■第5章『学校の噂話』
トシにとって、これほど学校というものが好きに思えたことは今までにはなかった。
振り返ると、小、中学とも学校へ行くのが嫌で仕方がなかった。大嫌いだった。いつも日曜日や夏休みのことばかり考えて待ち遠しかった。それが、今では逆転した。反抗期を過ぎた少年、という感じだろうか。以前の彼には、どこかに敵を作ったり何かを否定したり、壊したりしながら、それを自分のバネにして突っ走るような、若さのひとつの象徴みたいな所が見受けられた。学校というものを最大の悪者にして、ここまで髪の毛を振り乱すように走って来たと言える。少年とはそういうものだ。でも、今は違う。とても穏やかな気持ちになれた。同じ顔、同じ姿、同じ名前の若者であっても、異名同音の響きが感じられた。立ち止まり、周囲を見渡す余裕さえできた。すべてを容認し、受け入れてもいいという大らかな気分に満ち溢れている。子どもから、少しは大人になれたのかもしれない。
恋をすると人は変わってしまう。まったく不思議だ。
井の頭公園のそば、自然に囲まれた環境に満足し、ここの学生であることを誇りにさえ思っている。トシがこの学校を選んだ理由は二つ。
たまたま自宅のそばで通学に便利だったから。
もうひとつは、留学に熱心だったこと。ここは海外留学に力を入れている。『語学だけでなく、様々な分野において世界レベルのエキスパートを育成する、グローバルな夢を実現させる教育方針』と、学校案内のパンフレットには記されていた。
トシの夢は、世界を旅すること。具体的なことは決めていない。ただ何となく。あこがれていた。少しだけ冒険心、探求心があったかもしれない。世界へ、という気持ちは(誰もが笑うかもしれないが)、数名の著名人の影響があったかもしれない。例えば、明治時代の岩倉使節団をはじめ、ドイツへ留学した森鴎外や英国留学した夏目漱石らの文豪、あるいは野口英世らのように。しかし、彼らのような尊大で真面目な気持ちは薄く、せいぜい、いろいろな国の人や生活、文化、歴史、風景を見てみたい。話がしたい。友だちになりたい、という程度だった。だからとりあえずこの学校を選んだ。
実際、二学年になれば夏休みを利用して海外で学ぶ夏季短期留学制度がある。彼にとってこの学校はグローバルというよりもサバイバルという感じだ。なんて下等な表現か。でも、本当だ。ライバルも多い。実際、夏季短期留学は旅費・宿泊費・授業料など、全額が学校側の負担とあって、男女各一名の募集に希望者が殺到し、毎回選考試験が行われる。ふるいに掛けられるわけだ。彼は無理かなと思いつつ「ガンバルしかない」と自分を奮い立たせた。
一九七二年初夏。季節は爽やかな、いいときを迎えつつある。そばにはカレン。彼女がいる。あれ以来、初夏の季節同様、二人の仲もいい雰囲気だった。 でも悩みがある。小さな悩みだが。
時間が合わない。
例えば、部活。カレンはバドミントン部。トシのほうは学校の部活には参加せずに、横浜のサッカークラブFCストライカーに所属して、毎週、土・日に横浜・関内まで練習に通っていた。学校の部活はシゴキがあるから嫌いだった。クラブのほうが自由でいい。部活には先輩後輩のキツイ上下関係もある。が、クラブは仲間意識が強くて気が楽というか、ワイワイやれる。そう思い、中学のときから毎週土・日は、横浜へ通っている。高校に入ってもそれは変わらない。彼女は毎日、放課後は部活で忙しい。彼は土・日の週末、横浜へ。 だから、週末に仲むつまじくデートする、などという甘い恋愛に発展することはなかった。いろいろ話しをしたかったが彼女はクラスの人気者。お互いゆっくりと話しをする機会に恵まれずに何週間かが過ぎ去った。「トシ君、私から離れないで。ずっとそばにいて」あのときのカレンの言葉が耳から離れない。
彼女を幸せにできるだろうか。そして今、自分自身はハッピーだろうか。なかなか時間が合わず、いろいろ考えることができる分、彼にとっては、自問自答の毎日が続いた。二人は友だち以上恋人未満。そんな関係なのかもしれない、と。
ちょうどそのころ、学校に幽霊が出る、という悪い噂を耳にした。
「この学校の伝説だよ。上級生の間では有名な話さ。強風の日、竜巻の中から人間だか怪物だか、得たいの知れない奇怪な顔が見えるって。まぁ、単なる噂話に過ぎないけれど」クラスメイトの話はそんな調子で簡単に片付けたが、トシには何か心に引っかかるものがあった。きっとそういう噂話を信じやすいのだろう。
「信じる」そして、彼は思う。「あの日、何かを見た」と。
さらに、深刻な問題がトシを襲う。
上級生の男子らが彼女を狙っているという。幽霊話とは違い、こちらは現実味を帯びていた。休み時間になると、上級生男子グループが上階から降りてきて一年生の教室を見回った。目的は明白だった。カワイイ下級生の女子を見つけては声をかけている。校内ナンパ。彼のクラスの男子の間で、そういう情報が囁かれていた。
「あいつら、また来てるぞ」
一年生男子にとっては、上級生は大きな存在だ。みんなが怖がった。文句も言えない。誰も何もできない。女の子らに「注意しろ」などと言うと「あんた、怖いの?」とバカにされるだろう。トシの場合も、カレンには何も話せやしなかった。「トシくん、自信がないのね」と言われそうだから。女の子にとっては、同級生よりも年上の男子のほうが体格もガッチリしていて頼りがいがあるから、付き合うにはいいと思うかもしれない。正直言ってある種の不安が芽生えていた。
