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トシとちひろと百眼の巨人  作者: 夏木カズ
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■第2章『何かを見た』

 昼休み、なぜかトシは井の頭公園にいて、サッカーの試合をしていた。


 FAカップ準決勝、対リバプール戦。トシのいるチーム、ダービー・カウンティは敗れはしたものの、試合後、相手チームのケヴィン・キーガンが握手を求め、ユニフォームを交換してくれた。あれは一生の記念になるだろう。喜んでいると、女の子の声がした。


「ねぇ、辻堂くん」


 声の主を探してキョロキョロしていると、ダービーのキャプテン、ロイ・マクファーランドがやって来て言い放った。「オレのが欲しければいつでもやるぞ」と。「ったく。冗談じゃない」仲間のジョークに付き合う気はさらさらない。トシは声を荒げた。


「ふざけるのは、後にしてくれ!」


 顔を上げると、誰か立っている。教室の窓から差し込む日差しのせいで、まぶしさのあまり、誰だか分からず、背中越しから差し込む光が髪の毛のまわりに柔らかいビロードのような輝きを与えていて、顔の輪郭だけがクッキリしていた。


「なによ、その言い方! ふざけてなんかいないわ」


 あ、彼女だ。どうして。


 藤沢カレン。クラスの人気者。父親がアメリカ人、母親は日本人。高校一年生なのにモデルのような美貌とスタイルの良さ、目鼻立ちがスッキリしていて、どちらかというと母親似なのだろう。意識して見なければアメリカ人の血が通っているとは思えない顔立ち。亜麻色の長い髪が肩で波打ち、そして、不思議なほど色白だった。男子からはアイドルのような待遇を受け、女子からは羨望のまなざしが注がれた。原宿でスカウトされそうな――――見知らぬ男から声をかけられても微笑みながら無視するタイプの――――女の子だ。彼女の周囲にはいつもクラスメイトが大勢集まっていた。でも、特定の相手に愛想良くするのではなく、優しい微笑みをどこか遠くのほうへ向けている。ときどき美しい眼差しがトシのほうへ放たれたかのように感じてはいた。


「夢かな」心のなかでそう呟き、乱れた髪を片手で整えながら、自分の置かれた現状を早く認識しようと努めたけれど、頭の中の半分くらいはまだ眠っているようだった。


「ねぇ、目を覚まして」


 彼女は、人さし指と中指と薬指を交互に使って机の上を軽く叩き始めた。トシは、机の上へ視線を落として彼女の白い指先をマジマジと見つめた。


 薄いピンク色したつややかな爪で、先端はキチンと楕円形に切り整えられ、根元の白い半月部分も割と大きく、健康そうに見えた。有能な医者は患者の爪を見れば、生活習慣や健康状態、その人の性格や人間性までもがよく分かるらしい。


 トシもまた、彼女の指先を見つめながら想像を膨らませるのだった。実際は、彼女はトシの対応の仕方に少しイライラしていただけなのだが、彼には何かを奏でているかのように思えた。一定のリズムがあり、軽いメゾフォルテくらいの音。トシには彼女の指先がピアノの鍵盤を叩いている風に見えたのだ。


「何の曲?」トシが尋ねる。


 彼は、音楽に例えてアプローチをかけた。すると、どうだろう。彼女は魔法にでもかかったかのように、こう応えたのだ。


「何かしら。私、そういう会話好きよ」


 机を叩くのを止めて彼女は小声で言った。小さな微笑とともに。


 彼女から苛立たしさが薄れ、母親が寝ている子どもを起こすように、目の前の寝ぼけている彼にちょっぴり親近感を覚えた。


「私、好きよ」


「うん、僕も」


 会話が進むと、白くぼんやりしている頭のなかから黒い眠気が遠のいていった。彼は少しだけ自分らしさを取り戻していた。


「ねぇ、辻堂君」


 あこがれの彼女が、今、自分の名前を呼んでいる。やっぱり夢かもしれない。夢の世界から現実の世界へ。意識がハッキリとするまでに何秒かかっただろう。早く、起きなきゃ。眼をこすりながら、もういちどゆっくり見上げた。眩しい。普段、ほとんど話しを交わしたことのない彼女が、太陽のように光り輝き、目の前に立って呼んでいる。


「何か?」


 本物の太陽は、校庭の真上にあって地上のすべてに微笑んでいた。


「数学よ」


 カレンが声をかけたと言っても、真剣にではない。彼に本気で質問をするクラスメイトなど滅多にいない。彼女の場合もきっかけがただほしかっただけである。その辺は、計算済みだった。


「うーん」


 彼女と話しをする絶好のチャンスなのに、数学と聞いてどうしたものか、と思案した。計算は大の苦手だった。


「数学はどうでもいいわ。話しがあるから、ちょっと来てほしいの」


 どうやら考えを変えたらしい。でも、困った。実際のところ数学と同じで女の子も大の苦手だから。これまでまともに女の子と付き合ったことはなくて、そんなこと自慢にならないし、恥ずかしいから誰にも言っちゃいない。オドオドしたり、あせったりするダサイ姿を見せたくはない。この局面では冷静にならなければいけない。凛とした態度でのぞもう。


