■第7章『鎧兜の幽霊』
トシは、カレンのことを考えた。夏休み、どう過ごしているのだろう。今、彼女は何をしているのかな、と。そう思うと、いても立ってもいられなくなる。
毎日のように学校で会えるときは、こんな気分にならなかった。いや、なっていたにせよ、胸のときめきは感じられるものの、意識はするものの、それは無理なく抑えられ静かな海流のように漂っているだけだった。そんなときはたいてい気がつかない。顔や姿が見れて、話しができて、触れることも可能なときは、なかなか気がつかない。なぜなら、気がつかなくてもいいから。それがどうだろう。いつもと状況が異なるとき、見えない、聞こえない、触れないとき、遮られ、断ち切られ、二人が離れてしまったとき、それは嵐のごとく心に吹き荒れ、大波のように押し寄せ渦巻く海流のように意識を揺さぶった。
会えたらうれしいのに。
話しができたら楽しいのに。
触ることができればもっといいのに。
なのにできない。そういうとき、彼の胸を強くしめつけ、疑心暗鬼になり、焦燥感に駆られるのだった。
トシは、寝ている弟を起こさないようにそっと部屋を出て台所へ足を運ぶ。壁際の電灯スイッチを手探りで見つけ明かりをつけると、やけにまぶしかった。そこは、夕食のにおいと家族四人の団欒の余韻がわずかに残されていた。時を刻むように水道の蛇口からこぼれ落ちる水滴の音。
時刻は、既に十一時をまわっている。
静かだ。とても静かだ。だからじっとはしていられない。
普段ならば、キッチンと食器棚の間の空間にすっぽり収まったトシの身長ほどの大きな冷蔵庫のなかを覗くのだが、お腹がすいているわけではないから、今夜はそんな気にもなれない。
視線をキッチンから反対方向へ。
隅にある木製の棚。高さは腰の辺り。その上に乗っているものに視線が止まる。それは、頭の上で両手を合わせる恰好でトシのことを待っていたかのようだった。光沢のある黒色をしたでっかいカニさんのようなもの。彼が台所へ来た理由はそれを手にすることだった。
ダイヤル式の電話。それが今、まさに「彼女へかけなよ」と訴えかけているのだ。頭のなかでトライアングルの心地よい音色が響く。
「グッド・アイデア!」
しー。静かに。音を立てるな。家族を起こしてはならない。が、彼は受話器へ手を伸ばそうと、気持ちのなかではそういうしぐさをしているつもりでも、実際は何もできずにいた。ただじっと見つめているだけだった。
トシは、軽く舌打ちした。
よくよく考えてみると電話番号を知らなかったのだ。付き合い始めたのだから番号くらい聞きだしておけばよかったものの、そういうことに不慣れな彼は、いつも学校で会えるからという気軽さもあって何も聞かずにいた。どういうわけか彼女のほうも教えてはくれなかった。結局、彼は彼女のことはほとんど何も知らなかったのだ。
クラスの誰か、親友の恵太かカツか、隣の席のちひろか。そうだ。ちひろなら彼女の電話番号くらい知っているだろう(彼女は同じバドミントン部だし)などという浅はかな考えが閃いたものの、彼女の番号など尋ねたら、次の日、クラス中に変な噂が立つに決まっている。しかも、こんな夜遅くに電話などできるわけがないじゃないか。そうして、やっぱり連絡を取るのをあきらめた。すると、今度はドラムの音が腹の底からなり始める。べードラの重たい響き。怒りの序曲。トシの苛立ちは、すぐにちひろへ転嫁された。ちひろが悪い、ちひろはブスだしな、と。
最初は目の前にカレンの笑顔があった。美しくもかわいい顔である。しかし、その笑顔はやがて変化する。まるで水面に石を投げ入れたかのごとく、波打ち、歪み、ぼやけ、そうして彼女の顔は悲しみの表情へと変化し、次にはまったく別の顔が浮かび上がってくるのであった。カレンの姿はそこにはなく、なぜか、ちひろの顔がカレンのそれと重なり、やがて入れ替わるようにしてちひろの姿がくっきりと思い浮かび上がる。最後は、彼女の電話番号を知っている自分自身に腹立たしささえ感じた。
「くそー」
電話ができないと思うと、より一層、彼女への思いがこみ上げてくるのだった。こんなことならば休みが始まる前にデートの約束でもしておけばよかった。トシは自分の不甲斐なさ、段取りの悪さ、未熟さに、かなりの苛立ちを覚えた。
すると、自分への怒りがやがて不安へとかきたてられ、疑惑へと持ち上がる。
「あのとき、誰かいた」体育館のことを思い出した。すべてが偶然、偶発的に起きた出来事だった。が、そう思えば思うほど、逆に意図的なニュアンスが強まっていった。「なぜ、彼女は」そういう気持ちになっていく。
なぜ、告白したのだろう。
なぜ、体育館へ入ったのだろう。
なぜ、彼女は立っていたのだろう。
あのときの雰囲気は決して悪くはなかった。経験のない彼にとってはそれがしごく当たり前のように思えて、かえって不自然に感じられた。
告白。
自分が誘った。いや、彼女のほうからだった。すべてが彼女から始まり、意識され、動かされ、思わされていった。予定され、計算され、コントロールされていた。
ファーストキス。
すべて上手くいったかのようだった。唯一の誤算は、彼女の胸に触れたときだ。平手打ちだった。そうだ、あのとき音がしたのだ。怪しげな物音。体育館のどこかで。誰かがいた。
