第29話 清流の蛇姫
蛇女の鋭爪を受け流し、伊織は〈銀旋風〉を繰り出す。
数多の裂傷を受けながらも、蛇女は〈銀旋風〉のなかから水弾を撃った。
「〈風切羽〉!」
苦無の如き漆黒の羽が水弾を穿ち、霧雨が降る。
伊織は〈無双〉の構えをとり、蛇女に切っ先を向けた。が、伊織の予想に反して、蛇女の艶美な双眸が見開かれる。
「ア……」
両膝をついて頽れる蛇女に伊織は驚愕した。
「え、まだ半刻経ってないはずやけど」
おそるおそる蛇女に近づき、伏せられた顔を覗きこむ。
「もしかして、桜夜ちゃん邪神やっつけた?」
わずかな沈黙の後、鎌首をもたげるように蛇女が顔を持ち上げる。
伊織は身構えるが、すぐに拍子抜けして唖然とした。
「伊織」
そこには濃藍の静謐な光をたたえた少女の姿があった。
「桜夜ちゃん……!」
「すまない。手間をかけた」
依然として瞳孔は細長く、蛇鱗もはっきりと残っている。うねる黒髪も健在で、蛇女としての姿形は保たれたままだが、眼前にいるのは悍ましい妖姫ではない。間違いなく清水桜夜という清冽な美しさをもつ少女だった。
伊織は喜色を浮かべて言う。
「邪神に勝ったんやな」
「ああ、やっとだ」
「じゃあ、これからはずっと自我を保てるってこと?」
「そうだと思う。お前のおかげだ」
差し伸べられた伊織の手を握り、桜夜は立ち上がる。
「改めて礼を言う。ありがとう、伊織」
柔和に細められた碧瞳と緩やかな弧を描いた花唇。出会ったなかで最も美しく優しい微笑に惹きつけられる。漆黒の烏は暗夜に咲き誇る桜花に見蕩れる。
ああ、なんて彼女は凛々しく、これほどまでに美しいのだろう。耽美な物事に一切感心を抱かなかったというのに、今はただ、己と向き合っている一人の少女に心奪われた。
「伊織?」
桜夜が首を傾げたことで、伊織ははっとする。
「いや、何でもない」
かぶりを振って、伊織は朗笑する。
「どういたしまして」
桜夜と伊織が微笑み合ったところで、両者はすぐに表情を引き締めた。
「増美さんは」
「大丈夫。寝てるだけみたい」
伊織は昏々と眠っている増美を抱えた。
状況としてはかなり深刻だ。すべて敵の思うままに事が運んでしまっている。蓮夜さえも彼らの手に渡ってしまった。
「額ちゃんとマスは無事やろか」
桜夜とともに部屋を後にしようと思ったその時、複数の足音がして伊織は身を強張らせた。代わりに桜夜が〈水牙〉を創成し、彼を守る体勢になる。
桜夜たちの前に現れたのは複数の親兵たちと、伊織の親兵服よりも一際豪奢なそれに身を包んだ大柄な男性だった。
「平さん……!」
「伊織、無事だったか」
桜夜は親兵局局長の千手平介と初めて邂逅した。味方だと知り、桜夜は〈水牙〉を下ろした。だが、まだ佳弥のような間者が紛れているかもしれないと、〈水牙〉は解かないでおく。
焦げ茶の刈り上げられた頭髪に隆々とした大柄な体躯。整えられた無精髭。その肩書だけあって、彼がその場に佇んでいるだけで空気が張りつめるような気迫を放っていた。
「桜夜ちゃん、この人が局長の千手平介さん」
伊織の紹介を受け、桜夜は軽く会釈をする。
「彼女が桜夜さんか。だが……」
「大丈夫。今さっき桜夜ちゃんが自分のなかの邪神を倒したんで」
「そうか。壁を乗り越えられたんだな」
わずかに頬を緩めてから、平介は伊織の腕のなかにいる増美に目をやる。
「増美も眠っているだけか」
「はい。多分、佳弥ちゃんの〈細雪〉をくらったんやと思います。すいません。蓮夜くんと〈緑爪〉を奴らに」
「ああ、わかっている。いま第二、第四部隊が追跡している。お前たちはひとまず休め」
「額ちゃんとマスは……」
平介は眉間に深い皺を刻み、重々しく彼女たちの状況を告げた。
酷薄な現実に、伊織は鈍器で頭を殴られたような錯覚がした。
「え……」
魂が抜けたかのように、伊織はしばらくその場から動くことができなかった。