(そうそう。カッコつけろよ)


突然、もうひとりの自分が現れた。あまりに唐突だ。彼の頭の上で仁王立ちしている。ローマ神話に登場する頭の前後に二つの顔を持つヤヌスのように。


「うるさいな。分かってるよ」


 トシは、もうひとりの自分に対して怒りを抑えながら、でもちょっと迷惑そうな口調で話しかけた。


「今、何か言った? 何かの間違いよね」


 彼女は、(クラスの人気者であるという自覚のもと)その自分に対して不機嫌な態度で接する彼に、困惑の度を深めた。「この人、変」と思いつつも、声をかけてしまった以上、高貴な姿勢を崩さずに、なおかつ物腰の柔らかさを保ちながら再度、試みるのだった。


「話をさせてもらえないかしら」


 その間、トシは頭上で仁王立ちしているもうひとりの自分と、まるで阿波踊りの手つきのような仕草で、無言の格闘をしていた。


「やっぱり、変」と、彼女は呆れてしまった。


 周囲のクラスメイトらは、お菓子を食べながら世間話をしていたり、相変わらず教室の窓から紙ヒコーキを飛ばして遊んでいる連中がいる。いつもと変わらぬ昼休みの光景だ。


 彼女が急に声を荒げた。


「もう、こっちを向いて。私の言うことをちゃんと聞いて!」


 その声に、周囲にいるクラスメイトの数人が気づき、こちらを見て何やらヒソヒソ話をし始めた。


「わ、分かったよ」


「いいから来て!」


 周囲の目を気にしてか、彼女は起き上がろうとしたトシの腕をつかみ、強引に引っ張った。勢いのあまり、机ごと倒れそうだった。彼は怯んだ。カワイイ顔して、結構、腕力があるんだ。ものすごい力で教室から廊下の外へ引っ張り出された。何が何だかさっぱり分からない。その様子を周りにいたクラスメイトらが驚いた表情で見ている。なぜ、彼女は自分を。今はただボー然として事の成り行きに身を任せるしかなかった。


 そして、数分後。


 彼女に引っ張られるようにして、トシは校舎を出て玄関口から校庭の横にある体育館に通じる渡り廊下まで連れてこられた。息が荒れている。二人とも同じように両膝に手をつき呼吸を整えるため、しばし沈黙が流れた。すると、チャイムの音。外に出ていた生徒たちがみな、校舎へどんどん吸い込まれていく。二人は横目でみんなの後ろ姿を見送った。


 突然、校庭につむじ風が起こり、二人の視界を遮った。


 辺りには砂が散りばめてはいたけれど、校庭の中央付近だけは剥げていて土がむき出しだ。強風でその土が砂とともに舞い上がり、渡り廊下へも吹き込んでくる。トシは、その光景をただ呆然と見ていた。春風のいたずら。彼女はスカートを両手で押さえながら土ぼこりを避けようと顔を背けた。砂とともに紙ヒコーキの残骸も空中に舞っている。


「午後の授業、始まるよ」


 彼は、不安な気持ちを抑えてる。 


 彼女は、乱れた髪を整えている。


 いつも遠くから眺めていた彼女と二人っきりでいることが、かえって不自然に思えて早く教室へ帰りたかった。このまま渡り廊下を走って逃げてしまおうか。すると彼女が口を開く。


「あなた、見たでしょ?」


 数学の問題を聞きたかったはずなのに意外な展開。質問したいのはこっちのほうだよ、と彼は思わず後ずさりしてしまった。


「いや、見てなんか。そんなこと」


 何を言っていいのかさっぱり分からない。トシは、下唇に指を当て考えた。


「それで?」彼女は言った。 


 そうか。教室でときどき眼が合うと、自分はすぐに眼をそらしてしまう。それで彼女は無視されている、と思ったのだろう。トシはそう考えた。女の子に縁の薄い男にとっては好きな子と眼を合わせるだけでもかなりの勇気がいる。それが勇気という言葉で正しいのならば。


(トシ、彼女に嫌われたくないなら、カッコいいこと言わないとダメだぞ)


 もうひとりの自分がまた現れた。うざったい存在だ。そりゃ、カッコいい自分になれるならば変身したいよ。世の中、変身ブームだ。仮面ライダーのような正義のヒーローになれたらいいのに。あこがれの彼女の前で、大きくジャンプしたり、バイクでかっ飛ばしたり、悪人をバッタバッタと倒して見せたらどんなにモテるだろう。「キャー、ステキよ」なーんて抱きつかれたりして……。などと想像していたら、本当に彼女が迫ってきた。一歩。また一歩。あ、ダメ。抱きつかれたらどうしよう。もしかすると、自分に気があるのか。こういうタイプは意外に自分のようなあまり目立たない男を好むのかもしれない。そう思うと不思議と彼の内側で何かが芽生えて少しずつ育っていくのが感じられた。