手の平を見つめながら、あのときの感触と体温がぬくもりとなってよみがえってくるように思えた。その手を口元へやり、しばし考えあぐねていた。刑事か、探偵のように。あたかもシャーロック・ホームズになったような気分でいた。たいていの人は、思考力や理解力、あるいは洞察力が備わっているけれど、彼も特別な何かを感じ取っていたのかもしれない。頭の中でよぎる疑念。疑惑。いや、単にそう思いたかっただけなのだろうか。トシは、ほくそ笑んだ。「考え過ぎだよな」と。
と、次の瞬間、人の気配を感じた。台所の奥にあるサッシ扉の向こう側から誰かがトシを見つめていたのだ。「誰だ」。声にならない声だった。ここは四階。扉の向こうはベランダだ。誰かいるのか。こんな夜更けに。幽霊か。ベランダから誰かがこちらを覗いていると思うと、トシは足が震えた。確かに人の気配がした。テレビでときどき特番をやっている怪奇現象みたいなやつ。ごく普通の記念写真。なのに、木陰に見知らぬ人の顔が……。
トシは、両手を強く握り締めて緊張した。現実にあり得なくても、たとえ本当でなくても「見たり」「考えたり」「想像したり」することがいちばんの恐怖なのだ。チラリと見た感じでは何やら鎧を纏った男。幽霊写真よりもリアルな感じだ。黒色のフード付きのぶ厚いロングローブを纏い、その下に黄金色に輝く鎧兜がチラリと見える。仮面の眼は切れ長で口元は三日月形をして、薄気味悪く笑っているようでもあり、悲しそうでもあった。中世の処刑人のような、どこかで見たか会ったような、不吉な顔だった。
あのときのことを再び思い出した。用務員さんに話しかけたときのことだ。鎧兜よりもさらに恐ろしい光景を。非日常であり、事件であり、恐怖だった。老人はゆっくりとこちらを向いた。顔はトシのほうを向いていたに違いないが、眼だけは違っていた。
「そうだ。思い出した」
顔の左半分、眼の周りの皮膚が赤く焼けただれていた。赤黒い肌に白い眼が異常なほど際立っていて、眼球は血走り今にも飛び出しそうだった。何か白い無数の糸のようなものでかろうじて顔にくっついている感じ。さらに、片方の眼だけが違う方向へ。その視線の先はトシではなくもっと高い所を見上げていたように思えた。花壇にかがみ込んでいた用務員さん。その近くにトシが立ち、そして、彼の背後には校舎がそびえ立つ。が、それ以上は思い出せずにいた。いや、思い出したくなかった、という表現のほうが正しいだろう。両手で顔を覆った。思い返しただけでとても息苦しく、考えるのが苦痛になった。心臓がドクドク鳴り、呼吸が荒くなり、痛みで頭が割れそうだった。
「見るな。動くな。振り向くな」我に返ったトシは自分を諭すようにして、視線を電話機から離さずにいた。心の中で、今度、鎧兜の男と眼と眼が合ったら大変なことになりそうな予感がしたから。幽霊にせよ、怪物にせよ、何にせよ、目線さえ合わさなければ、コンタクトさえ取らなければ何事も起きないのだ。たぶん。きっと。必ず。「あー、神様」そう自分に言い聞かせてじっとしていた。すると何も起きなかった。
「やはり気のせいだ」
しばらくの間、ボー然と電話とにらめっこをしていた彼は、今度はため息をつきながら台所から自分の部屋へいそいそと引き返した。一度、引き戸を開け部屋へ入りかけたが台所の電気を消すのを忘れたことに気づき、後ずさりしてスイッチを落とした。と同時に、カレンに対する思い、心の明かりも、ぷっつり消えてしまったかのようだった。
今、一本の蛍光灯だけが机の上を照らしている。そこには開いたままのノートと重ねるように置かれた教科書とシャーペンが一本。そして、右側の奥にはポータブルラジオ。彼は机の前に座り、一呼吸置いてからラジオのスイッチを入れ、銀色のアンテナを少し伸ばし雑音が出ないようにつまみを回してチューニングを合わせる。午前一時。深夜放送が始まった。トシはラジオにしがみつくようにして聴き入った。
ラジオの向こうのDJは、石川セリ『八月の濡れた砂』をかけた後、続いて最新映画を観た感想を語った。映画になった『札幌オリンピック』のことだ。「あのときの興奮がよみがえってきてとても感動しました」。コメントしてからDJは、トワ・エ・モアの『虹と雪のバラード』を流した。そうして経つこと二時間。しかし、残念ながらこの日も彼の出したリクエストカードは読まれなかった。「今日もダメか」
DJの元には、毎日、何百、何千通ものハガキが来るという。自分のリクエストハガキが読まれるのは、なかなか難しい。ホント、夢のような話だ。いつも寝るのは夜中の三時過ぎだった。トシは寝る前にいろいろな夢を見ていたのかもしれない。夏休みの間、そんな生活がずっと続いた。
そして、その夜がついにやってきた。
夏休みの終わり、学校が始まる二日前の土曜日のことだ。
「次の曲は、三鷹市のペンネーム、トシ君からのリクエストです」
ラジオのDJがハガキを読んでくれた。ウォーッ! 彼は、狼のごとく月夜に吠えた。
「海外留学をめざして、英語の勉強に専念しています。そんな僕には、あこがれの人がいます。カレンさんです」「やった、やった」と、思わずガッツポーズ。「カレンさん、ですか。かわいい名前ですね。留学ってどこへ行くのかな?」。まずいな。怒るだろうな。自分のリクエストハガキが読まれて我に返った。彼女の名前は出さないほうが良かった……。しかし、もう手遅れだ。「カレンさんが応援してくれるといいね。英語しっかり勉強して、夢に向かってガンバってください」
リクエストハガキが読まれて、彼は満足していた。ただ、彼女がラジオを聴いていたらどう思っただろうか。一抹の不安も感じてはいた。




