■エピローグ
キーボードを打つ指の動きが止まった。
パソコンの画面をしばらく見入っていたちひろは、外の様子が気になり、カーテンの隙間から覗いてみる。辺りは暗闇に包まていてガラス窓から忍び寄るヒューヒューという不気味な風の音が耳に残った。
およそ三ヵ月間で書き上げた物語を読み返す。現実と空想が交錯し、無意識のうちにどこまでが真実か、彼女は分からなくなっていた。「仮名にしてよかったわ」何より文章からはカレンちゃんへの嫉妬心が見え隠れしてる。「そうそう。あれから新学期が始まり、投票の結果、制服は男女ともブレザーに統一されたっけ。二年に進級して、恵太君、カツ君、戸塚さん、大磯さんらは同じクラスになってみんなで喜んだけれど……」
七三年春、トシは交通事故にあった。
井の頭公園から帰宅する途中、自転車に乗った彼を左折してきた車がはねた。もうすぐ春だというのに、新学期が始まっても姿を見せなかった理由はそういうことと聞いている。
彼は、二度と戻っては来なかった。
親友のカツはトシを偲び、それまで大好きだった車から自転車へと興味を変えた。彼は、不慮の事故に遭ったトシの自転車をもらい受け、修理・改良して大切に乗った。それから放課後、音楽室から小さな音色で哀しげなメロディーが流れた。恵太が弾くピアノだった。ビル・エヴァンスほどでないにせよ、結構、上手かった。彼がピアノを奏でるときはいつも戸塚さんが寄り添っていた。
クラスメイトからは「可哀想に」「残念だわ」という声がチラホラ聞かれはしたものの、「借金で一家夜逃げした」とか「実験室で変な液体を飲んで透明人間になった」とか「死んだあとカラスに生まれ変わった」とか、トシは亡くなった後でさえ大勢から変人扱いされた。
ちひろのひとり言は続く。「もしかすると彼はどこかで生きているのではないかしら」なぜ、と聞かれても返答に困ったが、追憶の日々を思い出して女の直感が働いた。いや、少しばかり頭のなかが変調していたのかもしれない。
今、彼女なりに謎めいた物語を自身の手で解き明かそうとしていた。でも小説を書き終えたばかりで、思い出にとっぷりと浸っていた彼女にとって、現実と空想の狭間で混乱し、分別がつかなかったのは無理もない。しかも年数が経ち、記憶は断片的で茫漠としていた。
確かなことは、井の頭公園で二人して(約束の)デートした日が最期だったということ。本来ならば記念すべき七三年の幕開けになるはずだったのだが。
――――吉祥寺のサンロードでお茶した後、タンポポの種がたくさん宙を舞う公園へ。散策しながら、彼は「あこがれと好きとは違う」と言った。行き交う人たち。そのなかの一組の大学生カップルがこちらに向かって何か言ったがよく分からなかった。ちひろは「私のことは?」とトシに問う。その言葉は宙に浮いたまま。空は薄雲に覆われていたが何となく生暖かかった。
二人は歩いた。
――――彼の背後の、少し向こうに池があって一艘の古い手漕ぎの貸しボートが岸辺に乗り上げていたのを何となく覚えている。中央のキール部には木の葉やゴミくずがたくさん溜まり、汚れ、雨(あるいは雪)と池の水で三分の一ほど浸水していて(表面は藻や苔で濃い緑色に濁っていた)、それはもう何日も何週間も何カ月も、冬の間ずっと放置されたままのようだった。池の中央付近には二羽の白い鳥が浮かび、ときおり翼を広げたり水のなかに長い首を入れたり、ワルツを踊るように優雅な姿を見せていたが、突然、一羽が水面をかすめるように滑走し空高く飛んでいくと、残りの一羽も追うように行ってしまった。――――
二人は見つめた。
