■第27章『旅立ちの時』
足元から力が抜けていくようだった。もうひとりの自分が(がまんしろ)と言い放つ。再び電車の通り過ぎる音が公園内に響いた。さっきよりも大きく聞こえる。それは左胸にあるポケットのなかで響いているかのようだった。
やがて音が止み、そして寂しさが余韻にしみついた。トシは黙って空を見上げた。
「お父さんがね、学校へ最後の挨拶に行ったの」
「そうか」
口に出せた言葉はその一言だけ。トシの学生服のボタンをつかみながら、彼女がまた泣き始めた。もうひとりの自分が(泣くな)と叫んでいるのに、誘われるように自然に目頭が熱くなった。
「行きたくない」
泣きながら、彼女は懸命に言葉にしようとしていた。
「アメリカなんて行きたくない」
彼のほうも、言葉に出そうと必死だ。目の前に彼女がいるのに、彼女を抱きしめられるのに、現実は違った。遠くのほうに見えた。旅立つ彼女が想像できた。ジェット機のタラップから手を振る彼女がそこにいた。
「ダメだ」
男としては、情けない言葉だったかもしれない。でも、それしか言えない。彼女が思っている以上に、彼は彼女のことが好きなのに、それを言葉にして言い表せなかった。
「行きたくない」
カレンがまた囁いた。二人の思いは、まるで枯れ葉のように風に吹かれて揺れて空へ舞い上がっていく。見上げると、シャープペンシルみたいなジェット機が赤いライトを点滅させながら南東から北北西の上空へ飛んでいくのが見えた。
やっぱり現実なんだ。
先ほどのカップルが、三〇メートルくらい離れた場所から二人を見て笑っている。井の頭公園の噂はやっぱり本当か。トシは、ここへ来たことを後悔していた。
(シャキっとしろ。かっこつけろ)もうひとりの自分が叫んだ。
「分かってるって」「え、今、何か言った?」「何でもないよ」
彼女は、ハンカチをたたみながら「もう泣かない。ゴメンなさい。本当にゴメンなさい」と、下唇をかんだ。
カレンの手にあったハンカチを無造作に取り、素早くたたんで彼女の胸ポケットに突っ込むと、もういちど彼女の髪をそっと撫でた。柔らかな手触りだった。それからひと呼吸置いて、
「電車の音、聞こえるだろ」
緑色した車体の井の頭線が吉祥寺から渋谷へ向かおうとしている。最近では、渋谷は怖い所になり、新宿は荒廃してしまった。しかし、吉祥寺は違った。新しく生まれ変わろうとしている。「さらば、名店会館」「さらば、古きよき時代」街から街へ郊外電車は走る。それは、どの緑よりも濃くて深い色だった。
トシが言った。「素敵じゃないか。旅立ちの時だと思う」「えっ」カレンは驚いた。彼は聞いた。
「もし、逆の立場ならばキミはどうする?」彼女は少し考えた後、我に返ったようにトシの顔を見つめた。「そうね。ガンバレって言うかもしれない」彼女は答えた。「新しい環境で新しい友だちができるよ」トシは励ます。カレンは頷く。
「そうね。やっぱ、アメリカへ行くしかない」
「旅立ちって、とても素敵なことだと思うな」
泣いていた彼女が、彼よりも早くシャキッとした。そして、美しい笑みを見せた。それは世界初の笑顔だった。
だから彼は、京介さんの言葉「カレンは悩んでいる」をポケットにしまい込もうとした。ところが。
「私ね、大きな過ちを犯してしまったの」
カレンの告白。が、トシは話をそらしたかった。彼女の悩みをすべて聞きだして、そのすべてを許してあげられるほど、自分は寛大な人間だろうか、と不安になったのだ。躊躇して足踏みをしてグッとこらえなければならない。果たして自分は持ちこたえられるだろうか。
彼女は続けた。
「トシ君、嫌いな人いる? 大嫌いな人」