「本当に見なかったの?」


 彼女は念を押すように顔を近づけて睨んだ。その距離、およそ五〇センチ。彼女の吐息が顔にかかり、トシは思わずのけぞった。


「あのとき、花壇で用務員さんに話しかけていたわね」


 昨日の出来事だった。彼女は見ていたというのか。僕たちのことを。自分が見たものと言えば、花壇と用務員さんと頭上に舞う無数の紙ヒコーキ……。


 アネモネの花が風に揺れていた。


 用務員さんが手入れをしていた。


 紙ヒコーキが頭上を飛んでいた。


 そして、老人がこちらのほうへゆっくりと振り返ったとき。そう、そのときトシの脳裏に戦慄が走った。あの大きな眼は、今にも飛び出しそうで気味悪かった。そこへ突如、たたみ掛けるように別の何か、異質なもの、まったく違う恐ろしい光景がトシの眼に飛び込んできた。自分は何か見た。確かに何かを。彼の眼はしばらく空中をさまよっていた。「用務員さんのこと」と、彼女が問う。「いや、彼じゃない」とキッパリ。「やっぱり見たんだ」彼女は言った。


 再び、校庭につむじ風。校庭のほぼ中央で小さな竜巻になって土煙が舞った。トシは彼女の背後でその光景をじっと見ていた。視線を彼女に合わせたが、意識は風に吹かれたままだった。しばらくの間、沈黙が支配した。その後、竜巻は消え、風も止み、彼女の顔に少し安堵感が戻ったようだ。


「私ね、ずっと気になっていたの。かっこつけるのと、かっこいいのとは違うの。男子は勘違いしてる。辻堂君って、授業中ポカンとしているし、昼休みはグーグー寝ているし、髪はボサボサだし、正直言って……、カッコ悪いのよね」


 彼女は肩をすくめて見せた。それから言葉を補うように急いで続けた。


「でもね、カッコつけないからいいのよ」


 トシは、こういう場合どういう態度を相手に示していいのか分からず、同じように肩をすくめて見せた。


(つまり、カッコつけないからカッコいいってことさ)


 と、もうひとりの自分がわけの分からぬことを言った。


 人気者の彼女と二人きり。渡り廊下や校庭には誰もいない。彼女を独占中だ。気持ちを落ち着かせようと耳を澄ましてみる。シチュエーションンは結構いい感じ。すると五万人のサポーターの手拍子が聞こえた。「ニッポン、チャチャチャ」いつしか大観衆が彼を応援している。そう思えるのであった。


「カッコ悪いけれど……」


 そう言って、彼女は下を向いてしまった。


 また沈黙。時間がどんどん過ぎていく。午後の授業も気になった。トシが彼女の表情をそっと覗き込もうとした瞬間、彼女は急に顔を上げ口を開いた。


「あなただけよ。無視するの。みんなは仲良くしてくれるというのに」


「あ、いや。そのー」


 彼女の両手が震えている。返事に困った。


 一体、どうすればいいのか、と今度は彼が下を向く羽目になった。


「ねぇ、私のことどう思う?」


 その言葉で思わず顔を上げると視線が合った。彼女の眼差しは険しくもあり、瞳の奥から光線が放たれているかのようにまっすぐに彼のほうを見つめていた。


 トシには次の展開が読めなかった。数学の問題よりも難題が目の前に立ちはだかっていた。しかも、すぐに回答しなければいけないのに、頭の中の回路がショートしてしまったかのようにボー然となった。


「ねぇ」


 彼女が、再び険しい表情で迫ってくる。トシはドキリとして後ずさりした。例えば、道端でお店でいろいろな場面で、女の子がよく使う――――目的に応じて声質やアクセントや表情を巧みに変えて頻繁に使われる言葉――――女の子の「ねぇ」には、男子はみなとても弱かった。


 この世には、数学よりも難しい方程式がある。古臭くて、使い古された言葉かもしれないけれど、恋愛にも、方程式やルールといったものがあるのだろうか。どうすれば上手くいくのか、がよく分からない。彼には、恋愛術みたいなものはまったく縁がなかった。しかし、前にも言った通り、正直なところ高校生にもなってまだ一度も女の子と付き合ったことがないのだ。


 トシは、昔を振り返ってみる。


 そう言えば、幼稚園のお遊戯でみんな輪になって隣の女の子と手をつないだとき、気絶しそうになったことがあった。それから小学生のとき、クラスの女の子から「大人になったら結婚しましょ」と言われてビビったりもした(子ども心ながら本心で言ったのか、単にからかっただけなのかは分からなかった)そういうことがトラウマとなっているかもしれない。PTSD〈心的外傷後ストレス障害)というわけではないけれど女の子は大の苦手だ。だから、大好きな女の子にどう接していいのか、皆目分からない。一体、何と返事をしたらいいのだろう。


 恋愛小説のようには上手くいかない。


「ねぇ、どう思っているの?」


 彼女のほうは、グズグズしている彼の態度に失望感もややあってこう思った。「もしかして、この人ダメ男かしら」と。


 しばらくの間、沈黙が続き、相手のイジイジした態度に呆れ、返事に待ちくたびれた彼女はとうとう憤慨したかのように言い放った。


「んもー、大っきらい!」

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