――――「ちひろ、僕は……」彼は何か言ったけれど、聞き取れない。電車の音でかき消されてしまった。小枝の陰から遠くのほうに木造りの桟橋がかすんで見え、横手に小さな売店があり、その前にたくさんのボートが漕ぎ手を待つように浮かんでいる。「え、トシ君、何?」彼女がまた聞き返す。「僕は行かなければいけない」そうして時は過ぎ、わずか二時間。二人の会話は途切れがちで、その穴埋めを井の頭線が果たした。「すぐ戻るから」彼は何かを決心し、急いでいる様子だった。そして、さよなら。――――
二人は別れた。
ちひろの記憶ではその程度しか思い出せなかった。
「トシ君にとって、カレンちゃんはやっぱ、アメリカそのものだったのね。自由であり、あこがれだったのよ。――――みんなが夢見ていたころ、あのときがいちばん幸せな時代だった――――傷つき、転校していった彼女の心を癒してあげようと、時空の旅に出た。彼は歴史を、世界を、時代を、変革したかったに違いないわ。それは、ジハードね。彼は聖戦を挑んだのよ」
公園に誘ったのはそこが聖なる公園であり、彼が聖戦を誓おうとしたに違いないと思った。
「ジハードの戦いを終えた彼は、過去へ戻り、竜巻が発生したときを見計らってこの世へ帰ろうとした。でも時間か場所か、私が想像もつかないような何かバグがあり、あるいはパラドックスの問題かも。だからこの世界へ戻る正確なタイミングを掴めないで、ずっと現実と夢の真ん中でさまよい続けているんだわ。――――失われた時代とともに、彼も二度と戻っては来なかった――――気のせい? いいえ、学校で竜巻のなかに誰かいるように見えたのは彼自身だったのよ」
SF小説みたいな話は信じたくはなかったが、思い出せば思い出すほど、考えれば考えるほど、幽霊話は彼女の内側奥深くへ染みついた。彼はもうこの世にはいない。それは彼が時空を旅しているからに違いない。誰もが笑い飛ばすような奇想天外な事でも、本人にとってはごく普通のまともな考え方だった。突然(人の死はそういうことが多いかもしれない)、好きな人が、初恋の人が、この世を去ったという事実を容易に受け入れられるはずもなかった。
「トシ君はもうこの世にはいない」
悲しみは、時を越え、再び大波のように彼女へ襲いかかる。ちひろは「泣かない、泣かない」と唇を噛み締めた。
クリスマスは近いというのに。
「んもー、なにメソメソしているのよ」
(十年前に亡くなった)父のことを思い起こす。世界でいちばん強い人。
「そうよ。鎧兜よ」あのときは理解できずにいたことが、今、大人になってハッキリと理解できた。人はみな、自分にふさわしい鎧兜をつけている、と。「ああ、お父さんの鎧兜は世界にひとつだけ。グロテスクだったけれどステキだった。人の価値など計算式で量りしえないけれど、そうね、十進法で下十桁のゼロを省かないと計算できないほど懐が広くて大きな存在だったわ」
ちひろは、回想しながら自問自答していく。
二人が交えた会話から、いくつものキーワードをトランプのカードみたいに並び替え、カクテルのようにシェイクしてみる。それから彼がこの世から去った年号を加えてサラダボールのなかでグルグルかき回した。――――「何か?」彼女は何をしたいのかが自分でも分かっていない。ひとりごちて、ネットで検索してみる。――――一九七ニ年が前夜であり、七三年三月は――――いまではほとんど語られなくなったが――――歴史の(あるいは時代の)大きな、しかも重要な転換期だった。
ちょうどそのとき、チャイムの音。振り返る彼女。立ち上がろうとした瞬間、彼女の膝が机の脚に触れ、その振動でパソコンの横に山積みされた小説がバサバサと音を立てて床へ崩れ落ちた。
「あら、やだ」
しかし、今はそれどころではない。こんな夜遅く、しかもクリスマスイブに誰かが家へやって来た。「まさか」子どもがお人形さんに向かって語りかけるように玄関の方へ優しく声をかけた。
