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清流の蛇姫  作者: 海山 紺
第四章
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第23話 内に秘めたる思い

『内通者のことなんやけど、ボクは佳弥ちゃんやと思ってる』

『は?』


 突拍子もない発言に額は不覚にも間の抜けた声を漏らした。だが瞬時に青筋を立てて地を()うような低声を発する。


『よくもまあぬけぬけとそのような戯言を吐けますね』

『ボクでもちゃんと冗談と本気の分別くらい弁えてるよ』


 滅多に見せない真顔で言う同僚に、額は動揺の色を滲ませた。


『……佳弥が沈丁花と手を組んでいる? そんなこと、あるはずがない』

『じゃあ聞くけど、額ちゃんは内通者に目星ついてんの?』

『それは……』


 言い淀む額を諭すように、伊織は滔々と続けた。


『これはあくまでボクの憶測に過ぎん。現に佳弥ちゃんが内通者っていう証拠もないし。でも、あの子以外に沈丁花側に寝返る人間が他に思いつかへん』

『言い方を変えれば、佳弥にはこちらを裏切る理由があるということですか』

『そう。ていうか、額ちゃんが一番よくわかってるんとちゃう? あの子が親兵局――皇族側に立つボクらに背を向けて将軍側に走った大義名分が』


 伊織の指摘はまるで矢のように額の胸に深く突き刺さった。


『額ちゃん。しばらくは佳弥ちゃんをよく見といたほうがいい。ボクと同じように、佳弥ちゃんもずっと蓮夜くんの傍におるわけとちゃうから。ちょっとでも蓮夜くんから離れる時があればすぐ後つけれるようにしといて』


 裏で沈丁花側とやり取りしてるかもしれんから。



「……やはり、宗芭(しゅうば)様の一件が原因ですか」


 額の重々しい問いかけに、佳弥は肯定ともとれる沈黙を貫いた。

 宗芭は寧子の一つ年下の弟で第三皇子だ。兄弟のなかでもとりわけ好色家であることで有名で、気に入った公家の令嬢たちに手あたり次第声をかけては関係を迫る不貞な人物だった。佳弥もまた宗芭の目に留まった不憫な少女の一人だ。


四月(よつき)前に行われた寧子様の即位祝賀会。当時あなたはまだ親兵ではありませんでしたから、望月家の令嬢として出席していましたね。いま思えば、あれがあなたの人生を狂わせたきっかけだったのでしょう」


 祝賀会には二大側近家と三眷族、それから政財界の貴賓たちが列席した。当然、皇族もその尊顔を公に見せ、宗芭は天香桂花の少女に心奪われた。


 それからが佳弥にとっての悪夢の始まりだった。

 執拗に求婚されるたびに距離をおくようにしていたが、ある日、強引に皇宮へ連れ去られてしまった。果ては悪辣な皇子が彼女に破瓜(はか)の血と恐怖の涙を流させた。


「己の欲望を満たすことしか考えていない下衆が、輪国の頂点に立つ一族だなんて笑止千万」


 佳弥は凄絶な面差しで過去に深く刻まれた怨恨を吐く。そこに可憐で淑やかな少女の姿はなかった。


「あの男のせいで心は壊れ、わたしは実家に引き籠るようになりました。けれど、父は娘が皇族に見初められたことをいいことに、兎月家に取って代われるほどの家勢をつけようとわたしの輿入れを強引に推し進めた」


