第22話 正体
蛇女の制御訓練が始まって一週間が経過した。
これまでに何度か邪神に立ち向かったがいまだ進展はなく、やはり意識を保つことはできなかった。
「あともう少しで倒せそうなのに……」
「うーん。こればっかりはボクもどう助言すればええかわからへんから、何ともゆえんわ」
蓮夜の部屋で彼の修練を見守りながら、桜夜と伊織は言葉を交える。いま佳弥は御不浄に出ており、代わりに桜夜たちが蓮夜の面倒を見ていた。
「姉ちゃん、見て!」
蓮夜の手には〈水牙〉と同質の短剣があった。凄まじい成長速度で神力操作を会得していく弟に姉は目を細める。その一方であの日から何も変わっていない自分自身が歯痒く、不甲斐なかった。惨めな思いが澱のように蓄積されていき、焦りばかりが募っていく。
――いつ沈丁花が攻めてきてもおかしくないというのに。
桜夜が拳を握りしめていると、ぽんと肩に柔らかい衝撃が走った。
「焦ったってしょうがないわ。思い詰めるぶんだけ余計に壁が高くなるだけやで」
「伊織」
「あともうちょっとって桜夜ちゃんも思ってるんやろ? 少なくとも、最初の頃より成長してるってことやん」
「そう、だろうか」
「そうそう。下ばっかり向いてんと、前向いて大きく息吸い。気分も明るなるから」
「…………」
「ん? どうしたん?」
「いや、お前にしては珍しくまともなことを言っているなと」
「桜夜ちゃん。これでもボク、キミの上司なんやけど。まあええわ。桜夜ちゃんの美しさに免じて許してあげる」
「何が許すだ」
すっかり見慣れた伊織の笑顔に呆れていると、彼は神妙な面差しになって言う。
「話変わるけど、邪神に弱点ってないん?」
「弱点?」
「桜夜ちゃんと邪神の力って拮抗してるんやろ。やから邪神の弱点とか意表を突くようなことを桜夜ちゃんが仕掛ければ勝ち目が見えてくるんとちゃうかなあって」
桜夜は思案顔になってこれまでの交戦を回顧した。
「ボクが桜夜ちゃんの立場やったら、まずは相手の特徴とか癖を把握するけどな。それさえ掴めれば、自然と弱点が見えてくるし」
伊織の助言をもとに邪神の動きを脳内で何度も再生させる。
桜夜が斬りかかる前に、邪神は必ずこちらへ猛進してきていた。その攻勢は最速の神技〈懸河〉を彷彿とさせる。
〈懸河〉は速度に特化した神技。相手が桜夜以上の速さを持たない限り、避けるのは不可能だ。もし、かわすことを諦めて真っ向から迎撃するとなれば、これもまた自分自身の剣速以上に素早く武器を振るう必要がある。
――〈懸河〉に勝る剣速……。
桜夜の脳裏にとある父の神技が閃いた。
「抜刀術……!」
「抜刀術?」
鸚鵡返しした伊織に桜夜は「ああ」と首肯する。
「戦いが始まると、邪神は必ず私に向かって突進してくる。開戦時だけじゃなく、そのあと何回も真っ直ぐこちらへ爪と牙を伸ばしてきた。その直進的で急激な動作は〈懸河〉とまったく同じだ」
「なるほど。やから抜刀術か。確かにあの剣術は一撃必殺。正面から向かってくる敵を最速で迎撃するからすぐに決着つけられる。でも、桜夜ちゃん抜刀術の心得とかあんの?」
「いや、父がやっていたのを何度か見たことがあるだけで、本格的には習っていない。見様見真似でしかやったことがないから、実戦では使わずにそのまま忘れてしまっていた」
初めてその神技を見た時、美しいと思った。
刹那の間に水刃が閃いては白群の飛沫が踊り散る。敵の身から弾けた血潮と清冽な水沫の対照が鮮やかで、酷薄な光景でありながらも当時は目を奪われたものだ。ああ、こんなにも静謐で美しい殺め方があるのかと。
かの神技は〈鯉跳〉。読んで字のごとく、水中にいる鯉が水面を弾かせては空を舞い、刹那の浮遊の後に入水する様子からそう呼ばれている。水中を鞘、跳ねる鯉を刃に見立てて風流な神技名になったのだと柳夜は教えてくれた。
「〈鯉跳〉を会得すれば、邪神を討つことができるかもしれない」
「その〈鯉跳〉っていうのが、お父さんがやってた抜刀術?」
桜夜が頷くのを見て、伊織は「ふむふむ」と顎に手を添える。
「じゃあまずは〈鯉跳〉ができるようにせなあかんな。試しに外出てやってみる?」
「そうだな」
桜夜は蓮夜に歩み寄り、佳弥が戻り次第、退室することを伝えた。
「そういえば佳弥ちゃん、えらい戻ってくるの遅いなあ」
