、また次の荊が迫りくる。すべての鞭を回避することはできず、白皙の肌はところどころ赤く染まった。


「うっ」


 そのうえ肉を抉るような凄まじい痛みが襲い、深く残り続けた。だくだくと生気が抜けていくにもかかわらず、全身が鉛のように重くなっていく。


 ――これが〈緑爪〉の力……。


 嵐慶はもともと剣術に秀でていたが、青龍の分身である〈緑爪〉が彼を選んだことにより、その能力はさらに増大し、絶対的なものとなった。

 時世の運に見放された代わりに、他者を圧倒させる心身の天賦を与えられた男。それが花川嵐慶という男だった。


「いい加減早くその首を斬らせろ」


 生物のようにゆらゆらと蠢く荊棘を背後に、嵐慶は桜夜へと近づく。そこで漆黒の翼が横切って翠緑の爪を防いだ。


「流石は剣聖の末裔。まだこの速さで動けるか」

「末裔じゃない。現在進行形で剣聖や」


 伊織が援護してくれている間に、桜夜は奥義を解放する体勢を整える。


 ――蛇女の時間もそろそろ終わる。


 自身の力が半減される前に、嵐慶と蓮夜との戦いを終わらせなければ。


 決着をつけようとした時、総毛立つ龍の絶乎が背を打った。咄嗟に振り返ると、業火の息吹が寸前まで迫っていた。

 辛うじてその息吹を避け、桜夜は嵐慶と対峙している伊織のほうへ視線を投げる。


「伊織!」


 呼声が届き、伊織は蓮夜の罪火から距離をとった。嵐慶もまた綽然とした笑みを保ちつつ伊織とは対となる方向へ後退する。


「――――――――ッ‼」


 悶絶躄地(もんぜつびゃくじ)の痛烈な叫びが佳弥と増美の心身を打擲した。

 両者は同時に顔を上げ、のたうち回るように空を翔ける黒龍を見据える。


「蓮夜くん……!」


 どうにかして彼を苦難から助け出してやりたい。だが、眼前の大敵を見過ごすこともできない。


 ――どうしたら……。


 増美が歯噛みして懊悩したのも束の間、ふと蓮夜の血眼が佳弥一人をとらえたのがわかった。佳弥もまた寂寥感にみちた面様で蓮夜を見つめ返す。

 憎悪と悲哀の眼差しがかち合った瞬間、蓮夜はさらに烈々たる咆哮を轟かせて佳弥へと一直線に突進した。


「蓮夜くん!」


 止めようとしてももう遅い。いや、もはや止める手立てすらなかった。

 赤黒の牙と爪が可憐な射手に迫る。しかし、佳弥は逃げることも迎撃することもせず、ただ彼の激情を受け入れんばかりにその場に留まった。


「蓮夜くん。ごめんね」



 友達になりたいって言ってくれて、嬉しかった。



 静かに頬を伝った一筋の雫とともに、あまりにも鮮明で目を焼くような赤が弾けた。

 鉤爪は少女の腹を裂き、顎は右腕を喰いちぎった。佳弥の華奢な矮躯は見るも無惨な形になり、その場で崩れた。


 淡い恋情が業火に焼かれて灰燼と化す。増美のみならず桜夜と伊織も酷薄な光景を目の当たりにし、ますますどうしようもない虚脱感に見舞われた。


「好いた人間に裏切られ、その絶望に怒り狂い、かの者を殺める。やはり邪神の血は争えん」


 幹部たちが総じて敗北したにもかかわらず、依然として嵐慶は沈着とした姿勢を崩さない。


「そして、怒りと憎しみの業火に焼かれて己も死ぬ」


 この世で最も残忍な男は嘲笑う。


「何と滑稽で哀れな最期か」


 嵐慶の一瞥が己の奥底に眠る瞋恚を叩き起こし、気づけば桜夜は〈懸河〉で急接近していた。

〈水牙〉が鍛えられた肉体に噛みつかんとする。殺生の躊躇いなどなかった。

 ただただこの男が憎い。亡き者にしなければ。そんな義務感が迷いを打ち払い、無我夢中で刀を振るった。


 だが、嵐慶はその猛攻をすべていなし、負けじと神威を放つ。


「〈松柏之寿(しょうはくのじゅ)〉」


 嵐慶が地面を抉り斬るかのように逆袈裟すると、神力を帯びた斬撃に沿って壮麗な松と柏の木々が林立した。

 嵐慶が一閃するたびに雄々しい松柏が翠緑の威光を放つ。やがて松毬が落ちては駒のように回転しながら桜夜を襲う。また柏葉も散って手裏剣のように葉先を尖らせ、松毬の手助けに入った。


「〈早瀬〉!」


 捨て身の覚悟で松毬と柏葉の乱舞を突っ切り、松柏の木々を斬り倒していく。


「〈黒風〉!」


 伊織もまた桜夜の援護に徹し、広範囲の放出神技を打破した。

 視界が開けたところで、桜夜の心臓が強く波打った。


「くっ……!」


 暗黒から水縹へと移り変わり、鱗も剥がれ落ちていく。軽く感じていた体も蛇女が解けたことと負傷の影響でひどく重かった。


 ――よりによってこんな時に……!


 だが、刀を振るう手を止めるわけにはいかない。


「〈懸河〉!」


 重苦しい体躯を叱咤し、今の自分が発揮できる最速の一刀を閃かせる。


「さっきより遅くなっているぞ」


 だが、人の形を模したもう一人の化け物は軽々と一閃を受け止めた。


「見苦しい。〈龍驤ノ木(りゅうじょうのき)〉」

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