■第6章『弟とラジオ』
「またラジオなんか聴いて。学校が休みなんだから、ちゃんと勉強しなさい」机に向かっていた彼の背後から、母の小言が聞こえた。「うるさいな、ちゃんと勉強してるよ」
母のほうへ振り向くようなしぐさ。実際は、後ろにいる母の姿は視野には入らず、首を少しだけそちらのほうへ向けて面倒くさそうに言い放った。
ひとりになって、耳を済ましてみる。隣町から打ち上げ花火の音が聞こえる。カーテンの隙間から窓の外を覗いた。遠くで見ると、それは風情があっていいものだけれど、ちょっぴり哀しい気分になるのはなぜだろう。
唯一、彼にとって家にいるときの救いは、ラジオだった。
夏休みの間、自宅でずっとラジオを聴きながら、英語の勉強をしていた。ただほかの子らと違っていたのは、学校の勉強でもなければ、受験勉強でもなかった。目的が違っていた。
トシには、秘密があった。まだ誰にも話していない。彼の夢。海外へのあこがれ。
まず、手の平サイズのポータブルラジオを机の横に置く。次に、英字新聞を用意する。英語の辞書も必要だ。彼の勉強法は、ラジオのFEN放送を聴いたり英字新聞を読むことだった。
FEN放送は、音楽を中心に聴くことができた。最新の全米トップ四〇ヒットをはじめ、五〇、六〇年代のオールドヒットを専門にする番組など、様々楽しめた。アメリカ人DJの英語は、発音やリスニングの勉強になった。自慢じゃないけれどラジオに耳を傾けていれば、アーチスト名や曲名くらいはすぐに分かった。
英字新聞は、世界と国内のニュースを英語で読める。特に、スポーツを読むのが楽しかった。欧州サッカーを中心に、好きな記事は興味深く読めて、試合内容やルールなど、単語の勉強になった。試合内容が分かり始めると、その場で観戦しているようなリアリティを感じた。ゾクゾクした。そうしているうちに、しだいに「本場のサッカーを生で見たい」と思う気持ちが強くなっていった。
「夢は憧れるものじゃなく、現実に引き寄せるものじゃ」
ある晩のこと、ふと、後ろを振り返ると、あの用務員さんが立っているではないか。まさかと思い、眼をパチクリさせたり、両手でこすったりしてみる。変な夢でも見ているのか。不思議に思っていると、そこにいたのは弟の正和だった。「お兄ちゃん、先に寝るね」「おまえ、今何か言ったか」「うん。お兄ちゃん、勉強がんばって」
四つ年下のマサ(いつもトシはそう呼んでいる)は、小学六年生。
トシの声質が低くて太い声に変わってもう三年経つが、弟のボーイソプラノはまるでウィーン少年合唱団みたいで結構、気に入っている。変声期を過ぎたトシとそれ以前のマサは、対位法で結ばれているのだ。いつだったか、「大人になったら何になりたい」と尋ねたことがある。すると、頬を紅色に染めて「日本の首相になりたい」とマサは瞳を輝かせた。兄は「謙虚だな」と弟の頭を撫でてやった。
毎夜、勉強をする振りをしながらラジオの深夜放送に夢中になっている自分のことを知っているにもかかわらず、マサは「勉強がんばって」とトシに一声かけて先に寝るのが日課だった。たぶん、両親にそう思わせたい、お兄ちゃんはちゃんと勉強しているよ、と安心させるために言ってくれているのかもしれない。そのことについて、別段、本人に尋ねたことはなかったけれど、親父が怒ってトシのラジオを奪い取ろうとしたときには「まあまあ、ここは落ち着いて」などと大人みたいな口調だった。兄貴思いの優秀な弟を持って何だか嬉しかったし、誇りにさえ感じることもあった。夢ばかり追いかけているトシは、弟に借りばかり作っていては兄として恥ずかしいと感じていたので、読み終えたばかりのブラッドベリの小説を貸してやった。
「お兄ちゃん、勉強がんばって」
マサの声は、トシにとってはいちばん身近な神の声、あるいは天使の声なのかもしれない。これで、ゆっくりとラジオが聴ける。少しは寝ている両親のことを意識して見つかったら怒られると心配しながらも、神の声を、天使のような美しいボーイソプラノを合図に今夜もラジオに向かうのである。彼は、天に向けて両手を握り拝んだり、神を崇めるようなことはしないにせよ、気を遣ってラジオにイヤホンをつなぎ、天使の寝顔にしばらく見とれていた。
曲のイントロが流れ始める。
(おー、いい感じ)
耳元でブッカーT&THE MG’Sの『タイム・ザ・タイト』が鳴り響き、トシはメロディを口ずさみながら、指で机を叩き、膝が揺れ、体全体でリズムを取るのであった。
(そう。その調子)
とにかく学校にいるときは恋愛のことで悩み、家では父母の小言など、ほかのことで悩む。彼には自由になれる時間や場所はなかなか見つかりはしない。唯一、夜明け前が彼の憩いのひとときだった。
「お兄ちゃん、勉強がんばって」