「やつら、野球部なのにリーゼントかよ。しかも、ボンタンだぜ」クラスメイトで親友の恵太が吐き捨てるように言った。
品川恵太。トシとは音楽を通じた遊び仲間だ。ピアノが得意で、将来はバンドを組んでプロになるのが夢だ。
トシは、毎晩ラジオの深夜放送を聴いていたから、ロック・ポップスの最新情報など、恵太にいろいろな話を教えてあげることができた。例えば「ブレッドのメンバーのラリー・ネクテルがさ、サイモン&ガーファンクルの『明日にかける橋』のピアノを弾いていたんだって」恵太のほうは「ピアノだったら、ビル・エヴァンスだな」トシが感心する。「へぇー、ジャズか。ビル・エヴァンスか」「ああ、そうとも」そんな感じだ。恵太は、もっぱらジャズに凝っているようでジャズピアノを習いに行っている。そんな彼のことをみんなは「すげぇな」と、一目置いていた。
その親友の話しで上級生の正体が分かってきた。甲子園で見られるような、坊主頭や五分刈りの正統派ではない。ツッパリの不良たちだ。でも、顔つきも格好も芯が通っている。大勢いた。五人。いや、それ以上に思えた。
「かわいい子を探して食いつくすんだ。彼氏がいるとか関係ない。まるで野良犬かハイエナだぜ。学校の裏から出てきたハイエナだ。この辺って森や野原が多いから、いても不思議じゃない。甲子園めざしてがんばっていればいいのに、な」
恵太の忠告に、トシは少し動揺した。いや、かなり心配した。リスのように檻のなかでクルクル回っている気分だ。か弱く、心細く、神経質に。なぜなら、ついにカレンが標的にされてしまったから。
「カレンちゃん、あの人たちが呼んでいるわよ」
クラスの女子が、おどおどした口調で伝えた。すると彼女は無言で席を立つ。その表情は、何も書かれていない白い紙きれのようだった。
トシは、その様子をただじっと自分の席から眺めている。五人に対して彼女がどういう印象を持ったか、は定かではない。彼らに呼び出されて教室の扉越しで話すカレンの姿は、少なくとも、自分らと接するときの彼女ではないことは明らかだった。上級生に囲まれて何を話しているのか。クラスメイトらといっしょの時の無邪気な彼女とは、全く違う表情だ。年上の人についていけるように落ち着き払い、ときおり笑顔を交え深く頷き、会話を楽しむ大人の雰囲気が漂っていた。
しばらくしてから、彼らとどんな話したか、と問いただしてきた恵太が、再びトシの所へやってきた。
「彼女、今度の日曜日、野球部の試合を見に行くんだってさ」恵太の声がトシのぼんやりした頭の中へ鋭く切り込んできた。
カレンと自分のことは、もちろん誰にも話していない。親友の恵太にさえも。クラスのアイドル的存在である彼女だから、もしかしたら恵太も気があるかもしれない、という思いがあって話づらかった。いや、違う。自分の考えを改めた。中途半端な関係に満足できずに、二人の仲がもう少し発展したら親友に打ち明けようと決めていた、というのが正直なところだった。もっとも、恵太のほうは二人のことを薄々気がついていたようだ。親友同士、暗黙の了解という雰囲気だ。だからこそ、恵太は上級生らが彼女に眼をつけたことを報告してくれたのだった。
トシはいろいろ想像してみる。野球部の試合を見ている彼女。ヒットを打った上級生に拍手を送る彼女。試合に勝利した瞬間の彼女。みんなといっしょに帰る彼女。その後、どうするんだろう。彼らの誰かと親密になっていくような、そんな悪い予感がした。そう考えると、ため息しか出ない。
女の子にとって、頼りない同級生より年上の男のほうがいいかもしれない。客観的に見て、高校一年生の彼は中学生の延長みたいで、まだ子どもだろう。それに対して、高校三年生にもなれば、もう大学生に近い存在だ。まるで遠近法のようで、この差は大きい。
「辻堂君も考え事するんだ。何か悩みでもあるの?」
隣の席のちひろ――――トシの嫌いなタイプ――――ブスでネクラで、小説ばかり読んでいる――――がポツリ。ちひろは心配そうに尋ねてみたけれど、上手く相手には伝わらなかった。――――「うるさい!」トシは一喝して教室を後にした。路上の石ころをつま先で蹴飛ばしながら、帰り道、ひとり悩んで歩いた。そんな彼のことを、ちひろは教室の窓辺からそっと見つめているのだった。
(恋愛と夢。どちらを取るんだ?)
もうひとりの自分が迫って、彼を一層悩ませた。高校一年生。くだらないことで思い悩む。でも真剣だった。
自分は……、よし、自分であり続けよう。そうだ。夢を追いかけるんだ。目の前で起こる恋愛騒動に振り回されて大切なことをおろそかにしたら、きっと後悔するに違いない。
(で、どうするんだい?)
「そうだな……」自分を奮い立たせるように、忘れかけていた気持ちを思い出した。こんなとき、頼りになるのがラジオの深夜放送だ。毎晩のように局には悩み相談のハガキ、手紙が数多く寄せられている。自分も今の気持ちを書いてリクエストカードを送ろう。大好きな音楽に夢を託すんだ。今の彼ににできることはそんなことくらいだった。悩みながら、でも、一方で吹っ切ろうとしている自分がいる。
そうして、夏休みがやってきた。