 凛とした清音が、禍々しさを(はら)んだ裂帛(れっぱく)の音へと変貌する。


「どいつもこいつも、わたしのことを都合のいい道具としか考えていない。だからわたしは家を出て嵐慶様たちを探し、仲間に加えてほしいと懇願しました」


 佳弥が行方をくらましていた期間は約一月。その間、宗芭は寧子から終身刑を言い渡され、地下牢に投獄、佳弥の父も当主の地位を剥奪され、佳弥の叔父が新たな当主となった。


「……あなたがひどく傷ついていた時に傍にいてあげられなかったことは、悔やんでも悔やみきれません。本当に申し訳なく思っています」


 額が一連の経緯を知ったのは、佳弥が失踪してから二日が経った時。当時から額は副長の業務に忙殺されており、佳弥とは一月に一度くらいしか顔を合わせていなかった。


 自身の与かり知らぬところで掌中の珠が傷つけられていたこと、そして誰かに(すが)ることすらできない孤独を味わわせてしまったことに深い悔恨を覚え、苛まれた。

 自責の念を抱えながらも、額は佳弥を必死に探し続けた。親兵局を離れ、佳弥の捜索に集中したが、彼女が輪西にある兎月本家を訪れるまで見つけられずにいた。


「本家に来たのも、私経由で親兵局に潜入するためだったのですね」

「そうです。でも――」


 一度言いかけた言葉を呑みこんで、佳弥は自嘲しながら本心を吐露した。


「額様に会いたいという気持ちもあったから……」


 額は目を見開き、息を呑んだ。

 額の生家にある広々とした弓道場で、一日に何百という矢を番えては弓弦を引いた。弓懸(ゆがけ)が擦り切れ、的もぼろぼろになって砕け散るまで。


 弓術や神器の扱いが上達していくたびに、敬愛する師はたくさん賞賛してくれた。それが嬉しくてたまらず、だからこそ佳弥は厳しい修練を乗り越えることができた。


 ああ、あの日々に戻りたい。

 もう一度、額と一緒に弓を引きたい。

 額に……会いたい。


「額様は何も持たないわたしにすべてを与えてくださった。わたしの心に彩りをもたらしてくれました。本当に感謝しています」

「佳弥……」

「だからこそ、わたしはあなた様に矢を向けたくはないのです」


 雪肌(せっき)の繊手がこちらへ差し伸べられる。


「額様。わたしと一緒に来てください」


 額は唇を引き結ぶ。


「嵐慶様は仕えるに値するお方です。少々、横暴なところもありますが、あの方に気に入られればそれなりに良い待遇が受けられます」

「佳弥……!」

「権力を振りかざすことしか能のない暗愚な連中とはわけが違います」

「確かに宗芭様があなたにしたことは決して許されるものではありません。ですが、皇家のすべてが悪ではない。少なくとも、この国を背負い、導いておられる寧子様は違うでしょう」

「そうですね。親兵局も、あのお方だけをお支えする至上の奉仕精神を持っていれば良かったのに。最初に神に選ばれた人間の血族というだけで、連中の矛と盾であらねばならない奴隷はもううんざりです」


 凄みをきかせるかの少女は、とても痛ましかった。


「あなた様のいるべき場所はここではない」


 だから、この箱庭から一緒に逃げましょう。


 最後に彼女は屈託のない笑みを浮かべて額の心を誘った。

 幼い頃から慕ってくれている彼女の、花が綻ぶような愛らしい微笑。だが、いつもと違うのは今にも泣きそうな哀愁が滲んでいることだった。


 佳弥の声にならない痛嘆がひしひしと伝わり、額は思わずその手を掴みとろうとした。しかし、己に残っていた理性が揺らいだ意思を押しとどめる。


「……私の居場所はここです」


 手を下ろし、自分に言い聞かせるように断言する。


「私が生涯お仕えすると誓ったお方を、互いの背を預け、切磋琢磨し合ってきた仲間たちを裏切り、見捨てるわけにはいきません。だからこそ――」


 額は弓袋から神器〈白足(はくそく)〉を取り出し、白亜の神弓を携える。そのまま弦を引くと同時に真白の矢が出現し、番えられた。


「弟子がこれ以上違えた道を歩まぬよう、師として責任をもってあなたを正道に戻す」


 敬慕する師に氷矢を向けられ、佳弥に残っていたわずかな希望は儚く散った。

 柔和で温かな笑みは冷徹とした瞋恚の闇に呑みこまれ、少女の敵愾心(てきがいしん)を突き動かす。


「残念です」


 佳弥もまた〈銀嘴〉を手中に収めた。


「額様なら、わたしの気持ちをわかってくれると……そう信じていたのに」




 結局わたしは、ずっと独りなんだ。




 小さな痛哭が森林に残響するや否や、佳弥は弓弦を強く打ち鳴らした。その瞬間、立つことすらままならないような猛吹雪が強襲する。

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