「そうだね、(ちひろを思い出す)いるよ」
「嫌な人がいたら、どうしたらいいと思う」
「うーん、そうだなぁ」
「どう接すればいいのか、分からないわ」
「わだかまりを捨てて好きになればいい」
トシは、いつか聞いた母の教えをカレンに説いた。上手く説明できたかどうか分からなかったが、カレンは耳を傾けてくれた。話をしているとき、ちひろのことを嫌っている自分が何を偉そうに語っているのだろう、と思った。
「好きになるの?」
「うん。理解して認めてあげるっていうか、いい部分を、ね」
「そうね」
「すると、なんていうかな、気持ちが広がるっていうか、柔らかくなれるんだ」
(ちょっとクサくないか)と、もうひとりの自分が呟く。
「人を好きになるって人生の潤滑油みたいなものさ」
カレンは頷いて下を向いた。目頭に溢れた涙を人さし指でぬぐいながら。
「もし、僕に告白してきみの気持ちが軽くなって罪の大きさや負担から逃れられるのならそうしたらいい。でも、そうでないのであれば何も言わなくていいんだよ」
彼女は黙って考えていた。
「分からない。本当にごめんなさい」
「僕は思うんだ。告白しようとしてくれたこと、それ自体が素晴らしいことなんじゃないかなって(金本さんは正直に告白してくれた)」
「トシ君って、やっぱ優しいのね」
彼は、その言葉を聞いた時点で「あ、告白を取り下げたんだな」と少しがっかりした。半面、告白されずに済んだ安堵感もあり、複雑な思いがした。
「もういいよ。話さなくて」
「うん。ねぇ、トシ君。最後に聞いておきたいんだけれど、本当は誰が好きなの?」「えーと、やっぱ南沙織だろ」と言って作り笑いをする。「ズルイ。でも、トシ君らしい」黙って頷き、彼はすぐに聞き返した。
「あのさ、手紙に書いてあった『ヤツ』って、従兄のことなのか」
「違うわ」
彼は黙って頷いた。彼女はそっと瞳を閉じた。
誰もいない体育館とは違う。ここは公園。何だか怖かった。辺りを見渡した。幸いにも、さっきのカップルの姿は見えなくなっていた。再び空を見上げるとオレンジ色に染まる西の空に星がひとつ光り輝き始め、東の空はダークブルー。
そろそろ大人の時間が迫っていた。
「トシ君……」。カレンは瞳を閉じたまま彼の名を呟いた。
鳥が鳴いた。街路樹のなかで、まだ葉が落ちていない元気そうな樹木の上のほう。カラスかと思ったらゴイサギだった。
トシは思いとどまって、右手を彼女へ差し出す。
瞳を閉じていた彼女は、彼がキスしてくれるものと待っていた。最後のお別れに。ところが薄く開けてみると目に留まったのは彼の手だった。「えっ、握手なの」意外な彼の行動に、どうしたものかと考えあぐね躊躇してしまった。どうして握手を求めたのかは分からない。
彼の手。すべすべした優しい手。彼女は思い出す。最初の頃を。
昼休み、寝ぼけていた彼にアプローチをかけた。私の誘いにじれったい態度だった。ダメ男かとがっかりもした……。体育館では告白をするのに、まるで一生に一度しかないことのように切羽詰っていた。時間をかけて考えて、どうしようか迷って……。それがとても素敵に思えた。夢のようだった。そう。イタリアよ。私の夢はイタリアの片田舎にある小さな教会で結婚式を挙げること。トシ君とだったら……。
「これまでいろいろゴメンね」
彼女は、彼の手を両手でそっと包み込んだ。
さっきのゴイサギが高い街路樹の上のほうで、サイモン&ガーファンクルの『アメリカ』を歌うために羽をたたみ、辺りが暗くなるのを待っている。
一日が終わる。二人も終わる。三つ数えただけで、すべてが。