「トシ君?」
何やらゴソゴソと音が聞こえる。時刻は夜八時過ぎ。「まさか!」書斎から出て恐る恐る玄関へ向かうと、暗がりのなかで赤ら顔の男がふらつきながら靴を脱ごうとしているではないか。ディケンズの幽霊ではない。ちひろは玄関の明かりを灯した。「あら、やだ」男の背後から娘のかわいい顔がのぞく。
帰ってきたヨッパライ。
「駅でお父さんに偶然会ったの。酔っ払ってるわ。風が強くて寒かったし、タクシーで帰ってきちゃった。歩くと二〇分以上かかるのに、タイムマシンのようにあっという間に……」娘の言葉を空中に漂わせておいて、ちひろは帰ってきた酔っ払いに向かって言い放った。「んもー、お父さんったら!」「クリスマスプレゼントあるから許してあげて。なーんてね」と、娘は無邪気に笑った。ちひろは舌打ちをして二人を迎え入れた。
「おまえ、うれしそうじゃないな」と主人。ぎこちなく作り笑いで応対する。ちひろは思った。「そうよね。どうかしていたわ。彼が今さら戻ってくるはずないもの。私のサンタさんは来なかった。これが現実よね」
時は過ぎゆく。
主人は夕飯も食べずにベッドで眠ってしまった。娘は風呂から上がるとまっすぐ自分の部屋へ。今ごろは、まじめに勉強しているに違いない。ちひろは書斎へ戻り、いよいよ最後の謎解きに取り掛かる。最初、パソコンの前に座って一時を過ごしたが、床に散らばった小説が気になり、一冊づつ片付けなければならなかった。まるで思い出を拾い集めるかのように。
彼女が一冊の小説を取ろうとかがみ込んだそのとき、はたと気付いた。
「トシ君が最後に言ったこと、やっぱり正しいのよ。「何かの小説にあったわ。あの人は、今の時代へ戻ろうとしているのよ。ああ、どうしよう」。後悔の念が、ちひろの体内をゆっくりと、まるで不規則に動く微粒子のブラウン運動のようにうごめいた。
「たまたま私は牧子さんとアイツの関係を知ったの。京介さんとのトラブルもあって先輩は悩んでいたっけ。だから(先輩を)助けなきゃって考えたわ。それから、自分のほうはカレンちゃんに嫉妬していたこともあって、ヤツに『あの子をモノにしちゃいなさいよ』とけし掛け……、いいえ、実際にはそんな露骨な言葉を口にはしなかったけど、たぶん気持ちはそっちへ流れていたかもしれない。ああ、チートな私……」
ちひろは「内向、内向」と言った。
「トシ君は、若い頃を思い出させようと同窓会の手紙を出し、あのころの(贖罪の)小説を書かせたのよ。『僕は生きている。この世を去ったのは実はもうひとりの自分さ』とか、『新たな風が吹くのを待っている』などと言って苦笑いするに違いないわ。そうね。時空の旅――――ジハードの戦い――――は続くのね。歴史が繰り返されるように。彼はブラックホールをすり抜け、再びこちらへ向かっているのよ」
窓の外は冬の嵐。強風が吹き荒れ、轟音とともに地上のすべてを巻き込み、大蛇のようにうごめきながら上空へ伸びていく。そして竜巻が天空へ到達したとき、暗黒の世界でビームが炸裂した。そして世界が真っ二つに割れる。それからしばらくして風がおさまると、雲の隙間からフィラメントの輝きとともに、ゆっくりと何者かが舞い降りてきた。まるで一枚の羽が大地へゆらゆら落ちてくるかのように。異世界からのメッセージを携え、彼女の元へ。
「もしかしてトシ君」
メッセージは、わずか一行だった。
――――『夜明け前がいちばん暗い』
「まさか、百眼の巨人に」などと思いつつ、彼の顔を思い浮かべてみる。初恋の人は永遠に少年だ。中年になったトシの顔・姿など想像もつかない。一方で現在の私はどう見えるかしらと、窓ガラスを見つめた。――――
「久しぶりに、どう?」
ちひろは、奇妙な顔つきで立っているトシに、思わず吹き出してしまった。