伊織は目を眇め、神妙な声音で呟いては窓から垣間見える春陰の空を見上げた。
*****
親兵局を囲う鬱蒼とした森林。その最奥部にある岩壁を前に、凛とした佇まいの少女が立っていた。
眼前には寧子の神技によって創成された『ねじれ』。彼女の手元には主への書簡を括りつけた白亜の神矢があった。
書簡にはこれから計画を実行する旨が記載されており、合流でき次第、神技〈皆中ノ的〉で書簡を主の元に送り届けることになっている。
少女が『ねじれ』に手を伸ばそうとしたその時――
「佳弥」
突として聞き慣れた呼声が降りかかった。少女はおもむろに振り返る。
「額様」
「こんなところで何をしているのですか。あなたはいま任務中のはずですが」
弓袋を肩に下げた才色兼備の麗人が言う。自身の師匠にして姉のような存在でもある兎月額その人だ。
普段は謹厳実直で、彼女に見つめられるたびに背筋がぴんと伸びるような冷厳な面差しをしているが、今は輪をかけて険しく、他の親兵なら震え上がるような凄絶な表情を向けていた。
「申し訳ありません。御不浄に行って戻ろうとした際、親兵の一人がここへ向かっているのを目撃しまして。沈丁花に与している内通者のこともありますし、怪しいと思い後をつけたのです」
「わざわざ〈銀嘴〉を自分の部屋まで取りに行ってですか」
額の視線が佳弥の手元に寄せられた。彼女の愛器である弓型神器の〈銀嘴〉が清麗な美しさを放っている。
「ええ。万が一のことがあってはいけないと思い、〈銀嘴〉をとってすぐにこちらへ戻ったのですが、その者はどうやらすでに外界に出てしまっていたようで。わたしとしたことが、詰めが甘かったです」
「見え透いた嘘をつくのはやめなさい」
佳弥の陳状を突っぱねるように額はぴしゃりと言い放つ。
「本当は、あなたの仲間を手引きするためにここへ来たのでしょう」
額の指摘をもってしても、佳弥の天女のような微笑みが崩れることはなかった。
「出ていった親兵をわざわざ招き入れる必要なんか――」
「そういう意味ではありません」
あなたの本当の仲間は、沈丁花でしょう?
少し強い風が木々を揺らし、ざわざわと枝葉がざわめく。
佳弥の瞳から穏やかな光が消え、たおやかな笑みも吹きつけた春風によって攫われる。
「何をおっしゃっているのですか」
透き通った玲瓏な声色もいくぶんか低くなり、険しさが増す。その反面、これまで峻厳な顔つきを維持していた額が一抹の痛嘆を滲ませて言った。
「あなたが桜夜さんと蓮夜さんの情報を密告した沈丁花の間者。そうですね?」
「わたしが? ご冗談を。証拠はどこにあるというのです」
「先ほどの親兵一人が『ねじれ』から外へ通じたという事実を証明できないのがその証拠です。それに、手塩にかけて育てた弟子が敵からいったん目を離すなんていう愚行をするはずがありません。その神矢も、〈皆中ノ的〉を使って嵐慶たちに連絡をとばすつもりだったのでしょう」
〈皆中ノ的〉。神矢を必中させることができる神的。弓型神器の所有者であれば誰でも会得することができる初歩的な神技で、どんなところからでも神矢を放てば神的に当てることができる。磁石のようなものだ。額も遠征中などの時に連絡手段としてよく利用している。
佳弥の場合、あらかじめ嵐慶に〈皆中ノ的〉を渡し、連絡用の書簡を括りつけた神矢を放っていたのだろう。
「…………」
冷ややかな沈黙が垂れこめ、周囲の気温がわずかに下がったような錯覚がした。
いまだかつて眼前の少女の射殺すような眼差しを見たことがなかった。脳内を席巻するのは、幼い頃から『額様』と呼んで慕ってくれた笑顔の眩しい佳弥の姿。
「どうして」
悲愴が濃くなり、沈着とした声音も乱れる。
「どうしてですか、佳弥……!」
依然として佳弥は開口せず、剣呑な視線を突きつけるだけだった。
「伊織からあなたが内通者かもしれないと聞いた時はありえない、そんなことあるはずがないと反論しました。……けれど、彼の憶測とあなたの過去が結びついた瞬間、そうかもしれないと思ってしまった」
一週間前、額が執務室に籠って平介の書類仕事を半分肩代わりしていた時。伊織が来訪を告げるや否や、話したいことがあるといつになく真剣な面差しで切り出してきた。




