■第3章『体育館にて』
「僕は、ほかのやつとは違うんだよ」
そう答えてトシはすぐに後悔した。数学の方程式は、答えはひとつ。が、この方程式は解く方法によって答えが全く変わってしまう。だから、注意が必要だった。自分の言葉の意味を彼女はどう受け止めただろうか。僕には夢がある。恋愛などしている暇などない。そういう気持ちが強かったから。女の子って苦手なんだ。それは自分に対する言い訳としてただ恋愛という二文字を遠ざけたかっただけなのかもしれない。ほかのやつとは違う、と。
「藤沢さん、僕は」
説明したかった。下唇に指を当て頭の中を整理しようとしたのだが……。
「辻堂君って、付き合っている人いるのね」
「いや、いないよ」(もしかすると、彼女は僕のことを……)ちょっと待てよ。ほかの男子らが怒るだろうな。それとも単に冗談のつもりなのか。いろいろな思いが交錯した。風船がドンドン大きく膨らんでいくように、彼の頭は今にも破裂しそうだった。
「いないって、本当?」
トシは、彼女の鋭い視線を感じた。どういうリアクションをすべきか、どうすれば上手にこの方程式を解けるか、彼にはさっぱり分からない。頭のなかの風船がどんどんしぼんでいく。
「辻堂君ってカッコ悪いけれど、私、とにかく好きよ」
彼女の言葉は、自分のことをけなしているのか、告白しているのか、よく分からなかった。「とにかく」という言葉にも引っかかった。そして、あまりに軽々しく「好きよ」などと言うから、友だちとして好きなのか、などと余計な詮索をしてしまった。誰かから聞いていた。女の子がよく使う手らしい。
そんなことを考えながら、しばらく沈黙が続く。何だか、あまりいいムードじゃない。せっかく彼女と話すチャンスなのだから、何か言わなきゃ。今、言わなきゃ、何かしなきゃ。きっと後悔する。何か、何でもいい。
「あのー」
「えっ」
「辻堂君ってやめてくれないか。トシでいいよ」
「う、うん」
こういうときは、思い切りが大切だ。誰かに見られたくない。場所を変えたい。それだけ思って必死だった。必死なとき、人はたいていのことはできてしまう。もうひとりの自分が囁く前に、そう思った。
トシのほうから一歩近づいて彼女の肩にそっと手をまわした。少しぎこちなかったけれど、両者の距離が縮まった。その行動に驚いた様子で、彼女の肩が一瞬、震えた。二人とも、かなり動揺していたかもしれない。
「行こう」
耳元でそっと囁く。
彼女は黙って頷く。
次には彼女のほうから肩を寄せてきた。トシのほうは、なりゆきまかせだ。二人とも下を向いたまま。並んで体育館のほうへゆらゆら歩き始める。ふくよかな感触が手の平に伝わってきた。彼女の肩は、結構柔らかかった。
「教室へ戻ろう」
「イヤ。二人っきりになりたい!」
彼女が立ち止まる。はて、どこへ行くか。
映画『メロディ・フェア』のように、トロッコに乗ってどこかへ。まさか学校を抜け出すわけにはいかないし、と思ったりしていると、突然、彼女のほうが近くの体育館の扉へ眼を向けた。
そうだ。あそこなら誰にも邪魔されない。そう考えて二人、寄り添いながら歩く。トシは引き戸をこじ開けようとしたけれど、とても重くてなかなかうまく開けられない。
「仕方ないわね」
彼女にも手伝ってもらい、掛け声を合わせて引き戸をこじ開け、顔を見合わせ互いに笑った。笑ったおかげで、さっきまでの体の硬さがほぐれた気がした。
「靴をぬいで」
館内は明かりがついていたけれど、誰もいない様子。空気はひんやりとして冷たかった。鼻のてっぺんに冷気を感じ、やがて肌に染み込んだ。足元から床の冷たさも伝わってくる。
「誰もいないみたいね」
彼女は、トシの耳元でそっと囁く。それから滑るように前へ進み出る。彼女の様子を伺いながら、後ろにいた彼のほうは、白いソックスの裏が汚れてしまうと余計な心配をした。
「誰もいない体育館って、ステキ」
なぜか、二度も呟いた。まさか。本当に誰もいやしないさ。彼は邪念を追い払うように話題を変えた。
「あのー、さっきの話だけれど」
「何のこと?」
「見たとか、見ないとか」
「ううん、もういいのよ」
ふと耳鳴りのような、かすかな音がしているのに気がついた。たぶん、換気扇か何か、電気系統のモーターの音だろう。トシは、息を殺すように黙った。あこがれの人と、二人っきりというのが信じられなかった。体育館の真ん中へ行き、彼女と並び、目線を時計の秒針のように動かして天井をぐるりと見渡した。
「ねぇ、何だか教会みたい。私ね、将来はイタリアのどこか田舎町の小さな教会で式を挙げられたらいいなって、いつも思っているの。みんなきっと驚くわ。ね、ステキでしょ」
彼女が瞳を輝かす。
「そうだねぇ。イタリアね。でも、ここは体育館だよ」
「そうよねぇ。ここは体育館よね」
「イタリアで式を挙げるより、僕ならばアフリカの大草原の真ん中で凧揚げしてみたいな」
「凧揚げ?」
「うん。象やキリンやフラミンゴ、シマウマやライオンだって驚くよ」
彼女は、クスっと笑った。
「それ、ステキ」
そして、鳩のように体ごと寄りそってきた。トシは、また緊張した。心臓の鼓動が館内全体に響き渡っていたかもしれない。
……。
彼女が急に無口になった。えっ、どうしたの。
「えーと」
話しが途切れて、様子をうかがう。
すると上目遣いでこちらを一度見つめた後、その視線を何気にそらす。
もしや、何かを。何かを期待している。ほんのりとした彼女の薄い唇は、心以上に何かを求めていたかもしれない。トシは、壁際に備えられた非常ボタンをなぜか押したい衝動に駆られる。
(おまえ、男だろ)
と、もうひとりの自分。黙ったまま小さく頷くトシ。
その号令に従うように、ゆっくり体を反転させて彼女の前へ出て、柔らかな肩へ両手を差し伸べた。向き合い、そして、見つめ合う。動作は意外にスムースだった。でも、気持ちは不自然に思えた。トシは、唾をのみ込もうとして喉元がカラカラに乾いていることに気がついた。
体育館全体の照明が、スポットライトのように二人を照らしている。そこで、あたらめてその美しさに驚いた。ライティングのせいか、彼女の長い髪が、薄っすらと亜麻色に見えた。とてもキレイだった。世界でいちばんキレイな髪。見つめた。すげぇ、カワイイ。また見つめた。彼は、自分の気持ちを言葉にしたかった。あこがれの人も、こちらをじっと見つめている。でも、言葉が出てこない。困った。不思議なことにわずか数秒の出来事が何時間、何年間にも思えた。例えば、五秒間を長く感じるときもあれば、一年間があっという間に過ぎてしまうこともある。時間の経過というものは、時計の針が示すものではなくて、人の感覚なのかと、このとき感じた。
もういちど、藤沢さんの両肩を握り直した。さっきと違って硬く感じられた。あ、彼女も緊張している。
トシのほうから顔をそっと近づけてみる。彼女の瞳に小さな自分が映っているのが見える。何となくヴァイオリンの音色のような哀しげな表情。
「本当にいいのか」。声には出さない言葉。それは相手に向かって放たれたのではなく、自分自身への問いかけだった。トシは心を決めなければいけなかった。
「これから先、五年、一〇年後……」そう言いかけて首を横に振った。まだ女子と付き合った経験のないトシにとって、それは永遠のものとしての気持ちの整理が必要だった。これから先、長い道のりだ。その先に待っているもの、それはおぼろげに見えているだけで、こうしてスタートを切っていいものなのか彼にはまだ信じられない。まじめ過ぎるのか、臆病なのか。ちょっと奥手で頭が固かっただけなのかもしれない。今いちど「藤沢さん」と心の中で名前を呼ぶ。そして決心する。今、この瞬間、それがすべてだと。ピチカート奏法のように気持ちは強くなっていく。
トシは彼女の口元を見つめる。でも、それは情熱的で官能的な大人のそれではなく、清純で新鮮な果実のように小粒な唇だったので、少しだけ安心した。
告白すべきか、どうか。
「でも、待てよ」言うか言わぬか。言葉は今、喉元にあるけれど、それでもなお、高くてぶ厚い堤防が気持ちをせき止めている。が、しかし心のなかの水圧は頂点に達していた。
次の瞬間。
「好きだ」
あ、言っちゃった。あっけなく堤防は決壊した。
あまりに唐突過ぎて、一瞬、自分の発した声だとは信じがたかったけれど、確かなことは恥ずかしさと興奮で心臓の鼓動が異様に激しかったこと。自分の言葉にトシ自身が驚いた。
気持ちは、全力疾走で地球を一周半し、
最後の百メートル、ルンルン気分でスキップしたりして、
満面の笑みを浮かべながら両手を上げて、ゴール!
そして、ようやく我に返ったのだった。
今、彼女の表情が変わり泣きそうになっている。かすかに濡れた瞳が星やダイヤモンドよりもきれいに見える。が、しかし二人は世界のどこかで交わされる若い男女のありきたりの会話にはしたくなかった。